第四章 霜天の孤影(二)

 東嘉宮。その名を聞いて、わたくしは呼吸いきがとまるかと思いました。宏基こうき殿下のお住まいに、なぜ殿下がいらっしゃるのでしょう。まさか、模擬戦で負けた腹いせに殿下を呼びつけてひどい仕打ちをなさっているのではと、青くなったわたくしに、夏陽公子は「心配ない」と手をふられました。


「あいつが自分から出向いたらしい。その上、どういうわけか客として歓待されているようだ」

「おもてむきは、ということではございませんか」

「よくわかっているではないか」


 夏陽公子は唇の端をつりあげられました。


「やはりそなたを選んで正解だった」


 どういうことかと首をかしげるわたくしに、夏陽公子は「東嘉宮に行ってくれないか」と告げられました。


「女官としてもぐりこんで、あいつの様子を見てきてほしいのだ。おれが行っても追い返されるだけだからな。あの丞相家のせがれのように」


 つまり、殿下のお側には悧才りさいさまもおられないということになります。たったおひとりで敵地にいらっしゃるも同然の殿下のことが案じられてなりませんでした。


「そなたのような若い娘を宏基に近づけるのは気がすすまんが、ほかに信のおける者がおらんのだ。きけば、そなたは医術の心得もあるとか。あいつはもともと体が弱いらしいし、もしかしたら宏基の宮で具合を悪くしているのかもしれん。だとしたらなおのこと、そなたが適任だと思ってな」

「医術の心得などとんでもござません。そのようなこと、まさか悧才さまから?」

「いや、巴公子からだ。怪我をしても花の精がかいがいしく手当てをしてくれるのだとぬかすものだから、あの日はいつもの倍もしごいてやったな」


 愉快そうにお笑いになる夏陽公子の前で、わたくしは顔を真っ赤にしておりました。殿下がそのとおりにおっしゃったはずもないことはよくわかっておりましたが、それでも面映おもはゆいことには変わりはありませんでしたわ。


「丈夫でないわりに騎馬の稽古にはよくついてきたが、無理をしていたのか、それとも……」


 さぐるような視線でわたくしの顔をひとなでされた夏陽公子は、既に何かを察しておられたのかもしれません。わたくしは内心の動揺をさとられまいと顔をふせましたが、さて、勘のよいあの方を相手にどこまで通用しましたやら。


 とにかく、わたくしは夏陽公子のお申し出をお受けしました。わたくしにとっても願ってもないことでしたから。ありがたい、と満足げにうなずかれたあとで、夏陽公子は苦い笑みを浮かべられました。


「つらい思いをさせるかもしれんが」


 もとより覚悟の上でございました。

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