第二章 緑風の客人(六)

「ひどい目に遭った」


 そうおっしゃりつつも、殿下のお声にはどことなく弾んだ響きがございました。


 夏陽公子が殿下を強引に連れ去ってしまわれたすぐ後で、悧才さまも庭におりてこられました。わたくしが事の次第をお話しいたしますと、悧才さまは無言で天を仰がれましたが、そのご様子はどことなく叔母に似ておりましたわ。


 殿下がお戻りになったのは、それから一刻ばかり後のことです。水をくれ、と、いつかのように小亭あずまやにいらっしゃったときは、わたくしもさすがにもう驚いたりはいたしませんでした。やはり髪はくしゃくしゃに乱れ、着崩れた衣の間から痛々しい打ち傷がいくつものぞいておりましたが、殿下のお顔は、以前とはうってかわって晴々としておられました。


「十回は落ちたな」


 それが打ち傷の原因でございましょう。わたくしが薬を――万事そつのない悧才さまが用意してくださっていたものです――塗ってさしあげている間、殿下はさまざまな話をしてくださいました。


 北苑の馬場まで夏陽公子が手綱をとる馬に同乗させられたこと。はじめてのぼった馬の背が思いのほか高く、その脚は風のようにはやかったこと。北苑では夏陽公子の側近だという若者たちが陽気に出迎えてくれたこと。彼らの指南ぶりが相当に荒っぽく、とにかく鞍から落ちてばかりだったこと。


 そして、仰向けに倒れたとき視界に飛びこんできた空が、途方もなく青く大きかったこと。


「忘れていた」


 ぽつりと殿下はつぶやかれました。


「空はあのように広いものだったのだな」


 そのお言葉に、わたくしは胸を突かれたような心持ちがいたしました。離宮に閉じこめられている殿下が日々見あげておられたのは、宮城の屋根に四角く切りとられた空だけだったのでしょう。


「ようございましたね」


 自然と、その言葉が口をついて出てまいりました。


「そなた」


 殿下は不思議そうにわたくしの顔をごらんになりました。


「妙なことを言うのだな。馬に乗るなど卑しい所業と思わないのか」


 すこしも、と申しあげれば嘘になりましたでしょう。賎しい、はしたないと、幼い頃から教えこまれてきたことを、おいそれと肯定するなどできませんでした。ですが、あのときのわたくしにとって、殿下の空を映す瞳が明るく輝いていてくださることが何にも増して重要に思えたことも、また事実だったのです。

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