第二章 緑風の客人(二)

「他言するなとの仰せでしたら、誓って余人にはもらしませぬ」


 本心では宏基殿下の悪行を王宮中にふれまわりたいところでしたが、宏基殿下のお人柄では、それで行いをあらためるどころか、かえって殿下への仕打ちが酷くなることが目に見えておりましたので。


「ですが、何も見なかったふりなどできませぬ。わたくしも、この宮で殿下にお仕えする者のひとりでございます。目の前であるじ様がお怪我をされているのに、ほうっておくなど……」


 あのときのわたくしは、自分で思っている以上に取り乱していたのでしょう。言いつのるうちに涙があふれてしまいました。


「小杏」


 ぼやけた視界で悧才さまが手をあげられたとき、わたくし思わず身を固くしてしまいました。たれるのではないかと、一瞬でもそう考えたことが恥ずかしゅうございますわ。悧才さまがそのようなことをなさるはずありませんのにね。


「そなたは、よい子だな」


 ああして頭をなでられたの何年ぶりでしたでしょう。額にふれた指先からやさしいお気持ちが沁み入るようでした。もし兄というものを持てるとしたら、わたくし悧才さまがようございます。その気持ちだけは、いまでも変わっておりません。


「わたしが悪かった。そう……では、次から殿下がこっそり戻ってきたら、その調子で叱りとばして傷の手当をしてくれるとありがたい。薬は好きに使ってくれてかまわない」


 わたくしは顔をぬぐいながら何度も頷きました。ああ、ですが、叱りとばすなどとてもできそうにありませんでしたが。


「そなたがいてくれて助かる。殿下は怪我をされても、いつも隠そうとなさってね」

「悧才さまにご心配をおかけしたくないのでしょう」

「いや、あれはただの意地っ張りだな」


 困ったものだ、と悧才さまはお笑いになりました。


 それにしても、許せないのは宏基殿下です。わたくし、その日の晩から、以前ひとにもらった九彩天女のお札に熱心にお祈りをするようになりました。同室の女官には良縁祈願かと散々からかわれましたが、実のところその内容は、どうかあの凶漢に神罰をお与えください、というものでした。


 若いというのは怖ろしいものですわね。つまるところ乾の王太子殿下に呪詛をかけていたわけですから、もし朋輩に見つかって密告でもされれば、わたくしの身の破滅どころか族滅も免れなかったでしょう。それとも、皆も共感して一緒に祈ってくれましたかしら。


 わたくしの願いが通じたわけではございますまいが、救いの手は思わぬところからさしのべられました。


 そのお客人が青華宮を訪うたのは、風薫る初夏の日のことでございました。

 

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