第二章 緑風の客人

第二章 緑風の客人(一)

 殿下にあのようなお怪我を負わせた相手については、しばらく後に悧才さまが話してくださいました。くれぐれも内密に、と前置きして告げられたその名を聞いて、わたくしは内心ああやはりと思ったのです。 


 乾の王太子、宏基こうき殿下です。宏基殿下のご性質は、わたくしもよく存じあげておりました。はっきり申しましょう。あれはひとに非ず、禽獣の類にございました。


 宏基殿下は、幼子の頃から虫やら鳥やらを捕まえては苛め殺すことがお好きだったとか。長じて、その矛先はお付きの女官や侍従に向かいましてね。お住まいの東嘉宮からは毎日のように怪我人が出る始末。伽に召された女官が翌朝姿を消していたことも一度や二度ではございませんでした。おもてむきは不始末をしでかして郷里に帰されたことになっておりましたが、はたしてどのような姿で帰されたのやら。


 その宏基殿下が、青華宮でひっそりとお暮らしになっていた殿下をしばしば呼びつけ、剣の稽古と称してさんざんに打ちすえているのだと聞いて、わたくし、一瞬目の前が真っ暗になりましたわ。


「どうにかなりませぬか」


 感情にまかせて口走った後で、わたくしはすぐに己の愚かしさに気づきました。どうにかできるのであれば、とうに悧才さまが手を打っておられたでしょう。


 実際、どうにもならなかったのです。口惜しいことに、乾王宮での殿下のお立場は薄氷のごとく脆く危うく、宏基殿下の要求をはねつけるなどできようはずもございませんでした。お味方でいらっしゃる羅大卿も、残念ながらこの一件では力及ばずであったのです。


「同じことは、これからも起こるだろう」


 だから打ち明けたのだ、と悧才さまはおっしゃいました。


「先に言ったように、このことはそなたの胸にしまっておくように。それから、また殿下が傷を負って帰ってこられても、騒ぎたてず、何も見なかったことにしてお通しするのだ。よいな」


 強い眼差しにうなずきかけたわたくしでしたが、すんでのところで思いとどまりました。しがない女官のわたくしにも、譲れぬものがあったのです。


「おそれながら、そのご命令には従えません」


 ありったけの勇気をかきあつめて、わたくしは悧才さまに申しあげました。

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