第一章 桃園の少女(五)

「あの、殿下」


 わたくしはためらった末にお訊ねしました。


「本当に、どなたかお呼びしなくてよろしいのですか。悧才さまを……」

「やめてくれ」


 きっぱりと殿下は拒絶なさいました。


「なんのために忍んで帰ってきたと思う。悧才……皆に無用な心配をかけたくない」

「ですが、そのお顔で戻られれば、どのみち露見いたしましょう」

「そうだな」


 殿下はそれきり黙りこんでしまわれました。眠ってしまわれたのかと思った矢先、殿下は「そなた」と声を発せられました。


「悧才の薬づくりでは、ずいぶんと頼りにされているそうだな」

「そのような……わずかばかりのお手伝いをさせていただいているだけでございます」

「謙遜せずともよい。悧才の秘蔵の薬草園にも出入りを許されているではないか」

「一部の区画だけでございます」


 それは本当でした。薬草には、ときに猛毒となるものもございます。悧才さまは、それらを慎重に分けて管理しておられました。


「そなたが入ることを許されている場所に、小指の爪ほどの黄色の花を咲かせるものはあるか。膝ほどの高さで、葉が槍の穂先のように細い」

「ございます」

「今度全部ひき抜いておいてくれ」

「えっ……」


 驚くわたくしに、殿下は顔の右半分をゆがめてみせられました。


「あれを煎じてつくる薬湯は、この世のものとも思えぬ味だ。二度と飲みたくない」


 悪戯っ子のような笑みに、わたくしもつられて笑ってしまいました。このような冗談も口になさる方なのだと、あたらしい殿下の一面を知ることができて、わたくしの胸は浮き立つようでしたわ。


「世話になった」


 それからすぐに、殿下は立ち上がって小亭を出て行かれました。まだ左頬には青あざがくっきりと浮いておりましたが、髪と衣服を整えたおかげで、ずいぶんさっぱりしたご様子でした。わたくしはひざまずいてお見送りしたのですが、垂れた頭に「小杏」とお声がふってきました。


 顔をあげると、殿下の青い瞳がひたとわたくしを見つめておられました。心なしか、はじめてお会いしたときよりいくぶん明るい、そう、真昼の空のような澄んだ双眸でございました。


「いつかは、桃の花をありがとう」


 それだけおっしゃって、殿下は立ち去られました。わたくしは、しばらくその場を動くことができませんでした。


 おぼえていてくださった。わたくしの名を、わたくしの花を。


 気がつくと、わたくしの頬には涙が伝っておりました。胸が締めつけられるように痛く、ですが、その痛みがたいそう甘やかなものであったこと、息をひきとるそのときまで忘れることはないでしょう。

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