第一章 桃園の少女(四)

「転んだ」


 何があったのかと伺いますと、殿下はすずしい顔でそうおっしゃいました。わたくし、もうすこしで「ひとを馬鹿にするのもたいがいになさいませ」と申しあげるところでしたわ。ただ転んだだけで体じゅう傷だらけになる方がどこにいらっしゃいますか。


 とにかく、わたくしは立ち去ろうとする殿下をおしとどめ、小亭の長椅子で休んでいただいている間に、悧才さまの薬草園から傷に効く葉を摘んでまいりました。悧才さまのご許可はいただいておりませんでしたが、きっとお叱りにはならぬだろうと思いましたので。


 小亭にもどると、殿下は長椅子に横たわって両手で顔を覆っておられました。ひとりになったところで、気がゆるんでしまわれたのでしょう。


「殿下」


 わたくしはそっと呼びかけて、摘んできた葉を差し出しました。


「傷にお当てください。腫れがひきます」


 殿下は薬草とわたくしの顔を順番にごらんになり、すこし顔をしかめられました。目もとがやわらいでおられましたので、たぶん微笑まれたのだと思います。頬が痛くてうまく笑顔をおつくりになれなかったのでしょう。


「ありがたい」


 横になられたまま、殿下は葉を頬に押し当てておられました。わたくしは殿下の前でひざまずいていたのですが、じきに殿下にうながされて向かいの椅子に腰かけました。主の前で席につくなど、普段のわたくしなら決していたしませんが、そのときは、殿下のおっしゃるようにしたほうがよいと思ったのです。


「どのくらいでひく」


 ぽつりと殿下がおっしゃられました。とっさに意味がわからずお返事が遅れたのですが、わたくしは「一晩ほどで」とお答えしました。


「半刻でなんとかならぬか」

「無理ですわ」


 青あざが半刻で消えるならば、それはもう薬ではなく毒の範疇でございましょう。まいったな、と殿下はため息をつかれました。

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