第七章 ロメス来襲

第七章 ロメス来襲 -1-

 シャツのボタンを留めるウィルの手を、背後から廻された白い手が押さえた。シャワーを浴びたばかりの身体から、ほのかに石鹸の香りが立ちのぼる。

「まだ、こんな時間なのにぃ」

 首筋に甘い息と媚びた鼻声を吹きかけられ、ウィルは一瞬眉を顰めた。彼は女に限らず、しつこい人間は嫌いだった。しかし顔が見えないのをいいことに、ウィルはとっておきのバリトンで付き合いはじめて半月ほどの女に応えてやる。

「俺も名残惜しいけど、息子が待ってるんでね」

 絡みつく腕をさり気なく外し、一歩前へ出て女との距離をとってから振り返る。笑みを湛えた顔からは、先ほどの険しい表情など窺う術もない。

 ウィルのつれない返事に、褐色の髪の女は拗ねたように口を尖らせた。上目遣いに睨みつけるが、ふいに表情を和らげると、意味ありげな笑みをその色白の顔に浮かべた。タオル一枚の身体をくねらせ、自分の曲線美を強調する。そうやって成熟した女であることを誇示する一方、言葉は少女のような無邪気さを装って発せられた。しかしそれは、決して言ってはならない言葉だったのだ。

「ねぇ、その子に会ってみたいわ。あなたに似てる?」

 彼女は艶っぽく笑っているつもりなのだろう。だがその裏には浅はかな打算が潜んでいるのを、ウィルはとうに見抜いていた。内心うんざりして、ほんの少しだけ口元を歪める。

 ある程度付き合いが深くなると、女たちは決まってこの台詞を吐く。はじめにウィルは「遊びだ」と正直に断るし、女もそれを納得したにも拘わらずだ。

 ウィルは女に対する愛情が急速に冷めていくのを感じた。それに呼応するように、警戒心が強まってゆく。

 しかし彼の変化に気づかない女は、自分を売り込むのに必死だ。

「あ、今度ここへ連れていらっしゃいよ。私こう見えても、お料理得意なのよ。その子の好きなもの、何でも作ってあげる」

「……そのうちな」

 そう答えると、ウィルは使い古された台詞しか言わない女を引き寄せ、最後のくちづけを与えた。口元に笑みを見せると同時に踵を返し、振り返りもせずに部屋を出る。そして扉にロックがかかるのを待ってから、盛大に顔をしかめた。

 ウィルは、自分とヴァルトラントのあいだに他人を入り込ませたくはなかった。〈地球へ還る者〉の刺客を警戒してということもあったが、なにより自分たち親子のあいだに存在を許されるのはただ一人、死んだ妻だけでなくてはならない。

 彼は妻を亡くしてからというもの、お節介な連中から「子どものためには母親が必要だ」と忠告され続けてきた。彼自身、その忠告が正しいと思った時期もあった。

 しかし結局妻への想いを断ち切ることができず、またヴァルトラントが母親を欲しがる素振りを見せないのを幸いに、寡男のまま現在いまに至る。

 しつこい人間が嫌いなウィルは、ふと自分が一番しつこい奴なのだと気づいて苦笑した。

 自嘲に顔を歪めながら、マンションのエントランスを出る。陽は中天の手前にあったが、時刻は深夜に近い。そのため住宅地となっているこの辺りは人通りもまばらだった。

 コートのポケットに両手を突っ込んだウィルは、仄温かい光を愉しみながら、閑散とした並木道を最寄の地下鉄駅までぶらぶらと歩きはじめた。

 が、しばらくも行かないうちに、何者かに行く手を阻まれた。

 立ち止まったウィルは、目の前に立ち塞がった人物に淡い色の着いた眼鏡の奥から鋭い視線を投げつけた。同時にポケットに忍ばせた護身用拳銃のグリップにそっと手を添える。

 数メートル先に立っているのは、二〇前後の若い男だった。

 完璧なまでに整った容貌を縁取る黄金の髪と、全てを見透かすようなトパーズの瞳に、ウィルは思わず目を奪われた。が、一瞬後には違和感を覚え、わずかに眉を顰めた。なぜなら、その非の打ち所がない外見とは裏腹に、若者はあまりにも風景に溶け込みすぎていた。普通これほどの容姿をしていれば、もっと周囲から浮き上がって見えてもいいはずだ。だがそうでないということは、故意に気配を消しているということだ。それは、青年が「然るべき処」で訓練を受けている可能性を示していた。

「何か用かな?」

 胡乱そうに、ウィルは長身の若者に向かって声をかけた。

 若者は友好的でないウィルの態度が意外だったようだ。杏仁形の目を見開き、丸腰であることを強調するように、ゆっくりと大きく両手を広げた。

「忘れられてしまっていたとは残念です、ヴィンツブラウト

「――!?」

 唐突に「大尉」と呼ばれ、ウィルはぱちくりと瞬きした。青年の顔をまじまじと見つめ、大尉時代の記憶を手繰り寄せる。

 ウィルの大尉時代といえば、天王星の自治が暫定的に認められ、紛争が収束しつつあった頃だ。そして彼にとって、妻を失い、〈地球へ還る者〉への復讐に駈られた、悪夢の時代でもあった。

 そんな中で出会った少年の顔が、目の前の若者の顔と重なり合った。

「トニィ……トニィ・バートランドかっ!?」

 信じられないとばかりに目を見開き、ウィルは唸るように若者の名を呼んだ。若者――トニィは、嬉しそうに顔をほころばせて肯いた。

「すまん、えらく煌びやかになったんで判らなかった。ガキの頃は、もっと薄汚れてたからなぁ。その顔は作ったのか?」

「あ、ひどい。自前ですよ。それにあのころ薄汚れてなかった子供なんて、あそこにはいませんでした」

 元少年は傷ついたとばかりに非難の声を上げる。そんな彼がふと垣間見せた幼い表情と共有する記憶によって、元大尉は目の前の若者がまさしくかつての少年だと確信できた。

「それもそうだ。あそこでは、大人も子供もボロボロだった」

 少しだけ警戒心を解いたウィルは、ゆっくりとした動作でトニィに近寄った。

 彼の意図を理解していた金髪の青年は、その場で微動だにせず彼を待つ。いま動けば、ウィルから敵とみなされる。いくら昔の知り合いとはいえ、八年近くも音信不通になっていた者を、いまのウィルはそう簡単に信用しないはずだ。その者が特殊な訓練を積んでいるとなれば、なおさらである。

 わずか数歩の間に、ウィルはトニィの全身を一瞥した。銃やナイフの類いが隠されていないことを確認して、初めてポケットから空の手を出した。並びかけると、自分と変わらない身長になった青年の目を覗き込み、懐かしそうに微笑む。そしてそのまま目で促し、再び駅へと続く道を歩きはじめた。

「で、今日は何の用事だ? 金ならないぞ」

「安月給ですけど、別にお金には不自由してませんよ」

 突然飛び出したウィルの冗談に、トニィは苦笑して返す。が、すぐに顔を引き締めると、さらりと用件を述べた。

「〈チェス・マスター〉からの伝言です。『明日、客をつれて行く。いつものチェス盤を用意して待っていろ』とのことです」

「うへぇ、勘弁してくれ。また一晩中あのオヤジ相手に、将棋させられるのかよ。俺がチェスの名人相手に、勝てるわけないだろが」

 トニィの伝言に、ウィルは頭を抱えた。

「えーと、今回はちょっと深読みされた方がいいと思いますよ。それにプレゼントも預かってるんです」

 メッセンジャーは、伝言を額面どおりに受け取ったウィルに忠告すると、素早く手首を返した。反射的に構えたウィルの手の中に、小さなケースが収まる。携帯端末用の記録媒体メディアだ。

「おまえ、あのオヤジの下についてるのか?」

 手の中のメディアを見て、ウィルは訊ねた。しかしトニィは曖昧に微笑むばかりだ。

 答える意思がないと悟り、ウィルはそれ以上言及するのを諦めた。封をした情報部員の口を開かせるのが容易ではないことぐらい理解している。軽く肩をすくめると、別の話題を持ち出した。

「ところで、俺が苦労して幼年学校に入れてやったというのに、なんで自主退学したんだ?」

 これには答えても差し支えないらしい。ちらりと質問者に目を遣ると、トニィは一呼吸おいてから答えはじめた。

「紛争で両親を亡くした僕が、オーベロンの下町でどうやって暮らしていたかご存知でしょう? ダウンタウン育ちの僕には、幼年学校なんてお上品なところは向いてないと思ったんです。それで、元々僕を拾ってくれた人に頼んで、自分に合った学校に入りなおした――と、いうわけです」

 孤児になったトニィは、天王星の衛星オーベロンの下町で、あちこちから仕入れた情報を売っては小銭を稼いで暮らしていた。独立運動に加わり諜報活動をしていた両親の影響か、トニィ自身も良質の情報を手にする才があったのだ。

 そしてそれに目をつけた〈機構軍〉情報部に拾われたトニィは、混乱の天王星を離れることとなった。その旅の途中で、彼はウィルと出会ったのである。

「そうか。余計な世話を焼いて悪かった」

 自分の面子を潰されたようなものなのに、ウィルは怒らなかった。現在いまが幼年学校を飛び出した直後ならば、張り倒すぐらいはしていただろう。だが彼はもう充分大人で、すでに情報部の一員として働いている。いまさらとやかく言っても仕方のないことだった。

 しかしトニィ自身は気が引けるのか、慌てて金の髪を左右に振って弁明した。

「いえ、僕の方こそ、連絡もせずに勝手なことをして申し訳なかったと思っています。でも後悔はしてません。この道を進むことは、貴方の奥さんへの恩返しにもなると思いますから」

「そんなことは気にするなと言っただろう。大体、フィトカが助けた命をこんな仕事で危険に晒すことが、どうして恩返しになるというんだ?」

 今度はウィルも少し機嫌を損ね、声を荒げた。自分の命と引き換えに助けた少年が、常に死と隣り合わせの諜報員として働くことなど、妻が喜ぶとは思えない。だから彼を拾ったエージェントと交渉し、将来は〈機構軍〉の士官にするという約束で、自分の庇護下においたのだ。

 ウィルと目を合わせていたトニィは、つと視線を外すと、その辺に言葉が落ちているとでもいうように目を漂わせた。そのまましばらくためらっていたが、踏ん切りがつくと重い口を開いた。

「僕自身の望みと、あの人の願いが、同じものだから――」

「おまえの望みと、フィトカの願い?」

 怪訝そうにウィルは聞き返した。妻の最期を看取ったのは、自分ではなくこの青年だった。彼女は死の間際、彼に何か言葉を遺したのだろうか。

 自分の知り得ない出来事を知っているトニィに対して、ウィルは複雑な感情を抱いた。腹の底が妙に落ち着かず、無性に苛々する。

 しかしそんな彼の気も知らず、トニィは言葉を続ける。

「はい。あの人が本当に守りたかったもの、つまり、あの人がもう守ることのできなくなった存在と、僕が自分の望みのために守りたいと思っている存在が、同じだということです」

「彼女の、本当に守りたかったもの」

 ウィルは口の中で呟いた。彼女の守りたがっているものが何か、彼には判っていた。そして自分も、同じものを守りたいと思っている。だが、それをなぜトニィが守りたいと思うのかは理解わからなかった。そもそも移民局の待合室で彼女と出会い、一時間ばかり会話しただけの者に、いったい彼女の何が理解わかるというのか。何を理解わかり合ったというのか。

「あの紛争の最中さなか、僕は二度命を救われました。一度目は自分の両親に、二度目はあの人に……」

 思いを馳せるように、トニィは柔らかく降り注ぐ木洩れ日に顔を向けた。ゆらゆらと動く葉影が、彼の表情を覆い隠した。

「初めに両親に助けられてなければ、僕はあの人の『心残り』に気づかなかったと思います。しかし、両親が僕のために命を懸けてくれた姿を見ていたから、僕はあの人の『愛する者を守りたい』という気持ちが理解わかりました。だから僕は、その彼女の願いを少しでも多く叶えたいと思ったんです」

「……その気持ちはありがたいが、大きなお世話だ。俺は自分の身は自分で守るし、息子も、もう一人の親である俺が守る。だから余計な気は遣わずに、おまえはおまえのために生きろ」

 ウィルは腹立たしげにトニィを睨みつけた。自分の中の一番神聖な場所に、ずかずかと踏み込まれたような気分だった。

 しかし青年は睨まれても臆することなく、ウィルの目を見返した。そのトパーズの瞳は、強い意志の光を放っている。

「別に気を遣っているわけではありません。初めに言ったように、これは僕の望みを叶えるためでもあるんです。たまたま僕の望みと、あの人の願いのベクトルが同じだった。それだけです」

「では、おまえの望みとは何だ?」

 苛立ちを隠すことを放棄したウィルの声は、棘に覆われていた。

「僕は両親やあの人、また多くの天王星に住む人々の命を奪った連中――〈地球へ還る者〉たちを許しません。あの確信犯たちを、どんな手を使ってでも根絶やしにするのが、僕の望みです。そして『来るべき戦い』の鍵は、貴方がたが持っています。〈機構〉が有利に戦いを進めるためには、その鍵を失うわけにはいかないんです。だから僕も、ふたりを守りたい。貴方がた父子を脅かす存在をいち早く知り、速やかに取り除く――そのためには、陰で動き回れる方が都合いいんです。そう考えて、僕はこの仕事を選びました」

「……」

 ウィルは何も言えなかった。

 〈地球へ還る者〉たちの殲滅。

 あの日――妻が死んだ日以来、彼自身も同じ望みを心に秘めてきた。それは彼の立場上、人前では決して口に出すことはできないものだ。それを堂々と口にできる身軽な青年に、表舞台で目立ちすぎて身動き取れなくなってしまった男は、激しい羨望を感じた。

 しかしトニィの望みは、いまの〈機構〉にとって危険な思想でもある。いくら共感と期待を抱いていたとしても、やはりそれを言葉として発するわけにはいかないのだ。

「やっぱり言わなければよかった」

 だがトニィは、ウィルの沈黙を反発と取ったのだろう。ふと悲しげな笑みを見せると、静かに告げた。

理解わかってもらえなくても構いません。ただ、僕は〈道を選ぶ者〉が道を誤らない限り、彼らの敵になることはない――とだけは、明言しておきます」

「……おまえが幼年学校を飛び出した時、張り倒してやれなかったのが悔やまれるよ」

 ウィルは溜息混じりに呟くと、おもむろに眼鏡を外した。そして左目尻を走る傷痕に、そっと手を当てる。

「俺は、この傷をつけた奴を忘れない」

 このひと言だけで、トニィには充分だった。

 一瞬満足そうな表情を見せた青年は、次の瞬間には目をいたずらっ子のように輝かせて言った。

「一つだけいいことをお教えします。『土星からのお客』は、利用されているだけです。彼が執拗なのは、自分の保身のために必死になってるからと、あと、『私怨』です」

「私怨?」

 ウィルは思わず聞き返したが、トニィはそれだけ言うと身を翻して立ち去った。残された者は、青年の颯爽とした後ろ姿を、複雑な思いで見つめるしかできなかった。

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