幕間:「あいつ③」

 その後も、俺は毎日お風呂に入る有海の話相手となっていた。そして、脱衣所の前に椅子を置く際、毎回水の跡を確認していた。その水の跡は着実に俺達の寝室へと着実に延びていた。そう、寝ている俺達を襲おうとするかのように……。

しかし、このことは有海には言えない。有海に言ったら、余計に怖がらせてしまうだろうから。


しかし、危惧していたことがついに起きてしまう。


そう、それは水たまり跡に俺が気づいてから1週間後のことだった。水たまりの跡はかなりの大きさとなっていた。そして、お風呂あがりの有海がついに水たまり跡に気づいてしまう。

「ちょっと! なによこれ! 昭人のいたずらだったりしないわよね?」

「いや……。有海が怖がっちゃうと思って言ってなかったんだけど、実はここ一週間その水たまり跡が存在してたんだよね……。しかも、少しずつ大きくなってて……」

「……」

有海が凍り付く。

「最近あいつの気配が感じなくなっていたからだいぶ楽になっていたのに、まさかこんなところに……」

若干涙目になっている有海は、その後の言葉を失った。



その時、俺は得体のしれない気配を感じた。そして、合わせて例の男の言葉を聞く。

『……』

「有海……」

俺は恐ろしさに震えながら、有海に言葉が聞こえたかどうか確認しようとした。

「……」

しかし、俺は有海を見て驚いてしまう。なぜなら、有海の目が見開き、俺の後ろを凝視していたからだ。

「あ……。あ……」

有海の声が意味をなさない。そのすぐあと、俺の耳にははっきりとこう聞こえてきた。

『有海……』

有海を呼ぶ男の声が響き渡る。そう、その言葉はこの世のものとは思えないほど低い声だった。

『有海……』

また聞こえた。どうやら俺の後ろから聞こえてくる。

見たくない。見たくない。だが、見なければならない。有海を苦しめてきた存在を、この目でしっかりと。

俺は後ろを振り返った。そして俺は見つけてしまった。俺がいつも座っている脱衣所のすぐ横の窓を背にそいつは立っていた。


――そいつは黒いコートを羽織り、頭までフードを被った男だった。足はしっかりとついており、足は裸足で……。ジャケットからは水が垂れていた。

顔はしっかりと見えない。その男がうつむいていたからだ。


男が一歩俺達の方へ歩み寄る。


『パシャ……』


男が足を地面につけたように見えた際、水を踏むような音が部屋に響く。


『有海……』


男が水音をたてながら近づいてくる。


『有海を……守らなきゃ……』

そう思った俺は、男をにらみつけ、男を脅そうと大声を上げようとした。


しかし、声は何かが詰まったように全く出すことができなかった。

「……」

俺は声が出せない口をパクパクとさせながら、叫んだ。


男の歩みが止まる。そして、男はうつむきながら、歯をむき出しにして笑った。

ねちゃっとしたかなり不気味な笑いだった。俺の背筋は固まる。


『……もうすぐだからね有海。待っててね』


男はそうつぶやいた後、反転した。

『パシャ、パシャ』

男が歩みを進めるたびに水音が鳴る。

そのまま男は、閉まっているはずの窓を通り過ぎ、外へと出ていった――。


一転、俺の声帯が解放される。そして俺の後ろで有海が膝をつきうなだれる。

俺は有海に向かって叫んだ。

「おい! 有海! 大丈夫か!」

「あ、あいつだよ……。あいつだよ……」

上の空の有海は下を向いたままそう頻りに呟いていた。


「有海! しっかりしろ!」

俺は何度も有海に向かって叫ぶ。


暫くすると、有海の目に光が戻ってきた。


「あ、昭人?」

彼女はそうつぶやいた。目には涙を浮かべ、体は震えていた。

「昭人……!」


有海は俺に抱き着いてきた。


「怖かったよ……」


怯えた有海は、俺の胸に顔を預け、泣き出していた。

俺は何もしゃべらず、有海をこの手でしっかりと抱きしめた。





 暫くたち、有海の容態もよくなってきた。なので、俺は有海に『あの男』について確認することにした。


「有海、悪いんだけど確認させてくれ」

俺は続ける。

「有海が上の空だった時、『あいつだよ』ってしきりに呟いていたんだ。今までにあの男を見たことがあったような言いっぷりだったけど、どういうことだい?」


有海が一瞬固まる。そして有海はこう返答した。


「うん……。実は『あいつ』は私の夢にたまに出てきていたんだ……」

「なに、夢の中に?」

俺は驚いて聞き返してしまった。

「うん……。頻度は2か月に一回ぐらいかな。昭人が『未来に行ってきた』って言ってた頃と同じ、4年前からだと思う」

有海は続ける。

「あいつを夢に見るときは、いつも私は廃ビルの中にいるんだ。そして、夢の中で私はいつもあいつに追いかけられる。捕まっちゃいけないって本能的に感じるのか、夢の中でずっと逃げ続けるんだ……。そしてついに私はあいつに追いつめられてしまう……。追いつめられる場所はいつも違う場所で、ビルの屋上だったり、階段の踊り場だったり。だけど、私はあいつに手を捉まれる直前にいつも目を覚ますんだ。まるで『この先は想像してはいけない』って誰かに悟られているみたいに」

「そんな夢を定期的に見ていたのか。何で俺に相談してくれなかったんだ」

有海の恐怖を考えると、俺は耐えられない……。だから俺は、相談をしてくれなった有海に対して少し苛立ちを乗せて発言をしてしまった。

「いや、そんな頻繁に見るものじゃないし、しかも見た後少し時間が経っちゃうと忘れちゃうんだよね。ごめんね、心配かけちゃって」

「そっか……」

俺は有海が安心するような言葉を探す。しかし、有海は言葉を続けた。

「今日『あいつ』を見て、今までに夢を見ていたことを完全に思い出しちゃった。さっきあいつが言っていた、『もうすぐだから待っててね』って、一体どういう意味なんだよ……。もしかして、夢の先のことが現実に起きるのかな……」

有海はうつむき、肩がまた震えだした。

「安心しろ、俺が守ってやる」


俺は有海を抱擁し、有海の心に俺の言葉を刻み付けるようにそうつぶやいた。

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