最終章 星の彼方 絆の果て

第一話 結実

 ざわめく音が聞こえる。


 耳元で聞こえているような気もすれば、ずっと遠く、天上から降り注ぐ雨音に似ているようにも思える。


 一種類ではない、いくつもの音が重なって聞こえるものだということは認識出来た。


 それらの音はひとつひとつは無分別で自儘で、自分以外の音のことなど気にもかけていないように聞こえるのに、合わさって耳に届く音は不思議と聞き苦しくない。それどころか心地よいとさえ思える、特定の鼓動にまつろうようにして意図せずに和音の調べを奏でている。


 ひとつひとつ全てを聞き分けられるわけではない。ただそれがなんの音であるかということはわかっていた。


 惑星クロージアの数多の生物が発する様々な精神感応力が、和音を成すものの正体であった。彼らの生命活動と共に生じる精神感応力が折り重なって、ウールディの耳に耳障りの良いBGMとして流れ込んでいる。


 今、自分がどんな体勢で、どんな顔をしているのかも判然としない。ただ全身が程よい気怠さに包まれて、そのくせ頭の隅々まで覚醒している、不思議な感覚だ。


 このまま気が済むまで、こうしていたい。そう思わせるだけの余韻に浸って――余韻って、なんの?


 ふとした疑問を切欠に、ウールディはそれまで伏せられていた長い睫毛をおもむろに開ける。まどろんだ目が最初に捉えたのは、彼女の目と鼻のすぐ先にある、ユタの切れ長の目だった。


「おはよう、ウールディ」


 薄茶色の瞳に映る彼女の顔は、寝起きらしいぼんやりとした表情のまま、うっすらとした微笑を浮かべる。


「おはよう、ユタ」


 ああ、そうだ。

 耳に届く様々な音の中でも一際私を落ち着かせたのは、彼の穏やかな息遣い。

 そのくせ早鐘を打つような心臓の音。

 そして彼の思念が発する、満足感に満ちた意識の波動だ。


「あんまりじろじろと探るな。こそばゆい」


 口ほどには恥ずかしがるでもなく、ユタもまた口の端で微笑んでみせた。


「よっぽどいい夢見てたんだな。よだれが垂れてるぞ」


 はっと右手で口元を覆うウールディを見て、ユタが「嘘だよ」と笑う。その顔があまりに愉快そうだったので、ウールディは思わず彼の胸板を拳で軽く叩いた。


「馬鹿ね」


 そしてウールディは、ふたりそろって向き合った状態でベッドの上に横たわっていることに気がついた。


 居住ユニットの寝室の天井は、相変わらず柔らかい光を一面に灯している。寝室には窓ガラスも何もないから、外の様子を目にすることは出来ない。


 だが彼女の思念は、外界にひしめいているはずのクロージアの生態系もまた、一様に快い倦怠感に身を委ねていることを感知していた。


 それこそ今の彼女と同じように。


「《オーグ》と《繋がった》、その余韻だな」


 ユタの言葉に、ウールディは小さく頷いた。


「あれからどれぐらいの時間が経ったんだろう」

「そうだな……」


 ユタがちらりとベッドのヘッドボードに頭を向けた。そこにはふたりがクロージアに降下してから経過した時間が表示された、控えめなパネル型モニタが設けられている。


「いつぶっ倒れたのか覚えてないけど。多分、丸一日ぐらいかな。」


 丸一日と聞かされて、ウールディにはたったそれだけの時間にも思えたし、一方でそんなに長い間という気もした。《オーグ》とクロージア生態系の邂逅という、巨大な波濤と波濤の衝突に翻弄され、たゆたい、荒れ狂う激流に身を委ね続けていた記憶は、彼女の脳裏にしっかりと残っている。


 彼女だけではない。ユタも、ファナも、《オーグ》に《繋がった》ヒトたち全てが、今後忘れようのない体験としてその身に刻み込んだはずだ。


 ただ身体からだの方は、時間の経過をしっかりと認識していたらしい。不意に腹の虫が空腹を訴えて、一瞬ウールディが顔を赤らめてから、やがてふたりそろって吹き出した。ひとしきり笑い終えてから、ユタがおもむろに上体を起こす。


「腹減ったな」


 床に脚を下ろし、ゆっくりと立ち上がってベッドの周りを歩き出すユタの足取りには、既に体調不良の面影はない。ウールディは彼の回復を確かめて安堵しながら、その背に声をかける。


「といっても病み上がりなんだから、なんか胃に優しいものがいいよ」

「スープとかリゾットとか? そういえばどんな食材を積んだのか、ろくに確かめてねえや」


 頭をぼりぼりと掻きながら寝室を出るユタの後を、遅れてウールディも追いかけた。


 寝室を出たすぐ脇の壁面には、料理用の現像機プリンターが嵌め込まれている。ユタはメニューを表示するホログラム・スクリーンを引き出すと、中身を確認するようにスクロールさせた。


「この現像機プリンター、改めて見てみると無駄にメニューが豊富だな。スープだけでもコーンポタージュにコンソメ、蛋花湯、鶏白湯、トムヤムクン、ラッサム、味噌汁まである」


 ユタの横から顔を伸ばして、ウールディもメニュー一覧を覗き込む。


「ほんとだ、サラダもメインディッシュも凄い数。これ、毎日違うの食べても、とても制覇しきれないんじゃない」

「おい、マクルーベまであるぞ!」


 ユタが驚きの声と共に指差した先には、確かに『マクルーベ』という料理名が記されていた。


「マクルーベがメニューに入った現像機プリンターなんて、『カナリアン・テラス』にしかないと思ってた」

「私もだよ」


 マクルーベと聞いたウールディの脳裏に、在りし日のジャランデールでの記憶が呼び起こされる。


 ファイハ邸の食堂に一同が会して囲む、食卓の真ん中に用意された、母シャーラお手製のマクルーベ。ニンニクやスパイスの香りがたっぷりで、炊き込まれた米の中にふんだんに奢られた柔らかい鶏肉にほくほくのジャガイモ、茄子に玉葱。

 大皿に盛りつけられたマクルーベを、ファナとユタが競うように取り合って、シャーラが苦笑しながら窘めている。ルスランはワイン片手に笑ってて、その隙にラセンがごっそり自分の分をよそって、その様子を見て呆れるヴァネット――


「……ヴァネットは、いなくなっちゃったのかな」


 ウールディの口から、思わずそんな言葉が突いて出た。しばしの間を置いて、ユタが言う。


「いなくなったってのは、ちょっと違うだろう」


 尋ね返すように見上げるウールディに、ユタは身体からだごと振り向いてから言葉を継ぎ足した。


「《オーグ》の中にいたヴァネットは、仮想思念だ。そりゃ仮想思念だとしても、最後に会えたのは嬉しかったけどさ」

「うん」

「確かに俺たちの知ってるヴァネットとなんら変わりなかったけど、あれはヴァネット本人じゃない」

「うん、そうだね」


 ユタのその言葉は、ウールディにしても全く同意見であった。


 ただ、たとえ仮想思念であったとしても、もうヴァネットに会うことはかなわないだろう。一瞬でも《オーグ》と《繋がった》、その中で彼女と言葉を交わした記憶が、胸の内に生じる寂寥感を駆り立てる。


 心持ち瞼を伏せて、ウールディはその事実を噛み締める。


「もう、《オーグ》はいないからね」


 たった今自分自身で発した台詞が意味するところ、言葉にした途端にその重みが急速に現実感を増して、ウールディは思わず肩をぶるっと震わせた。


「《スタージアン》も《クロージアン》も、みんな無くなっちゃった」


 現状を再認識して、思いを新たにするのはウールディだけではない。彼女の言葉に応じるユタもまた、神妙な面持ちで口を開く。


「結局、《スタージアン》の思惑通りになったってことかな」

「でも《オーグ》はこうなることを、ちっとも躊躇ってなかった。《オーグ》の思惑通りなのかもしれないよ」


《オーグ》はクロージアの生態系と《繋がった》場合に何が起こるか、彼らに考え得るあらゆる可能性を想定していた。


 その中には《オーグ》という形態を維持出来ない可能性も含まれていたが、彼らはそれを危険とは捉えていなかった。《オーグ》でいられなくなることは、その変容自体がヒトにとってのひとつの進化である――それは《オーグ》にとっては承服に値する、自明の理ですらあった。


 結局《オーグ》とは、ヒトという種が歩む途上にある、一形態に過ぎなかったのだ。


「じゃあ俺たちは、進化したばっかりの、新しいヒトってわけか」

「かもしれないね」

「そんなこと言われても、なんだかぴんと来ないな」


 釈然としない面持ちで、ユタが首を傾げる。

 彼の仕草をしばらく黙って見つめていたウールディは、突然思いついたように、とびきりの笑顔を浮かべてみせた。


「少なくとも、私は変わったよ」


 そして間髪入れず、目の前のユタの胸の内に飛び込んだ。


 彼の首に半ばぶら下がるように両腕を回して、顔を上げた先にあるユタの目を上目遣いに覗き込みながら、ウールディは「愛してる、ユタ」と告げた。


 思いがけない不意打ちにユタは軽く目を見開いて、それから小さくため息をつく。


「しまった。タイミング見計らってたのに、先を越された」

「こういうのは早い者勝ちだよ」


 ウールディの勝ち誇った、そのくせ紅潮した顔を見て、ユタが苦笑混じりに言い返す。


「勝ち負け競ってどうするんだ」


 やがてウールディの背中に回されたユタの両腕が、彼女の身体からだを力強く抱きしめる。ウールディもお返しとばかりにユタの顔を引き寄せて、全身をぴったりと密着させる。互いの頬が触れあって、目をつむっても相手の顔がすぐそこにあることがわかる。


 自らユタに想いを告げることが出来たウールディは、きっと自身の望んだ姿に進化したのだろうことを確信していた。


《オーグ》やクロージア生態系が生み出す、そこに《繋がる》者同士のこの上ない一体感。その絶対的な安心感は何物にも代えがたい、だがウールディがユタとの間に望んだ関係性とは似て非なるものであった。


 思念は言動を伴って初めて、その人の意思となる。口にして、行動に出して、その上で意思の疎通を果たして、初めて互いに絆が紡がれる。それは天然の精神感応力者であるウールディであっても変わりない。人と人との絆とは、精神感応力の有無とは関係のないところで育まれるものなのだ。


 数限りない人々の思念に触れてきたウールディが、どうして今の今まで気がつかなかったのだろう。《オーグ》やクロージア生態系との《繋がり》を経て、彼女の視界はようやく霧が晴れたかのように澄み渡っていた。


 ――だって《オーグ》の《繋がり》が消えてしまっても、みんなとの絆まで無くなるはずがない――


 ユタの腕の中に抱きすくめられながら、ウールディはそう思う。


 ――何よりも私は今、ユタとの絆をしっかりと感じている――


 ウールディが真に欲したもの。それは彼女自身と異なる、ユタという人との間に紡ぐ絆だったのである。

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