第二話 乱心(1)
テネヴェに立ち寄った
セランネ区の郊外の住宅地の一画に佇立する、立派な庭園に囲まれた一軒家風の店構え。ルスランが会合の席に予約したのは、彼がこの店を利用するときの定位置だという、中庭に突き出したガラス張りのテラス席だった。
同じ席でファナとラセン、ルスラン、そしてヴァネットが共に食事をしてから、まだ一年も経っていない。
そのことをルスランに指摘されても、ユタにはとても信じられなかった。
「僕もだよ、ユタ。あれから色んな事が一度に起こりすぎた」
呆然とするユタの顔を見て、ルスランがそう言って苦笑する。ユタが彼と会うのは数年ぶりのことだったが、冷静で穏やかな雰囲気は変わらない。ただグラスに注がれたワインを口にするルスランの、常ならば涼しげなはずの目元にはくっきりと隈が浮かび上がって、彼が相当に疲労を溜め込んでいることは明らかだった。
「忙しいのに時間を割いてもらって、なんか悪かったな」
「気にしないでいいよ。僕こそ遅くなって済まなかった」
ゆらりと掌を振るルスランの仕草にも、気のせいか切れがない。ひとつひとつの振る舞いから、尋常ではない疲れが滲み出ているように思える。
「疲れているのはお互い様じゃないか。ユタだって、スタージアからここまでひとりで『レイハネ号』を操縦してきたんだろう」
「それはまあ、誰かさんがちっとも宇宙船の操縦を覚えようとしないから、仕方なくだよ」
ユタに横目で視線を投げかけられて、ウールディが不本意そうに口を曲げる。
「九割方は自動操縦なんだから気にするなって言ったのは、ユタでしょう」
「そりゃそうなんだけどさ。仮にもあの船の所有名義はお前なんだから、少しは自分で操縦出来るようになろうとか、思わないものか?」
「
「言われなくてもわかってるよ。でも『レイハネ号』はお前がねだったもんだって、総督から聞いたぞ。自分で操縦する気もないくせに、どうしてあんなもん欲しがったんだよ」
「そんなの決まってるでしょう」
負けじと言い返すユタを、ウールディはさも当然という目つきで見返した。
「ユタが操縦するから問題ないって、そう言ったらお父様もなるほどって納得してくれたわ」
ウールディは微塵も悪びれる様子もなくグラスのワインを呷り、その様子を見てユタは大袈裟に肩を落とし、ルスランは口元に拳を当てて小さく笑う。
その声に、三人のものとは異なる、今ひとりの笑い声が被せられた。
声量こそ控えめだが、色艶の乗った耳朶に残る声の主は、銀河連邦事務局長カーリーン・ファウンドルフ。ウールディとユタに引き合わせるためにルスランがこの店に呼び寄せた《クロージアン》である。
「『レイハネ号』っていうの? 宇宙港にドック入りする映像を拝見したわ。白地にライトブラウンの縁取りなんて、可愛いデザインね」
ファウンドルフから棘のない笑顔を向けられて、ウールディもグラスを片手にしたまま屈託なく答える。
「うちで昔飼ってた犬に似せたの。全身真っ白で、耳と足先と尻尾だけ茶色だった。『レイハネ』って名前もね」
「ふさふさの毛むくじゃらで、ウールディに本当に懐いてたな」
ルスランが懐かしげに呟くと、ウールディは思いに耽るような表情と共に頷いた。
「中等院に上がるまでは、私の一番の友達だったから。レイハネは私のこと、ずっと世話のかかる妹みたいなつもりで面倒見てくれてた」
「俺はいっつも、のしかかられた記憶しかないけどな」
しみじみと語るウールディに、ユタがこめかみを掻きながらそうぼやいてみせた。
「なんか恨みでもあるのかってぐらい、しょっちゅう下敷きにされてた」
「あれは、ただ単にじゃれてただけだって。自分より小さい男の子を見つけて、遊んでるつもりだったんだよ」
「お前はレイハネの気持ちが読めるから、まだいいよ。毎度あの巨体で飛びかかってこられる身になってくれ」
今さらながらに口を尖らせるユタに、ウールディは可笑しそうに口元に手を当てつつ、ふたりで昔の飼い犬の思い出話に盛り上がる。ふたりのやり取りを、一層目を細めて眺めていたファウンドルフは、やがて唇をおもむろに開いた。
「ウールディ、あなたは動物の気持ちまで読み取れるの?」
ファウンドルフにそう尋ねられて、ウールディは瞳だけで頷きながら答える。
「レイハネのことなら、もちろん。生まれたときからずっと一緒だったからね」
「レイハネ以外の動物は?」
「レイハネ以外?」
そこで突っ込んだ質問をされると思ってなかったらしいウールディは、少し考え込むように顎先に拳を当てた。
「そうね。考えが読めるわけじゃないけど、集中して意識すれば、色んな動物がいることぐらいはわかるかも」
「そんなことまでわかるのか」
ウールディの回答を聞いて、ルスランが驚きの声を上げる。
「そいつは知らなかったな。しかしそれじゃ世の中雑音だらけで、うるさくて仕方ないだろう」
「ルスランだって大勢の人が集まる中で、いちいちひとつひとつ耳をそばだてないでしょう。それと同じだよ。たくさんいるってことがわかる程度。普段は気にも留めたことないなあ」
当然といった顔つきのウールディの黒い瞳は、だがルスランに向けられてはいなかった。黒曜石のように深い輝きを宿した眼差しは、正面で微笑を浮かべ続けるファウンドルフの顔を、見据えて動かない。
彼女のその表情の真意を、ユタには窺い知れない。ただ、そこには言葉以上の意味が込められている。その程度のことなら彼にも十分察することが出来た。
「ヒト以外の生物の思念まで知覚出来るというのなら、それは楽しいでしょうね」
ウールディの視線を受け止めたままそう口にするファウンドルフは、それまで細めていた目をゆっくりと見開いて覗かせた青い瞳に、意味深な光を湛えているように見える。
「もっともそれが犬や猫や、親しみのある動物たちなら、だけど」
小首を傾げて媚びるようですらありながら、ファウンドルフの瞳にはもはや笑みは浮かんでいない。
それどころか周囲に、いつの間にか緊張感が充満しているように思える。
むせ返りそうな空気を撥ね返すつもりで、ユタは思わずファウンドルフに呼びかけてしまった。
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