第四話 幻景の澱(1)

 一歩一歩足を踏み出す度に、サンダルの底を通じて砂の柔らかい感触が伝わってくる。


 眼前にどこまでも続く白い砂浜と、くっきりと線を分かつように広がるエメラルドグリーンの海面が静かに揺らめいている。水平線を境にしてその上には、白い雲が点在するだけの快晴と呼んで差し支えのない青空が、果てのない広がりをもって頭上を覆う。振り返れば青々とした木々がつらなって、陽射しを遮る木陰を惜しげもなく提供している。その奥にはファナに提供されたホテルが、わずかに屋根の端だけを覗かせている。


 絵に描いたようなリゾートビーチには今、ファナとラセンのふたりしかいない。


 つばの広い麦藁帽子を被って、淡緑色のワンピース姿でのんびりと砂浜を歩いて行くファナの数歩後を、半袖シャツに膝丈のパンツ姿のラセンの巨躯が追う。ふたりが砂を踏みしめる音のほかには、さざめく波音と、木立の中から時折り漏れ聞こえる小鳥の囀り以外には何も聞こえない。傍目には余暇を楽しむ男女にしか見えない光景だろう。


 だがファナの内心は、今のこの状況をとても楽しめる心境にない。


 ラセンとふたりきりでこんな楽園のようなリゾートで過ごすことを、彼女がどれほど夢見てきたことか。甘い言葉を囁き合う、なんてシチュエーションは想像出来なかったが、言葉を交わさずともふたりきりで海を見ながらの散歩なんて、長年彼女が思い描いてきた妄想そのものだ。


 本当に《オーグ》は私の心を読み取れないのだろうか。ファナの脳裏には、そんな疑念すらよぎる。


「ねえ」


 ファナはふと思いついたように足を止め、そのまま後ろを振り返った。すると彼女の後をついてきていたラセンもまた立ち止まり、無言のまま彼女の顔を見返している。


「この先って、何があるの?」


 何気ない問いかけに対して、ラセンはただその場に立ち尽くすかのように微動だにせず、大きな口だけを微かに動かした。


「ここからだとまだ林の陰で見えないが、さらに行くと崖下の岩肌で行き止まりだ。崖の上に行くには宿に引き返して、反対方向の道からでないと行けないだろう」

「そっか」


 ラセンの答えを聞いて、ファナは再び行く手に目を向けた。


 砂浜は緩やかに右に弧を描いて、その先はラセンが言うように木立に遮られている。あの木々の端の向こうへ行ったからといってどうなるわけではないが、それにしても最後は崖の下で立ち往生するしかないと知って、ファナは途端にそれ以上歩き出そうとする意欲を失った。


「ならいいや。ホテルに戻ろう」


 そう呟きながら、ファナは来た道を引き返した。彼方から点々と続く自らの足跡をたどり、そのままラセンの長身の横を通り過ぎていく。その動きにつられるようにラセンはゆっくりと顔を動かして、やがてまたファナから少し離れた後を黙って付き従う。


 ラセンはいったい、ここでもファナの保護者のつもりなのか。それとも彼女が思いもよらない行動を取らないよう、監視しているのか。


 ファナが目覚めたあの日以降、彼はこちらから声を掛けない限り自ら言葉を発することはほとんどない。ただでさえラセンは不機嫌であるとき以外の表情が読み取りにくかったのに、《オーグ》に《繋がった》彼が何を考えているのか、ファナにはもはやほとんど察することは出来なかった。


 ずっと憧れていた、ラセンとふたりきりで歩くビーチが、こんなにも味気ない、心を震わすこともないものだなんて。


 麦藁帽子のつばの陰に覆われたファナの顔には、涙を浮かべることさえ億劫そうな、渇き切った表情が張りついていた。



 ラセンの身体からだには、本来の彼の意識、思念がその中に収まっている。そう、ラセン自身がその口で告げた。


 その言葉にどれほどの意味があるのだろうと、ファナは思う。


 ラセンは同じ口で、彼が《オーグ》と《繋がった》ことを改めて明言した。《オーグ》が何者なのか、ファナには未だによくわからない。彼らの説明を信じるならば、《スタージアン》や《クロージアン》に似た、だがそれよりもはるかに規模も力も上回る、数え切れないほどのヒトと機械が融合した存在だという。その説明通りなのだとしたら、そんなとてつもない存在と《繋がった》ラセン・カザールとは、果たしてファナが知る彼と同一人物と呼んで良いのだろうか。


 ファナは今、好きな時間に目を覚まし、見たこともない美味を食み、心洗われる景色の中を散策し、好きな時間に床に臥すという日々を送っている。


 その間、ラセンは彼女と常に共にある。


 ただ、目覚めた初日のように気の利いた言動は鳴りを潜めていた。自分の身の回りのことは自分でしなくてはならない。ラセンはただそんなファナを一歩引いたところから眺めて、何か言われれば手伝うこともあるが、基本的には彼女の行動を見守っているだけだ。 もし《オーグ》と《繋がって》いなかったとして、こんな状況に放り込まれたとしたら、きっとラセンは同じように動き回るファナをぼうっと眺めているだけだろう。宇宙船の中ならともかく、船外に出た彼が他人を手伝うということはほとんどない。


 彼の振る舞いは実にラセンらしい。でも一面では全くラセンらしくないと、ファナは思う。


 砂浜から一段高いところに設けられた、ウッドデッキのテラス席の丸椅子に腰掛けながら、ファナは斜向かいの席に座るラセンに声を掛けた。


「あなたはもう、《オーグ》の平均的な人格とかじゃない、ラセン・カザールなんでしょう」

「……ああ」


 太い首の上に乗った強面が微かに頷くのを見て、ファナの口が皮肉めいた形に開く。


「そのわりに随分と私のこと、ぴったりと追い回してるのね。私の知ってるラセンは、自由な時間となったらひとりで好き勝手にほっぽり歩いてたもんだけど」

「自由時間じゃないからな」


 突き放したような物言いは、ファナの記憶にあるラセンそのものだ。だが彼の口調よりも、その内容に引っかかるものがあった。


「つまり私のことを追い回すのは、お仕事の一環てこと?」

「そうだな、そう言えなくもない」

「私がこの状況を儚んで、身を投げたりしないようにって? お生憎様、そこまで捨て鉢にはなってないよ」


 そう吐き出すように答えると、ファナは目の前の白い木製のテーブルの縁に指先を走らせた。程なくして天板中央の現像機プリンターの取り出し口から現れた、柑橘系のドリンク入りグラスを引ったくるように奪い、噛みつかんばかりにストローの口を咥える。酸味と甘さと程よい喉ごしが絶妙のバランスを織り成すそのドリンクを、ファナはこのホテルに幽閉されてから毎日のように飲み下している。


「それもあるが、本来の目的は別にある」


 ストローを啜りながら、ファナは空いた方の口角を器用に使って、ラセンにその目的とやらを尋ねた。


「何よ」

「お前が《オーグ》と《繋がら》ない、その理由を見つけ出すためだ」


 ラセンが低く呟いた言葉を耳にして、ファナの唇の端が軽く引き攣れる。その台詞は、全くラセンらしくない。

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