第二話 ヴァネットの記憶(1)

 いつまでも寝転がっていたいと思えるような、寝心地最高のふかふかのベッド。


 身体からだを横たえれば体型に合わせてクッションが音もなく沈み込み、自然とリラックスした姿勢になる。

 セットされた枕も肩や首に最も負担がかからないよう後頭部を支えて、あっという間に安眠に陥ってしまいそうだ。


 ベッドにまどろんだままのファナの視界には、半円形の壁一面のクリスタルガラス越しに、大きく迫り出した白いテラスと、その上には澄み渡った雲ひとつない青い空が広がって見える。耳を澄ませば、凪いだ海原のさざめく音が遠くから聞こえる。


 だが今のファナには、どんな穏やかな光景も心には響かない。


 虚ろな瞳に映し出されるのは、バジミール通りの空中回廊から見下ろした、飛び散った血漿の海の中で俯せになった人影の記憶。


「ヴァネット……」


 数時間前に目を覚ましたばかりのファナの目からは、渇き切っていない涙の跡が拭われないまま残っていた。


 バジミール通りの地上通路に横たわるヴァネットの姿は、ファナにとってまだ昨日の出来事のように脳裏にこびりついている。


 ファナが『バスタード号』に押しかけるように乗り込んでから五年以上、ヴァネットは文字通り手取り足取り彼女を導いてくれた師匠であり、頼れる姉貴分であり、そして肚を割って話せる数少ない友人のひとりであった。ユタやウールディと離れて暮らすようになってからは、ほとんど唯一の存在だったかもしれない。


 思慕の対象であるラセンとはまた異なる、ある意味ラセン以上に大切な人の死を目の当たりにして、ファナはベッドから起き上がろうとする気力もなかった。


(ファナ、あれからもう十日以上経っている)


 ユタの意識が囁いても、ファナは無反応だった。彼女の精神状態を正確に把握するユタは、返事がないことにも不審は抱かなかった。彼はまるで独白のように、訥々とファナの思念に語りかける。


(お前はおそらく《オーグ》に捕まって、そのホテルにいる)


 自分を捕らえたのが何者かなど、そういえば思いも至らなかった。《オーグ》という単語には聞き覚えがある。どこで、誰から聞いたんだろう。ラセンから聞かされたのか、あるいはヴァネットから――


(俺の記憶だよ。博物院長から聞かされたんだ。銀河系人類社会を呑み込もうとしている、化け物たちのことだ)


 化け物という単語を認識して、ファナの指先がぴくりと動いた。


(タラベルソの所長やヴァネットたちを狂わせたのは、みんな《オーグ》の仕業だ)


 ユタの理性は極力冷静であろうと努めているが、その言葉の裏にひそむ悲嘆や無念、そしてふつふつとした怒りは隠しようもない。弟の胸中に渦巻くやり切れない想いが、ファナの思念に痛いほど突き刺さる。


(《オーグ》がお前のことを馬鹿丁寧に保護しているのは、俺たちの《繋がる》力が目的らしい)

(……私たちの力?)


 ようやく反応を示した姉に、ユタの思念は口調を変えずに説明を続けた。


(ああ。俺たちのこの、恒星間距離を跳び越えた《繋がり》は、《オーグ》にとっても未知の力なんだとさ。俺たちはどうやら化け物からも目をつけられるような、超重要人物になっちまったよ)


 最後にはいつもの揶揄するような物言いを取り戻しながら、ユタが告げる。


(お前にはあの日から呼び掛けてたんだが、目を覚ますまで十日以上かかった。多分お前を眠らせたまま、色々と調べられてたんだろう。スタージアで俺が“タンク”に浸かっていたみたいな感じでな)


 のそりと上体を起こして、ファナは己の身体からだを見回した。自分の身体からだがどう調べられたのかという実感はない。だが身にまとっているのは、慣れ親しんだ宇宙船ふな乗り用のボディスーツにベストやショートパンツではなかった。


(何よ、これ)


 ベッドの上で座り込むファナの身を包むのは、淡い薄緑色の、無地のワンピースであった。ノースリーブの至ってシンプルなデザインだが、上質の生地であることは滑らかな肌触りからもわかる。


(お前、そんな格好するの初めてじゃないか)

(誰の趣味なの、全く)


 ファナの頭にかかっていた霞が、徐々に晴れ渡っていく。意識のない状態で身体検査からご丁寧に着替えまでされたことに気がついて、明瞭になっていく彼女の頭の中にもたげたのは羞恥心と怒りであった。


(人が気絶している間に好き勝手してくれて、《オーグ》ってのはむっつり顔の変態ね)


 不平たらたらのファナに、ユタの思念からは安堵の感情が伝わった。ファナの意識が正常とは言えずとも、多少は持ち直したことに安心したのであろう。ファナだって本音を言えばヴァネットの悲劇を悼み続けたいところだが、このままベッドの上で陰々滅々としているのは、彼女本来の性分に合わない。


 ごしごしと涙の跡を拭ってからベッドの下に素足を下ろしたファナは、そろりと立ち上がって周りを見回した。


「どこよ、ここ」


 淡い草色の、いかにも高級そうなカーペットが敷き詰められた広々とした室内には、ファナが寝ていたキングサイズのベッドのほかには木製の小洒落た丸テーブルに籐椅子が二脚、あとは壁際の化粧台を兼ねた長机が据えつけられている。煉瓦調の壁は白一色で統一されているが、その中で化粧台の脇の黒塗りのドアが際立って見えた。

 ファナがドアに近づいて手を触れると、音もなくスライドして隣室が姿を現した。どうやらリビングと覚しきその部屋は、寝室よりもさらに一回り広い。中央にはチャコールグレーのローテーブルを挟むように、これも籐製のソファが向き合っており、奥の壁には立派な現像機プリンター付きのカウンターまで設けられていた。右手には寝室と同じく壁一面がクリスタルガラスに覆われて、外の景色を楽しめるようになっている。窓の外にテラスが広がるのも同様だ。

 左手には洗面所や浴室と、その先の通路の突き当たりには、先ほどくぐり抜けたものと同じく黒塗りのドアがあった。


「どこかのホテルっぽいかな」


 それもおそらくリゾートホテルの類いだ。この場所を確かめることの出来るものがないか視線を巡らせたファナは、程なくしてローテーブルの上に添え物のように鎮座する彼女愛用の端末棒ステッキを目に捉えた。早速手に取った端末棒ステッキをひと振りすると、このホテルの案内が記されたホログラム映像が映し出される。そこから読み取れたのは、ここがスレヴィアでも最高級で鳴らす超一流ホテルであるということであった。


 総面積七十平米キロメートルに満たない小島に居を構え、美しい海に囲まれた自然を堪能出来る屈指の行楽地として、ファナも耳にしたことのあるホテルだ。一度は訪れてみたいと夢想したことはあるものの、まさかこんな形で利用することになろうとは思わなかった。


《オーグ》がこのホテルを選んだ理由は明らかだ。どんなに快適な環境であろうとも、このホテルが建つ小島から逃走することは容易ではない。ファナの健康を保全しつつ、確実に幽閉するという目的のために選ばれた、理想的な監獄というわけだ。


(よほどお前は貴重なサンプルってことだな)


 ユタの呟きを耳にして、ファナはわずかに唇の端を歪めた。


(最高級待遇の囚人ってこと?)

(拗ねるなよ。少なくともお前のことを、ぞんざいに扱う気はなさそうだ)

(どうかな。食事を見ないことにはまだなんとも言えないな)

(どうせならせいぜい贅沢三昧、我が儘放題言ってやれ)


《オーグ》の配慮を突きつけられて、ファナの口からは乾いた笑いしか出てこない。


 こんな絶海の孤島に閉じ込められなくとも、逃げ出す気力など湧くわけがなかった。ヴァネットの死はまだ鮮明な記憶として彼女の脳裏に焼きついている。


(私が最初から大人しく捕まっていれば、ヴァネットは死なずに済んだかもしれない)


 空中回廊から跳び立とうとしたファナを追って、ヴァネットはバランスを崩して落下した。エレベーターの手摺りベルトにしがみついていたときに、背後のはるか下から響いて聞こえた鈍い音を、ファナは一生忘れないように思う。


(逃げるよう促したのは俺だ。お前だけの責任じゃない)


 ユタの声はファナを慰めるためだけに発せられたものではなかった。彼もまた、深い悔恨から抜け出し切れていない。そのことが痛感出来るからこそ、ファナはそれ以上ヴァネットの死について言葉にしようとはしなかった。


 一方で触れずにいたくとも、触れずにいられないこともある。


 ワンピースの裾を翻しながら窓際に近寄って、外の景色を眺めてみる。抜けるような青い空の下、水平線を挟んで眼下に広がるのは、ファナの短い髪の一部を染めるエメラルドグリーンよりも鮮やかで深い、濃緑の海。手前には人気のない白い砂浜がテラスの手前前で迫り、きっとここを散歩したり泳いだりして一日を過ごせば、普段の疲れなど吹き飛んでしまうだろう。


 だがファナの肩にのしかかるのは、親しい者の死というおよそ日常生活から遠くかけ離れた出来事であり、そして――


「目が覚めたか、ファナ」


 不意に背後から聞き慣れた太い声をかけられて、ファナはすぐには反応することが出来なかった。毛足の長いカーペットを踏みしめる、男の足音が徐々に近づいてくる。そのうちに肩に手を掛けられでもしたら、どんな顔をして良いかわからない。意を決したファナは、それでもおそるおそる振り返った。


 視界に入ったのは、膝までかかる黒いローブを羽織った、天井に届きそうな巨躯。鳥の巣の如き無造作に伸び散らかした黒髪は、相変わらず大きなはずの両眼まで覆い隠している。そのせいでただでさえ厳つい表情がますます読み取りづらくて、強面具合を強調する。さっさと散髪しろと、ヴァネットはよく叱っていたものだ。


「ラセン……」


 初めて出会ったときから、双子の弟と一緒に救われたときから、彼女が想い慕い続けてきた、だが今は《オーグ》という化け物に取り憑かれてしまった男の名が、ファナの唇の隙間から零れ落ちた。

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