第四話 ウールディはお姉さん(4)

 ウールディにとってファナとユタが中等院に入学して以後の日々は、それ以前の一年間に比べれば天と地ほどの差があった。


 院内に対等に口を利く相手がいることが、彼女にとってどれほどの救いとなったことか。休憩時間には少なくとも二人の内のどちらかが、ウールディに顔を見せに来る。そして講義の終業後には三人揃って帰宅するのが常であった。同級に友人と呼べる存在がいない状態は相変わらずだったが、もはやウールディの足が中等院から遠のくということはなくなっていた。


 それからさらに一年余りが経ち、ウールディもファナもユタもそれぞれ進級すると、彼女を取り巻く環境はさらに変化を見せるようになった。一言で言えば、男子の態度が替わり始めたのである。


 通学を再開して以来、ウールディは級友と接触を持たず孤高を保ってきた。それがファナとユタの入学によって、束の間でも垣間見せることになった彼女の感情豊かな表情が、思春期の男子たちをいたく刺激したらしい。


 そもそも入学当初から人目を引く容貌だったウールディだが、少女から少しずつ大人へと成長しつつある彼女の美しさは、年齢と共に開花しつつあった。


 入学当初から変わらない、長く艶やかな黒髪を一本に結わいて背中に垂らすヘアスタイルが飾る卵形の褐色の小顔に、凜とした輝きをたたえた大きな黒い瞳、鼻梁の通った鼻筋、軽く引き結ばれた肉感のある唇。そして未だユタを上回るすらりとした長身は、徐々に成人の女性らしい丸みを伴いつつある。彼女が街中を歩けば、道行く人々の大半が振り返ると言っても、あながち冗談には聞こえない。


 それにしてもウールディの精神感応力に対する畏れにも勝る異性への関心の強さというものには、呆れを通り越して感心するしかない。彼女に好意を寄せる男子の大半は、二年前には自ら彼女を遠ざけていた輩ばかりなのである。彼らの厚顔無恥ぶりはウールディにとって、遠巻きのままの級友たちよりもよほど軽蔑の対象であった。


「恥知らずって言葉を知らないのかしらね、あいつらは」


 憤然と語るウールディに、ファナは冷やかし半分の笑みを返す。


「相手にしなけりゃいいんだって。院生の本分は勉強よ、勉強。じゃあ資料館寄ってくから、先に帰ってて」

「ひとりじゃ危ないからユタと待ってるよ。まあ程々にね」


 中等院に進学してからのファナの勤勉ぶりは際立っていた。普段の講義はもちろん、終業後も資料館にこもり続けるのもざらであった。同時に体力も必要とあって、日々の鍛錬も欠かすことがない。それは賞賛に値するのだが、ウールディもユタも彼女のトレーニングには毎朝毎晩付き合わされるのだけは勘弁願いところであった。


「あいつ、昔からファザコン気味のところあるからなあ」


 ファナを待つ間、院内の中庭のベンチでふたりして腰掛けながら、ユタは短い髪を掻きながらそうぼやいた。


「前に話したろう、養護施設の所長のこと。所長のおっさんに懐いてたのは、本当は俺じゃなくてファナの方だからな」

「うん」


 ウールディは頷きながら、この一年間で垣間見たファナの深層心理を思い返す。ぶっきらぼうだがその実面倒見の良い所長を、幼い頃のファナがどれだけ慕っていたか。そしてその想いが、あの大途絶グランダウンによって無残に打ち砕かれてしまったか。


「あいつが髪伸ばしてたのって、おっさんが髪が長い女が好みだからなんだぜ」


 そう語るユタの横顔にもまた、彼自身が抱えるやり切れなさがよぎっていた。


「それがいきなり《繋がり》だのなんだの言い出して、おかしくなっちゃったからな。俺たちを捕まえて倉庫に放り込んだ当人が、そのおっさんなんだ。あのときのファナはえらくショックを受けて、本当にヤバかった」

「……そこに現れた救世主が、ラセンだったってわけね」

「救世主っても、俺たちが無理矢理頼み込んだんだけどさ」


 ウールディの言葉に苦笑しながら、ユタが鼻の下を指で擦る。


「もちろんラセンには無茶苦茶感謝してる。けど、あいつの場合はそれ以上なんだよ」

「ファナが髪を切ったのは、所長さんのことを吹っ切れたってことなのかな」


 そうかもしれないし、ただジャランデールの暑気を嫌っただけなのかもしれない。それはファナが自分で口にしない限り、おそらくはっきりとしないことだろう。人の心は想像以上に不明瞭で、あやふやなものであるということは、よく知っているつもりだ。当たり前のように触れてきたファナの想いについて、ウールディは断言するつもりはなかった。


「少なくとも俺の場合は、暑いからだぜ」


 そう言ってユタが指差す彼の頭を、ウールディが細い指でぽんと叩く。


「いいんじゃない。ユタは頭の形がいいから、結構似合ってるよ」

「だろう? 俺も結構気に入って……」


 照れ笑いを浮かべていたユタの顔が、唐突に険しい表情に切り替わった。そのままベンチから勢いよく立ち上がった彼の目は、資料館のある方向を睨みつけている。


「ファナ!」


 ユタの思考を読み取ったウールディも、つられて腰を上げる。その瞬間にはもう、ユタはその場から駆け出していた。数歩遅れて、ウールディも彼の後を追う。


 閉館間際で人気のない資料館に、飛び込むように駆け込んだふたりが目の当たりにしたのは、閲覧室の壁を背にしたファナと、彼女を取り囲むふたりの男女だった。


 一見して不穏な状況にあるファナを見て、ユタは彼女の名を叫ぶような真似はしない。スピードを殺さずに一直線に駆け寄ったユタは、ふたりのうち大柄な少年の背中に向かって無言のまま、躊躇いもせず飛びかかった。そこへまるで示し合わせたかのように――実際、思念を通じてタイミングを測っていたのだが――ファナが渾身の力を込めて少年の身体を突き飛ばす。


「てめ……」


 一瞬体勢を崩した少年は、次の瞬間には背中にユタの跳び蹴りを食らって、派手な音を立てて閲覧室の床に突っ伏した。呻き声を上げながら立ち上がれない少年を一顧だにせず、最後に現れたウールディが呆然とした顔の少女につかつかと歩み寄る。


「ベルタ・マドローゾじゃない。私の妹に手を出そうとは、いい度胸ね」


 急激な状況の変化に追いつけず、ベルタと呼ばれた少女はぽかんと口を開けたまま、三人の顔を慌ただしく見比べた。手入れの行き届いた亜麻色の髪を両肩に垂らして、小鹿のようにつぶらな紺色の瞳の、余裕を持って笑えば十分に可愛らしいだろう丸顔の少女だ。

 ウールディがベルタを知っているのは、単に彼女が同級だからに過ぎない。


「ウールディ・ファイハ? どうしてここに……」

「そんなことどうだっていいでしょう。問題はあなたが、ファナに何をするつもりだったのかってことよ」

「ウールディ、とりあえずなんともなかったんだから」


 少年に握り締められていた二の腕の辺りをはたきながら、ファナが冷静になるよう呼び掛ける。だが自身ならまだしも家族同然の存在に向けられた暴挙に、ウールディの怒りが収まるはずもなかった。


「駄目、ここはとことん問い詰めておかないと。二度とこんなことしでかさないように」


 言うや否やウールディは両手を伸ばし、ベルタの両肩をがっしりと、まるで逃げ出すのを封じるかのように掴みかかる。そのままの姿勢で、大きな黒い瞳が相手の両目を覗き込んだ。未だ醒めやらぬ激情がたゆたう瞳から放たれた視線は、ベルタの瞳孔を貫いて、さらにその奥まで見通すかのように深々と突き刺さった。


「やめて、そんな目で見ないでよ!」


 抉るような視線に不安を感じたベルタが、両肩を掴む手を振り払うように身をよじる。するとウールディは抵抗もせずにぱっと両手を離し、やがて不自然なほど穏やかな口調で語りかけた。


「……ふーん、そうか。あなた、トレッヴィー・ハエルのことが好きなのね」


 ウールディに指摘されて、ベルタの紺色の瞳がぎょっと見開かれる。だが彼女の態度などまるで無視しながら、ウールディの唇からは淡々と言葉が吐き出されていった。


「彼、女子の間では人気あるらしいね。そんな彼と仲良くなろうと頑張り続けて、ようやく親しくなれたと思った矢先に、私に言い寄るところを見かけてしまってショックを受けました、と」


 抑揚のない口調で内心を読み上げられて、ベルタの表情は露骨に歪んでいった。


「しかも私が全く相手しなかったのが、余計に許せなかった。でも私には直接文句を言えないから、たまたま見かけたファナに言いがかりをつけようって……」


 そこまで口にしたところで、ウールディはそれまでの張り詰めた表情を一変させて、呆れ果てた顔で呟いた。


「馬鹿馬鹿しい。完全に八つ当たりじゃない」

「だから、何よ!」


 全てを暴露された上にため息までつかれて、怒りと羞恥に塗れたまま、ベルタはほとんど泣き叫ぶように言い返す。


「私が一番トレヴのこと好きなのに! あなたなんかちょっと綺麗なだけで、本当は陰で魔女って呼ばれてるくせに! どうしてトレヴは、あんたなんか……」


 ベルタが口にした『魔女』という言葉に反応したのは、それまで黙ってウールディの背後にたたずんでいたユタであった。


「見当違いに当たり散らす女よりは、魔女の方がなんぼかだよなあ」

「なんですって!」


 ユタのぼやきに、激したベルタが泣き腫らした顔のまま睨み返す。だが実際に彼の頭をはたいたのはウールディだった。


「あなたは一言余計なの」と言い捨ててから、ウールディは腰に手を当てて再びベルタに向き直った。


「言っとくけどね。トレッヴィー・ハエルはやめといた方がいいよ。あいつ、真性のマザコンだから」

「え? マザ……何?」


 唐突な忠告を受けて、ベルタは涙でぐしゃぐしゃになった顔に理解出来ないといった表情を浮かべる。困惑する彼女に向かってウールディはさらに口を開きかけて、だが突然目を見開いて後ろを振り返った。


 彼女の目に映ったのは、伸されていたはずの男子が鼻血を垂らしたままゆらりと立ち上がって、背中を向けているユタへと今まさに拳を振り下ろそうという光景だった。


「ベルタを泣かしてんじゃねえぞ!」


 その声に気づいたユタが振り返ったのと彼の前にウールディが飛び出したのは、ほぼ同時だった。


 側頭部に強烈な衝撃を受けて、ウールディの細い身体からだが閲覧室の床に勢いよく投げ出される。ファナが彼女の名前を叫びながら駆け寄る。ユタが怒号と共に男子に飛びかかる。ベルタは両手で口元を押さえたまま、動き出すことも出来ない。


 頭上を混乱が飛び交う中、ウールディは冷たい床に身体からだを横たえたまま、いつの間にか意識を失っていた。

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