第五話 復讐の檻に迷い入る(4)

 父親がカナリーにイシタナへの帰国を促す理由は、もちろんわかっている。国外の人材も積極的に招聘してきたミッダルトには、外縁星系コースト出身の人々も多い。そのせいかジャランデールの暴動以降、連邦通商局ミッダルト支部前でもたびたび抗議運動が展開され、その都度保安部隊が蹴散らすという光景が繰り返されている。ジェスター院内の空気も、今や繕いようもなく険悪だ。

 そして先日のパレード事件である。ひとり娘のカナリーが身の上を心配されるのは、むしろ当然だろう。昨夜も父親からの三度目の連絡船通信が届き、そこには早急に帰国するよう強い文面のメッセージが残されていた。


 だがカナリーは、未だに返事を返せないままでいる。


 ジェスター院で学びたいことは、まだ沢山あった。そもそも彼女は卒業後も院に残って、ゆくゆくはジェスター院の導師となることを夢見ていた。ここで帰国したらその夢を諦めることになるというのは、彼女が帰国を躊躇う立派な理由のひとつだ。


「ジェスター院を退学するんじゃなく、イシタナのどこかの院に転籍すればいい」


 モートンに真顔でそう提案されたカナリーの顔は、まるで頭から冷水をぶちまけられたかのように青ざめていた。


「……何よ、それ」

「イシタナの院で導師の資格を取って、状況が落ち着いたらまたジェスター院に戻る。ジェスター院ここに残ったまま導師になるよりはハードルは高いかもしれないが、可能性は十分ある」

「そういうことじゃなくって!」


 激したカナリーが、両手でテーブルを叩きつける。振動で卓上の料理やグラスが派手な音を立てて踊り出したが、幸いにして被害は皿から零れ落ちたフライドボールひとつで済んだ。


 ミッダルトの繁華街の、かつてはシャレイドも含めた三人で、今はふたりで通い詰める馴染みのダイニングバーで、カナリーもモートンも若干のアルコールに浸っていた。


「そんなこと、私だってわかってるよ。でも!」


 周囲の人々からの視線を集めていることがわかっても、カナリーは声量を抑えることが出来なかった。


「モートンは私に、そんな逃げ出すような真似をしろって言うの?」

「カナリー、身の安全を優先することは、何も恥ずかしいことじゃない」

「だって!」


 カナリーは思わず掴みかかりたくなるのを懸命に堪えつつ、モートンの顔を睨みつける。


「じゃあ、モートンもそうしたらいいじゃない。ジェスター院ほどじゃなくても、テネヴェならいくつも名の知れた院があるし」

「カナリー」

「そうだ、私もテネヴェに行く。一緒にテネヴェの院に転籍しよう。それがいい」


 良案を口にしたつもりのカナリーが、一転して喜色満面で身を乗り出す。だが彼女を見返すモートンの切れ長の目は、深々と伏せられていた。


「俺はジェスター院の特待生として学費を免除されている。途中で転籍するとなったら、ここまでの学費を全部払わなくちゃいけない。うちの実家にそこまでの余裕はない」


 悲しそうに首を振るモートンを見て、今度こそカナリーは絶望的な表情を浮かべた。


「そんな、それじゃ……」


 涙腺が緩むのは、アルコールのせいだ。本当の私は、こんなに涙もろくない。頬に涙が伝う感触を感じて、カナリーは自分に対してそんな風に言い訳する。だからこれから口にする台詞も、きっと酔いがなせる業なのだ。


「モートンと一緒に卒業出来ないってこと……?」


 その言葉を口にしてしまったら、カナリーはもう感情の抑制が効かなくなってしまった。

 ぽろぽろと涙を流す彼女を、モートンは驚いた顔で見返している。言葉が途絶えたふたりに合わせるように周囲の客たちの会話も止まり、固唾を呑んで見守っている様がありありと伝わってくる。陽気な楽曲ばかりが店内を満たす中、ついにいたたまれなくなったカナリーはそのまま無言で立ち上がり、涙を拭いながら店を飛び出した。


 モートンの声が背後から追いかける気がしたが、立ち止まることなくカナリーは駆け出していた。


 日は既に暮れているとはいえ繁華街の大通りは照明に満ちて、道行く人影もまだ多い。擦れ違う人々から、涙目で駆けるカナリーに向かって好奇の目が投げかけられる。だが彼女はそんな視線を気に掛ける余裕もなく、ただ当てもなく走り続けていた。


 モートンは私と離ればなれになってもいいんだという、拗ねた子供のような感傷が、彼女の心を捉えていた。同時に、モートンと離れたくない、それが帰国を躊躇う一番の理由だということを、今さらのように思い知らされていた。


 そんなことは、最初からわかりきっていたことなのに。


 モートンにまであんな風に帰国を促されて、様々な感情が一気に溢れ出してしまった。彼がカナリーの安全を第一に考えていることはわかっているのだ。


 それでも、もっと違う一言を期待してしまったのは、勝手すぎるのだろうか。


 街中を駆け抜けていく内にひんやりとした夜風に頬を撫でられて、昂ぶった感情も少しずつ収まっていく。ようやく足を止めたカナリーは、店に上着を置きっ放しにしてしまったことに気がついた。アルコールの酔いも引いて、興奮が冷めた今、外気が少々肌寒い。


 カナリーが両肩を抱えながら身体からだを震わせていると、やがて後ろからぬっと彼女の上着が差し出された。同時にモートンの声が、息を切らしながら背中に届く。


「忘れ物だ。その格好じゃ、さすがに寒いだろう」


 モートンの大きな手から大人しく上着を受け取ると、カナリーは袖を通しながら無愛想に呟いた。


「シャレイドならこういうとき、きっと黙って上着を肩に掛けてくれるよね」

「気が利かなくて悪かったな」


 肩を竦めているだろうモートンの顔を、カナリーはまともに見返すことが出来ない。


「よく追いつけたね」

「今まで散々お前に振り回されながら、付き合ってきたんだ。この程度で振り切れると思うなよ」

「だったら、どうして」


 顔を見たら、また感情が抑えきれなくなってしまう。カナリーはモートンに背を向けたまま、尋ねた。


「あんな、簡単に帰れなんて言うの」


 切実な響きを伴ったカナリーの問いかけに対して、モートンからの返事はなかった。


 時間にすればほんの一瞬のはずの沈黙が、背中にずしりとのしかかる。カナリーが耐えきれずに再び口を開きかけたその瞬間、長い両腕が彼女の顔の左右から差し出された。あっと思う間もなく、左右の腕が目の前で交差して、カナリーの両肩を掴む。そのままカナリーを背中から抱きしめながら、モートンはようやく言葉を口にした。


「簡単じゃない」


 出来る限り優しく包み込もうとしているのだろう。だがかえって両腕が強張っているところが、いかにもモートンらしかった。


「俺だって、お前と一緒にいたいと思う」


 モートンは、一言ずつ噛み含めるようにして言葉を繰り出す。


「でも、シャレイドに言われてるんだ。カナリーのことを頼むって」

「……シャレイドが?」

「お前にもし何かあったら、俺はもう、シャレイドに顔向け出来ない」


 そしてカナリーの身体からだの前に回されたモートンの両腕に、少しだけ力が込められた。


「何より、俺が耐えられないよ」


 カナリーの栗毛頭の上で囁かれるモートンの言葉が、心なしか震えているように聞こえた。


「イシタナなら、少なくとも今のミッダルトよりははるかに安全だろう。例え離ればなれになっても、無事でいればまた会える。いや、絶対に会いに行く」


 モートンはそのまま押し黙り、カナリーは後ろから抱きすくめられたまま、ふたりとも動き出そうとはしなかった。


 辺りには夜の街を照らし出す街明かりが充満している。人通りの多い街中で立ちすくむふたりの姿を、通りすがりの他人が時折り一瞥して、過ぎ去っていく。モートンの体温を背中に感じながら、いつしかカナリーは両手で彼の腕を握り返していた。

 せめてこうして、このときだけでもカナリーを繋ぎ止めることが、モートンにとっての精一杯だったのだろう。彼女を包み込む長い腕からも、モートンの内心の葛藤が、肌を通してじわりと伝わってくる。


 彼の腕を掴んで離さないまま、カナリーは努めて明るい口調で、言った。


「その前に、私がテネヴェに会いに行くよ」


 それはモートンの精一杯に対する、カナリーなりの誠実な態度だった。


「その代わり、テネヴェでは美味しいお店に連れてってよね」

「……もちろんだ。約束するよ」


 そう言ってモートンは、深く息を吐き出した。モートンの唇はカナリーのこめかみ近くに寄せられて、耳元を掠める吐息がくすぐったい。彼女を抱きしめる両腕に一層の力が入って、心なしか息苦しい。それでも、今この時間がいつまでも続くことを、カナリーは切に願ってやまなかった。


 せめて、青い瞳からどうしようもなく溢れ出す涙が尽きるまでは、このままこうして居続けたかった。

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