第二章 邂逅

第一話 後継者(1)

 光量の抑制が効いた明かりが、天井一面にぼうっ、と輝いている。


 天井の下で横になる人物への配慮であろう。淡い光は、見る者への刺激を極力与えないように工夫されていた。ほかにも端末から操作することで、照明の範囲を自由に調節できるようになっている。ただ天井一面いっぱいに照らし出されたとしても、明る過ぎるというほどではない。現に、うっすらと瞼を開いたばかりの瞳に天井の明かりが飛び込んできても、目が眩むことはなかった。

 ベッドの上にいるのだということを理解するのに、それほどの時間は要さなかった。白地のブランケットに覆われた身体からだは、清潔な病衣にくるまれている。枕の上で顔をゆっくりと左右に動かして、見える範囲に映るのは、ここ数ヶ月間見慣れた光景だった。ここは病室の中だ。

 首を振ることは出来たが、それ以上に身体からだは動かせるのだろうか。右手に力を入れて持ち上げてみる。ブランケットがめくれて、白く細長い指先が覗いた。掌を握りしめたり開いたりして、身体からだの自由が効くことを確かめる。


 間違いない。白い肌に、不自由のないこの身体からだの持ち主、つまり私はイェッタ・レンテンベリだ。タンドラ・シュレスではない。


 タンドラの意識が割り込んでこない。彼女はまだ眠っている。精神力に優れた彼女が、消耗し切っているのだということに思い至り、そこからイェッタの記憶が徐々に呼び覚まされていく。


 市長執務室で、彼女は突然膝をついた。それまで慇懃な態度を崩すことのなかった彼女の顔に、どっと冷や汗が吹き出す。跪いたまま瞳の焦点がぶれて、おこりのように激しく肩が震え出した。異常に気がついたキューサックの声も、彼女の耳には届かない。その瞬間にイェッタを襲ったのは、半身を無理矢理引きちぎられるかのような、圧倒的な寂寥感、いや、恐怖と呼ぶ方が相応しい。普段は蠱惑的なほど艶やかな唇が青ざめてわななき、やがて声にならない叫び声を張り上げるまで、あっという間の出来事であった。


「いやあああ! ディーゴ、ディーゴ! あ゛あ゛あ゛あ゛!」


 鮮明に思い返された記憶に再び打ちのめされて、イェッタはベッドの上で頭を掻き毟りながら、再び絶叫を上げた。



 イェッタが二度目に目覚めたとき、病室にはふたりの人影があった。


「ようやく気がついたか」


 生気に欠けた声をかけるロカの顔に、常日頃の落ち着き払った表情はない。疲労が色濃く表れた目元に、均整の取れた長身も背筋が力なく、どこか縮まってしまったように見える。


「お前が倒れてから、既に十日近く経つ」


 ロカの目つきは虚ろで、イェッタの顔を見るでもなく、ほとんど独白のように言葉を紡いでいく。


「私は三日前に、ゴタンから折り返し帰国した」


 イェッタは枕の上で頭の向きを変えて、彼の顔を見返した。目尻から耳の付け根にかけて、涙の跡が拭われもせずに残っている。


「……ディーゴは」

「補佐官は、亡くなられた」


 彼女の唇の間から、ほとんど無意識に零れ落ちた問いかけを耳にして、初めてロカの目がぎょろりと動いた。


「補佐官の遺体は司法解剖を終えて、現在はこの病院に収容されている。葬儀が営まれるのは明後日だ。それまでには体調を戻しておけ」


 ロカの言葉に、イェッタがなぜと目で尋ねる。彼女に出会って初めて見る弱々しい視線を受けて、ロカは苛立たしげに言葉を吐き出した。


「お前は補佐官の、ディーゴの秘書だろう。彼の葬儀に参列しないでどうする!」


 肩を震わせて、ロカが病床のイェッタを睨みつける。澱んだ瞳には、遣り場のない感情が渦巻いていた。どのような表情を、態度を取るべきなのか判断がつかず、いたずらに噴き出そうとする激情を必死にねじ伏せている。奥歯を噛み締め、それ以上口を開こうとしないことで、ロカは辛うじて内心を抑え込んでいた。

 ロカが表に出さないよう無理をすればするほど、彼の胸中で荒れ狂う想いはイェッタの意識野に容赦なく突き刺さった。彼女の形の良い眉が、苦悶に歪む。


「なぜだ」


 ロカと反対側、ベッドの上のイェッタから見て右側から、より暗い声が投げかけられる。


 彼女がおそるおそる反対側に頭を向けると、そこにはモトチェアに腰掛けてたたずむ老人の姿があった。


「お前が私の目の前で突然倒れ、ディーゴは死んだ。ロカの話を聞く限り、ディーゴの死に様はお前が倒れたときとそっくりだったそうだ。そしてもうひとり――」


 面を伏せたキューサックの表情は、横になったイェッタからは窺い知れない。だが老人の小柄な身体を覆い尽くすかのように取り巻く悲嘆、怒り、不審などの様々な負の感情を、イェッタの目は捉えている。それは彼女がかつてCL4と呼ばれた惑星に降り立ち、嫌というほど見せつけられた、可視化されたヒトの意識だ。


「――タンドラ・シュレス。お前のかつての同僚もまた、入院中の病室で同様の症状を発して、今も昏睡状態にある」


 キューサックの口からタンドラの名前を聞いて、イェッタはようやく自分がどこにいるのかを理解した。ここはタンドラが入院しているテネヴェ最大の医療機関、市立中央医院だ。


「ディーゴは息を引き取る間際、お前と、そのタンドラの名前を繰り返し呼んでいた」


 ロカが押し殺すような声で、キューサックの言葉を引き継いだ。


「全く異なる場所にいる三人が、同じタイミングで、同じように発症した。しかもそのうちのひとりは命を落とした。これを偶然で済ませられるほど、我々も暢気ではない」


 そう言ってロカはベッドの端に、力任せに両手をついた。


「お前たちはいったい、なんなんだ。なぜ、ディーゴは死んだ?」


 イェッタの顔に覆い被さるように、ロカが糾弾の言葉を叩きつける。反対の側では、キューサックが放つひたすらに暗い眼差しが、彼女の横顔を射貫いている。

 タンドラの意識は、まだ目覚めない。

 自身も打ちのめされたばかりのイェッタには、もはや真実を隠し通す気力も、そのつもりも残っていなかった。


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