第二話 ドリー(1)
そして、シンタックは全てを知った。
知らされた真実の数は膨大で、ヒトひとりの脳に到底収まる量ではない。シンタックが博物院居住棟の一階にある医務室のベッドの上で目覚めたときには、知り得たはずの真実の大半は記憶から失われていた。今、彼の脳裏に残っている真実の欠片とは、彼自身に関わる卑近な事象ばかり。だが、だからといってシンタックが狼狽したり絶望することはなかった。消え失せてしまった真実の記憶は、叶えば取り戻すことができる。彼はそのことを知っていた。
ベッドから起き上がって端に座り、周囲を見回す。それほど広くない室内に、ベッドがふたつ。シンタックにあてがわれていたのは入り口から見て右側であり、もうひとつのベッドではタオルケットを肩まで羽織った金髪にそばかすの少女が静かに寝息を立てている。午前の講義で席が隣同士になった、あの少女だ。
「ドリー」
まるで昔からの知り合いのように、シンタックの口から少女の名前が自然に突いて出る。ドリーと呼ばれた少女はシンタックに声をかけられると、おもむろに瞼を開いた。青い瞳がゆらゆらと左右に揺れ、やがて少年の顔を認めて動きを止める。
「シンタックね。おはよう」
ドリーはタオルケットの裾をつかみながら、ベッドの上に上半身を起こした。講義のときに結わいていた金髪はとき解かれて、緩やかなウェーブをまといながら肩まで届いている。タオルケットをベッドの端に除けて、シンタックと同じようにベッドの端に腰掛けたドリーは、彼と向き合う格好となった。
改めて見ると、ドリーは同年代の女子学生に比べても小柄な方だ。シンタックは男子学生の中でもそれほど大きくはないが、こうして座っていても彼女と顔を合わせようとすると若干視線を落とすことになる。立ち上がるとシンタックよりも頭一つぐらい低いだろう。
「あなたのことは、わかる」
上目遣いのドリーの言葉に、シンタックは頷いた。
「僕も、君の名前がわかる。ドリー・ジェスター、ミッダルト第四中等院四年生。三年次は成績最優秀者で、ミッダルト中央科学院に進学が内定してるんだって。凄いな」
「成績最優秀者のところは、もうあまり意味がなくなっちゃったけどね。少なくとも、あなたと私はその点は共有化されたわ」
ドリーはそう言って、小さく笑った。
「私はN2B細胞研究の第一展示室でパネルに触れたの。シンタックは?」
「僕が《繋がった》のは、原始の民に関する説明展示だ。反対の部屋だな」
「ほかに《繋がった》人はいないみたいね」
「うん」
シンタックがそう言うと、ふたりの間にしばし沈黙が流れた。
お互いのことをそれぞれどこまで理解しているのか。それをどこまで確かめ合うべきか。本当はふたりともそんなことはわかっているはずなのだが、それを言葉にして確認するという行為がまだ必要に思われる。
先に顔を上げたドリーが何か言い出そうとして、口をつぐむ。ややあってから、今度はシンタックが口を開こうとしたそのとき、医務室のドアが開いた。
「シンタック、大丈夫?」
ベッドに腰掛けているシンタックの姿を見て、リュイは目を見張りながらそばに駆け寄ってきた。ドリーのことなど目に入らない様子でふたりの間に割り込み、シンタックの両肩をつかむ。どうやら相当に心配をかけてしまったことをシンタックは痛感した。
「いきなり倒れたっていうから、びっくりしたぞ」
リュイの後ろから、ヨサンが顔を覗かせる。
「全然平気だよ。心配させちゃったみたいで、悪かった」
「展示室で興奮しすぎて、鼻血でも吹いたのかと思ったよ。その調子なら安心だな」
ヨサンが軽口を叩いているつもりなのは十分わかっていたが、彼の比喩があながち間違いではないような気がして、シンタックは曖昧な笑顔を浮かべた。
「鼻血は大袈裟だな。というか、なんで倒れたのかよく覚えてないんだ」
「おおかた夢中になりすぎて、躓いて頭を打ったとかじゃないのか。お前は物事に集中すると、周りが見えなくなるからな……それで、だ」
ヨサンはリュイの背後の、もうひとつのベッドに座る少女に視線を向けた。リュイもようやく気がついたように、振り返って少女の存在を認める。シンタックは頭を掻きながら、どう紹介したものか言い淀んだ。
「彼女はドリーだ。ええと……」
「リュイとヨサンね。はじめまして」
歯切れの悪いシンタックとは対照的に、金髪の少女は澄ました笑顔で挨拶した。
「私も体調を崩して、ちょっと横になってたの。そこに彼が運ばれてきて、さっきまで話し相手になってもらってたのよ」
「話し相手って、シンタックだって倒れたっていうのに?」
リュイの形の良い眉が跳ね上がるのを見て、シンタックが慌てて口を挟む。
「いや、すぐに目が覚めたんだよ。本当だって。さっきも言ったけど、全然大したことないんだから」
「個室で女の子とふたりきりなんて状況で口もきかなかったら、その方がどうかしてる。シンタック、お前は正しい」
有り難迷惑な助け舟を繰り出してくれたヨサンにリュイが冷たく一瞥をくれ、ドリーは堪えきれずに吹き出した。
「思った通り、面白い人ね」
「どういたしまして。ドリーだっけ、あんたも体調が戻ったみたいだし、良かった良かった、万々歳だ」
ヨサンの口振りに毒気を抜かれたのだろう、リュイは申し訳なさそうな表情を浮かべてドリーに向き直った。
「ごめんなさい、ドリー。私、ちょっと驚いちゃって」
「気にしてないわ」
「だいたい、シンタックが倒れたりするのが悪いのよ。知恵熱出すなんて子供じゃあるまいし」
「知恵熱じゃない。ていうか、なんで僕が責められるんだ」
八つ当たり気味に矛先を向けられたのは参ったが、ともあれ場の空気が和んだことにシンタックは内心で胸を撫で下ろした。途端に、今が夕食時だったことを思い出して空腹を感じる。安心すると同時に生理的欲求が頭をもたげる。つくづく
「だってあなたが食堂にもいないし、カフで呼んでも反応がないし、ずっと探してたから」
シンタックがイヤーカフに触れると、確かに呼び出しの履歴が複数残っていた。
「途中で導師に聞いて、それで医務室にいるってわかったの」
「残念ながら食堂はもう閉まっちまった。明日の朝まで飯抜きを我慢するしかない」
ヨサンが大袈裟に天を仰ぐ。するとドリーがベッドの端から立ち上がり、それほど広くはない室内を丹念に見て回りだした。
「ここ、医務室でしょう。病人向けの食事とかも用意できるようになってると思うのよね。どっかに
そう言ってドリーはドアの脇に据えつけられたデスクの横、壁面の一部が透明になっている部分を指さした。リュイもドリーのそばに寄って、しばらくしてから頷くと、おもむろにジャケットの胸元からスクロール端末棒を取り出した。
デスクの上に広げたスクロール・ディスプレイに指を走らせて、待つこと三十秒余り。透明な壁面の奥が鈍く光り、間もなく壁面が開いて中から出てきたのは四杯のティーカップだった。どの杯からも淹れ立てらしい湯気がくゆっている。
「病み上がりがふたりいるし、とりあえず暖かいレモネードを出してみました。シンタックは好きだったよね」
リュイが差し出したティーカップを、シンタックは溢さないように両手で受け取った。彼がレモネード好きを公言していたのはまだ幼い頃のはずなのだが、リュイの中では今でも不変の真実のままのようだ。本当は頭をすっきりさせるのにブラックのコーヒーが欲しかったとは言い出せない。猫舌のヨサンは息を吹きかけ冷ましている。
ドリーはカップを一口啜ると目を丸くして、リュイに感嘆の目を向けた。無理もない。リュイが
「N2B細胞の活性化に効く、ポー家の特製レモネードよ。お口に合うといいんだけど」
「美味しい!」
ドリーの称賛にリュイも満更ではない顔を見せた。リュイ自身は現像技師を目指しているが、彼女の両親はN2B細胞の培養を生業としており、このレモネードもその副産物である。そのことを聞くと、ドリーの口調はさらに興奮の度合いを増した。
「私もN2B細胞を扱う仕事に進みたいって考えてるんだ」
「そうなんだ。でもその言い方だと培養家じゃないんでしょう。なんだろう?」
「私は、N2B細胞の正体を知りたいって思ってるの」
ドリーの言葉にリュイだけでなく、ヨサンまで当惑した表情を見せた。シンタックはまずいという表情を浮かべてドリーの顔を見る。彼女が何を言い出そうとしているのか予想がついたからだった。
N2B細胞はヒトの体内のみに存在する、一言で言えば体調管理機能を持つ細胞である。
N2B細胞のおかげでヒトは、宇宙空間に溢れる放射線も、入植先の惑星で未知の病原菌も恐れる必要がない。銀河系人類社会の成立にはN2B細胞無しにはあり得ない、と言われることさえある。その特性上、健康・医療・食品分野で需要があり、それに対してヒトの体内と似せた環境を用意して培養し供給する人々もいる。リュイの両親がまさにそうだ。
もちろんN2B細胞そのものの研究も進められているが、その目的は基本的にN2B細胞がもたらす効果を高めることだ。
だが、ドリーの場合は従来の培養家や研究者たちのそれとはいささか毛色が異なっていた。
「N2B細胞はヒトにしかない特殊な細胞だけど、他にも特殊な点がいくつかあるの。そのひとつが均一性。N2B細胞自体は機能別に様々に細分化できるけど、同じ分類同士だと驚くほど個体差が少ない。これは別人のN2B細胞同士を比べてもそう。機能だけでなく見た目も全く同じ。まるで
金髪の少女が一気に捲し立てる様に、シンタックたちは何も言えず圧倒されていた。ヨサンは何かを訴えるようにシンタックをしきりに振り返るし、リュイは不吉なものでも見るような顔つきで眉をしかめている。
「ドリー、落ち着いて。話が難しくて、僕らにはよくわからないよ」
シンタックは窘めるようにしてドリーの話を遮った。リュイとヨサンが沈黙してしまったのは、むしろ話の内容が十分に理解できたからなのだが、シンタックはあえて間違った物言いをした。
ドリーもようやく三人の反応に気がついたらしい。彼女はまず左手を口許に当て、それから右手に持つティーカップをそろそろとデスクの上に置いた。
「ごめんなさい」
それまでと打って変わって、震える声でドリーは言った。
「私、よく勝手にわけのわからないこと喋って、びっくりされちゃうんだ」
背にした壁を伝いながら、ドアの方へと移動する。
「レモネードありがとう。美味しかった」
そう言うとドリーは無理やり作った笑顔のまま、金髪を翻しながら医務室の外へと走り出した。シンタックは慌てて立ち上がり、彼女の後を追う。
「待って、ドリー」
医務室のドアから離れた廊下の途中で、シンタックはドリーの右腕をつかんだ。ドリーは抵抗せず、だが振り返ろうともしない。
「……あなたと《繋がった》からって、あなたの友達と《繋がった》わけじゃないのに」
顔を伏せたまま発せられるドリーの言葉は、涙声だった。
「彼らのことわかったつもりになって、久しぶりにやらかしちゃった」
シンタックはなんと声をかけて良いのかわからない。《繋がった》からといって、彼女を慰める言葉がすぐ思いつくわけではないのは、彼も同じだ。《繋がった》ことでドリーのことはわかっていたはずなのに。
「ごめん」
思わず謝罪が口を突く。するとドリーは未だ半泣きのままの表情をこちらに向けた。そばかすに涙の跡が残っている。
「あなたは、シンタックは私のこと、わかってるよね?」
ドリーはどこか縋りつくような目で、シンタックに尋ねた。
「もちろんだよ」
シンタックは真剣な顔で即答する。そのおかげか、ようやくドリーは少しだけ笑った。
「リュイとヨサンには謝っておいて。じゃあ、また」
そう言って、金髪の少女は再び廊下を駆け出していった。今度はシンタックも追うことはせず、少女の小柄な背中が廊下の角を曲がって消えるまで、その場で見送り続けるしかできなかった。
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