執拗に戦乱が呼ぶ声
最期の力を振り絞るようにしてドニは、僕の前で跪く。
一目で疲労の極みにあると判った。あちこちが破れた服も泥まみれだったし、まるでボロ切れのようになってしまっている。
さらに酷く汗をかいていて、それで果物の腐敗臭を感じさせた。……まちがいなく
「陛下! ライン守護代より至急の御報告を! ライン北岸にゲルマン集結の兆しあり! ただちに備えられたしと! 子細は、これに!」
それから肌身離さず持っていたであろう封書を、捧げるように差し出す。
慌てて僕も身を屈め、その命懸けで届けられた書簡を受け取った。
「大儀でした、ドニ。……たしかドニといいましたよね、
「陛下! 裏切者な私めなどの名を……これで……少しは……不義理を……――」
それだけ言うと任務は果たしたとばかり、気を喪ってしまった!
「なにをボーっとしているのです! この勇士を死なせてはなりません! リュカめに、忠勤へ報いる機会を!」
度肝を抜かれてしまっていた
それでも尊敬すべき
ライン南岸から王都まで、少なくとも二〇〇キロはあるだろうか?
この距離感で情報を伝えるのなら、実は人間が――人間の走者が最も確実かつ最速の運び手だ。
なぜなら動物は、スペックで人類を凌駕していようと、高度な訓練を施さねば、長距離の移動を体得できない。
自然状況では、絶対に長距離走なんてしないからだ。
そして駅馬なども、いくつかの拠点を経由せねばならず、つまりは時間が掛かってしまう。
……というか、そもそも帝国級に豊かでもなければ、伝令網の維持は難しい。
が、そんな長距離を走り抜けられる人間の伝令も、普通は一〇〇キロ程度が限界だ。
なにより身体が持たないし、さすがに別の方法を考えた方が効率も良くなる。
しかし、その無理を押してドニは、二〇〇キロ超を走り通してくれたのだろう。
身体の衰弱から考えて、二日前後だろうか? その走破に掛かった時間は?
一応、人体には二十四時間以内で二〇〇キロ走破の性能がある。さすがに競技者レベルとなるも、それほど珍しい才能ではない。
しかし、この未開なガリアを走り抜けろといわれたら、達成可能な者は限られてくるし、まちがいなく命懸けとなる。
……ドニが強壮剤として
ちなみに
さすがに飲み過ぎや使い過ぎは咎められるけれど、中世ヨーロッパの騎士などは、突撃前にワインを一杯が義務ですらあった。
魂は現代日本人な僕にすれば、なんとかしたい習慣ではあるけれど……戦場という究極の鉄火場では、平和ボケした考え方なんて通用しそうにない。
……はたして手足を千切られて痛みを訴える兵士から、道徳的に問題ありと
もう
とにかく命懸けで購わられた時間を無駄にしてはならない。もどかしさすら感じながら、手渡された書簡の封を破る。
視界の端で、黙礼しながら下がるラクタとダウウドを捉えた。
……情報が漏れちゃったかな? いや、この規模なら時間の問題か?
彼女に書状を見る権利はない。しかし、見せた方が国益に適う。
そして最初の一手を、と思ったところで――
正午の鐘が鳴った。
日本人の感覚だと時報の鐘は、宗教由来と考えるだろう。事実、起源は仏教だし。
だが西洋において時報は――時計塔は、ほぼ宗教と無関係に誕生した。……例によって「また、お前か」なカエサルの業績で。
正午になったら塔の上でラッパを吹かせたので、それが時計塔と呼び習わされたのだ。
後年、それに便利だからと時計が備え付けられただけで、時計塔と呼ばれる方が先だったりする。
つまり、「時計を備えた塔」の意味ではない。なんらかの方法で時を知らしめれば、それは時計塔といえる。
そして
「陛下! 狼煙による伝達に御座います! 符号は『ラインに変事あり』! 『ラインに変事あり』と!」
狼煙という伝達方法は、実のところあまり速くないし、正確でもなかった。
さすがにメッセンジャーよりは速いけれど、平均でいうと時間あたり七五キロ程度という。
その上、見落とされる可能性があったり、天候不良時や日没後は絶望的だったり――
あまり信頼のおける方法ではなかった。
しかし、これは急報などに用いた場合であり、伝説的なまでの高い評価は、日報の方だったりする。
具体的にいうと、正午の定時連絡などだ。
日課として全中継地点で正午に信号を確認し、これまた日課として狼煙を上げていれば、もの凄い速度と精度で知らせが届く。
……中国の歴史もので異変察知が早い理由か。ほとんどの皇帝は定時連絡網を組織したというし。
ただ残念ながら僕に、そこまでの予算や人員は許されていない。
それでも各地へ建てた時計塔を兼ねる狼煙台は、やっと機能し始めてくれたようだった。
伝書バトも戻るかもしれなかったけれど――
残念ながら王都へ帰還の適う伝書バトは、それほど育成しきれていない。頭数も限られている。
それに優秀な伝書バトなら、昼夜を問わず三時間もあれば届く。いまだ未達なことを鑑みれば、さらなる急報用に温存したのだろうし――
まだ猶予の残されている証拠ともいえた。
「ドニは――ドニのような人達は、いつになったら自分を責めなくなるんだろう?」
つい漏らしてしまった嘆きに、居残ったジナダンが応じてくれた。
「気持ちは分からないでもないのです。なんの因果か、あの者達が――ドニ達が
その表情から窺うに、ジナダンも苦しむ元同僚達を心配していたのだろう。
僕は
しかし、だからといってドニ達が異常とならない。おかしいのは絶対、僕らの方に決まっている。
ドニは「人を殺せない兵士」だ。
……いや、正しくは
奇妙に思えるかもしれないが、時代を問わず、この「人を殺せない兵士」は存在したし、まあ色々と取り沙汰もされてきた。……あまり耳触りの良くない論調で。
そもそも、ある種の人間――というか全体からだと何割かは、並大抵の訓練や理由だけで人を殺せなかった。
これは技能や才覚の問題でなく、簡単で単純な方法が用意されようと、殺人を遂行できない。道徳的な忌避感が勝る。
人に依っては仲間の命どころか、自らの命が懸かった場面ですら、他者を害せないほどだ。
それは人として最上の資質といえるも、しかし、兵士としては不適格過ぎた。
役に立たないどころか友軍の足を引っ張る可能性すらあったし、最悪、味方全員を道連れにしかねない。
そして僕らのような職業軍人の家系では、幼少の頃から念入りに
それでも全員を適格者にはできなかった。
ましてや志願しただけの無垢な若者であれば、そうと発覚しない方が不思議なレベルだろう。
日常へ戻れなくなった兵士の陰画のようなもので、絶対に戦争の狂気へ染まらない正常者といったところか。
だが、除隊を強いられ日常へと戻されたドニ達は、酷く自分を責め続けてしまう。
「自分は仲間を裏切った」や「のうのうと自分だけ安全な所へ逃げ込んだ」などと。
それで自ら罰するかのように、過酷なライン南岸の開拓へ身を投じ――
誰かを殺せずとも自分の命ならば懸けられると、限界を超えて走ってくれたのだと思う。
僕らは――殺人に強い禁忌を覚えない異常者たちは、彼らが――正常な人達が平和に暮らせたらと思っているのに。
……いまは戦乱の呼び声に応じよう。
いつかドニ達が、自分を許せる世界を作る為に。
「軍議を開きます。諸侯の召集を」
そう宣言し、評議の間へと向かう。幸か不幸か、僕は戦争に向いているのだから。
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