化学という裏道

 その貴重な紫の染料が、樽一杯もあった。それも山盛りに。

 これのサイズ感を現代人に伝えると、ちょうどウィスキーなんかを貯蔵する樽そっくりで――というか元ネタと思われ、つまりは数字でいうと百六十リッター一バレルだ。

 そして小麦一キロを体積へ直すと一.六リットル位だから――つまりは一〇〇キロ前後と推察された。

 同じ重さの金貨と比べ十二倍な価値な紫の染料が。

 ……ちなみに、あえて現代の価値でいえば約三十億円に相当する。



 しかし、この染料の恐ろしさは、とんでもない値段より――

 原材料のチープさにあった。

 そもそも紫の染料は、世界で最初に作られた合成染料で、普通はベンジン――石油由来の材料から合成を始める。

 つまり、まず油田を発見しなけりゃならなかったし、当然に原油の精製もで、一朝一夕に片の付く話ではない。

 ……前世史でヨーロッパに原油の沸く泉は確認されてないから、今生だと中東から取り寄せるようだろうか?

 さらには合成手順でニトロベンゼン――名前から察せるようにニトログリセリンの親戚で、当然に爆発物――を経由したりで、もの凄く危険だ。

 よって気軽に試せるようなことでは――


 なかったりする。意外といけてしまう、そう我らが『』に拠れば。

 あの狂人が著した書籍は「未開文明で現代科学を再現する方法」に重点が置かれている。

 ようするに僕のような境遇を念頭に置いていて、まあ控えめに言っても頭がおかしい。

 もちろん紫の染料も、ありふれた材料で再現してしまう。……引き換えに工程を倍から三倍にしつつ、だけど。


 結論として、まず材料を列挙すれば――

 酢、アンモニア、金属粉、アルコール、塩酸、塩、テレピン油(松油)、水酸化ナトリウム(石鹸のあれ)

 で届いてしまう。……金より貴重な染料にだ。

 そして冗長なので手順も箇条書きにしてしまえば――


 酢とアンモニア、金属粉を混ぜる

 混合液を蒸留、アミノアシル誘導体を抽出

 アミノアシル誘導体の水溶液に金属粉を混ぜ加熱

 反応後、蒸留してアミンを抽出

 アミン水溶液に金属粉を混ぜ加熱

 反応後、蒸留してアニリンを抽出

 アニリンとアルコールの混合液に、金属粉を混ぜ合わせる

 それに塩酸を加える

 塩で中和し、中性に

 テレピン油で抽出

 水酸化ナトリウムでアルカリ性に

 再びテレピン油で抽出

 蒸発させ、残った物質が合成染料モーブ


 正直、化学に明るくない僕では、さっぱりだ。

 また現代において、この手順で染料を作る人もいないだろう。

 なによりベンゼンから合成開始の方が手っ取り早いし、その入手だって難しくない。

 総工程も半分以下で済むし、使用されてる薬品類に至っては、ほとんどが代用品だ。一例を挙げれば――

 非水溶性の物質を水溶液から分離させるのに、普通はエーテルを使う。

 だが、それを為すのは揮発油であれば足りていて、レモンオイルやテレピン油でも一応は可能だったりする。

 そして無い物の方が多い状況な場合、総工程数よりも材料の入手難易度低下が最優先だ。


 さらに科学史とは偉人が前人未到の地を踏破の冒険譚ともいえるけれど、後続な僕達にとっては地図であり――

 目的地の所在さえ分かっていれば、そこへ至る道も一つではないと知れる。

 実際、紫の染料入手ルートは、まだ他にもあり、これで上手くいかなくても別案を試すだけの話でしかない。



 しかし、一〇〇キロの染料も、産業的な視点で考えたら心許なかった。けっしてグリムさん達は、やり過ぎてない。

 一般的に染料の十倍な重さを染められるというから、用意した分では一トンしか賄えなかった。

 そして布を巻いたもの――一ひきは二反だから、つまりは二キロ前後で、布五〇〇疋分となる。

 が、それは染める回数が一回の場合だ。二度三度と染めて深い色を目指せば、当然ながら必要量も増えてしまう。

 さらにグリムさんの部屋調合室へ着くまでで見かけた職人達――女性が多かったのは、グリムさん達選考者の意向?――も、未知の染料を相手に試行錯誤の真っ最中と思われた。

 ……とりあえず二〇〇疋分くらいだろうか? 最初に使のは?


「ありがとう。これだけあれば当面は足りるよ」

「と、とんでもありません! リュカ様が御所望とあれば、夜を徹してでも!」

「駄目だよ、グリムさん。調合は少しずつ、そして落ち着いてやらないと」

 僕が専門家であれば良かったのだけど、危険な作業を特定しきれていない。全ての工程は慎重に行うべきだろう。

「大丈夫だよ、我らが王様! ちゃんとグリムは分かってる!」

「あたし達にすら、全てを知られないよう注意してるんだよ!」

 やや見当外れな方向へ、ヴィヴィとミミは上司を誉めそやした。


 だが、それはグリムさんがルールを守ってくれている証拠だったし――

 この世界では彼女だけが、化学という神に仕える巫女な証拠か。

 もちろんヴィヴィとミミだって、色々と察してはいると思う。

 しかし、全ての薬品類を完成させられるのは、いまのところ僕とグリムさんだけだ。

 けっこうな人数となった助手達にも、一工程だけしか――中間材の作り方しか教えてないはずだし。


「リュカ様に教わった秘密は、この命に代えても!」

「だ、駄目だよ、そんなの!」

 とんでもない決意を聞いて、思わず叱ってしまった。

 確かにグリムさんの知る現代科学知識チートは、もはや世界を変革し得る。

 だからってグリムさんの命と引き換えに秘密を守るなんて考えたくもなかった。

 でも、いずれはポンドールが光の帝国を牛耳るように、グリムさんも化学の神殿を統べるとか!?

 ……自業自得かもしれないけれど僕の御妃候補彼女達は、偉人の卵でもあるらしい。


 そしてぇッ! つい声を荒げてしまっというのにぃッ! どうしてぇッ! グリムさんは赤面をぉッ!?

 さらに落ち着くんだ、ヴィヴィとミミ! まず話し合おうじゃないか! だから出口へ向かって摺足は止せ! 止めるんだ!

 君達が部屋から居なくなったら! 僕とグリムさんだけに!

「……リュカ様? グリムだけシルクでも人絹でもなく、さらには紫でも彩ってないの――

 変だなって、思わなかった?」

 ミミは、妙なを感じさつつ語りかけてくる。

 くっ……だが、こんな窮地ときの為に、まだ賄賂財布は用意してある! これこそ父上直伝の知恵! さあ、いうんだ! あと幾ら欲しいかを!

「グリムだって女だからね。我慢なんて、できるはずがないんだ。

 ……魅せて貰ったら? グリムが内緒で身に着けてるシルクの貝紫を!」

 その変なポーズで囁くようにのを止めろ、ヴィヴィッ! 御金ッ! 御金ならあるからッ!


 だがミミとヴィヴィの言葉で、さらに顔を赤くさせたグリムさんは俯いてしまう!


 内緒……我慢できない……布で……もちろん服と決まっていて……おそらくはシルク製で……色は紫……だけど内緒だったり……秘密で……見られたら恥ずかしくて……つまり!?

 そこで固唾を呑んでしまったのが敗因だった。気が付けば――


 グリムさんと密室で二人っきり!!

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