地に満ちる

 もう永遠にかと思いかけた矢先、元気な産声が産屋の扉越しに響く!

 なぜか確信できた。

 きっと母上も、新しく生まれた僕のきょうだいも――二人共に無事だろうと!

 逸る気持ちを抑え父上と二人、用意させておいた白衣――といっても布の真ん中に頭を通すだけの簡素な物――を羽織る。

「……落ち着こう、リュカ。少しだけクラウディアディに時間をあげないと。

 きっと身支度したいだろうし……そういうのを気にするひとだからね」

 念入りに手を消毒しながら――

「それもそうですね」

 と頷き返す。

 さすが父上はガリアフランスの男だ。もう由緒正しく女たらしというべきか……それとも歴戦の夫というべきか。


 焦れながらも一呼吸置いて産屋へ入ると、そこには一仕事終えたとばかり気怠げな後片付けをする医者や産婆、その助手たちと――

 生まれたばかりの赤ん坊へ授乳中な母上の姿が!

 前々から世界一美しい女性と思っていたけれど……もはや神々しくすら!? 珍しく解れた前髪すら、かえってアクセントとなってるし!



 ちなみに初乳は――出産直後から数日間の母乳は、太古の昔から特別と考えられている。

 ……まあ普通の乳――常乳とは色や粘度からにして全く違い、その連想も容易くはあるのだけれど。

 よって母上のように乳母を雇う場合でも、初乳は母親自身が与えていた。

 ……現代医学的には免疫物質が豊富に含まれているとされ、あながち迷信でもなかったりするし。

 また出産直後に授乳が慣例なのも、母親の精神安定や親子の絆を結ぶ――子供に母親の乳房を記憶させる為だったりで……意外と伝統的な方法も理に適っていた。



 が、そんな屁理屈より、ただ目の前の光景に涙が零れそうになる。

 無心で乳を吸う赤ん坊に、それを慈しみの表情で見守る母上。そんな二人を庇護すべく父上は、母上達の肩へ手を回している。

 嗚呼、誰もがそうあるべきだと思ったらから、そうしてきたのだろう。

「どうしたのです、吾子?」

クラウディアディに祝福の口づけを、リュカ」

 心底不思議そうな母上が問い、もう片方の腕を広げ父上も招き誘う。

 ……そうだ。僕は、この幸せな家族の一員だった。胸一杯の幸福感と共に、それを思い出す。

 照れ臭いけれど父上に肩を回されつつ、母上を精一杯な祝福で労う。

 それから僕の目を惹きつけて止まない天使に挨拶をした。なんて可愛らしい赤ん坊なのだろう!

「エリティエ、貴方の兄上様ですよ」

 夢中で覗きこむ僕へ、母上は男性名おとうとだと紹介してくれた。

「男の子ならエリティエ。女の子だったらエリティエールと名付けるつもりだったんだ」

 父上の説明に兄として……さらには北王としても頷き返す。



 どちらも後継者の意味だから、あえて日本名にすれば継男か継子だろうか?

 はっきりと名前にすることで周りはもちろん、本人にも知らしめたかったのだと思う。エリティエこそがドゥリトルの後継者と。

 それだと僕は廃嫡と考えられなくもないけれど、そんなことより父上の決定――一族の長として下された分家案を支持したい。

 なによりドゥリトル一門は、近しい血縁の者が少な過ぎる!

 エリティエがドゥリトルを継ぎ、僕が新しく王家を興せば、それなりに有事の備えとできる。

 さらにはランボかシャーロットにも家門を興して貰う? とりあえず近しい三家を確保となるし?



「ドゥリトルの将来は、エティに――未来のドゥリトル候に任せていいようですね」

 エリティエに指を掴ませながら、そんな風にお道化る。

 こんなに小さな手なのに、しっかりと握り返して!

 それに生まれたばかりの赤ん坊は、出産の疲労から寝てしまうものなのに……どうしてか一生懸命に起きていようと!? もしかしたら僕らが居るのを察して?

 嗚呼、なんと賢い子なのだろう! これならドゥリトルの未来は安泰だ!

「髪は僕や母上と同じ色のようですね」

「でも鼻は僕に似た――ドゥリトル一族の鼻だ!」

 父上と二人してエリティエを具に観察していたら――

「そのように赤子を抱くものでない。まだ首も座っておらぬというに」

 と奪い去られてしまった! 酷い!

 誰かと思えば御祖母様だった。付き添いなのかレトも一緒だ。



 しかし、これからは産屋への立ち入りを父親や子供、祖父母に限定するつもりだった。

 もちろん白衣の着用と手の消毒、可能ならば沐浴も義務付けて。

 これらすら配慮されていない世界だったというか……これを守るだけで膨大な数の命を救えるというべきか。

 というのも何日も風呂へ入ってない父親が、手すら洗わず産屋へ乱入。そんな暴挙が日常茶飯事だったからだ。

 結局のところ医学の基本にして奥義は除菌であり、僕の措置も決して大げさではないだろう。

 だから母上の親友なレトといえど、この瞬間に産屋への立ち入りは――



 が、レトを咎める必要はなかった。食膳を――母上用の食事を運んで来てくれていたからだ。

 その内訳はレバー肉とセロリ、ブロッコリーのミルクシチューに全粒粉のパンで、なんとか『』の知恵から捻りだした産後専用メニューだったりする。

 なんでも産後の女性へ配慮するべきは、鉄分とタンパク質、カルシウム、さらには水分……らしい。

 そしてレバーのミルクシチューも奇天烈に思えるけど、これで知る人ぞ知る逸品……だそうだ。

 また当然に生ものは避けるべきで、全て火を通す。……残念ながら生チーズや蜂蜜などは、しばらく禁止だ。

 ちなみに全粒粉とは、小麦を脱穀しないで丸ごと粉にしたものを指すが……実は技術レベル的に、まだ難しかったりする。

 普通の製粉――小麦粉と比べ手間暇がかかり過ぎるので、あまり活用されてない。

 しかし、例の足踏み式回る棒を動力とした碾臼ならば、そんなことはなかった! 御安心だ! これで小麦の栄養素を全て活用できる!



「わざわざの御運び、ありがとうございます、義母上様」

「よう頑張りなすった、クラウディア。

 ささ、早う御あがり。坊の用意された馳走が冷めてしまうでな。その間は、婆めが子守りを」

 ややぎこちない御祖母様と母上の挨拶だったけれど、これで雪解けは進んでいる……のかな?

 そして男には理解しにくいのだけれど、出産直後に食事をとる女性は多い……そうだ。

 まあ考えてみれば出産中は食事どころの話ではないだろうし、それでいて長期戦だ。産後は空腹で当たり前か。

 なので御祖母様も当然のことと勧めたし、母上も遠慮なく食事を始められたのだろう。

 が――


「どうしてブロッコリーを入れたのですか、レト! あれほど入れないようお願いしたというのに!

 そして、この苦い薬湯! もう少し味が何とかならないものですか!?」

 と不満を呈された。……ちなみに後半は、僕へだ。

 でも、天然の抗生物質たるプロポリスは、要するに原材料が植物で、その苦さを誤魔化しようもない。……変に弄って薬効が落ちるのも嫌だったし。

「りょ、良薬口に苦しといいますから!」

「クラウディアは淑女の規範なんだから、好き嫌いを言ったら駄目じゃない」

 僕らへ渋い顔で応えるも、大人らしく薬湯プロポリスを一息に呷られた。さすが判っていらっしゃる。



 それというのも今日この瞬間から、この基礎的医学を下敷きとした新しい典範へ変わるからだ。

 ドゥリトル城はもちろん、領内の全てが。やがては北王国デュノー全域もで。

 ぼくも決まりとして公布するし……なにより規範と目される母上が自ら指し示せば、全ガリアの女性も従う。それこそ石鹸の製法が伝播したのと同じで。


 また十日間の安静もとして広げて下さる予定だから、さらなる成果を得られる。

 ……全世界的に庶民は、出産翌日から農作業に従事も珍しくないどころか――

 なぜか座ったままの出産を強制し、その後も数日間は横臥を禁じた地域すら! もう、ほとんど拷問だ!

 答えが分っているからの批判とは思う。それでも言わせて貰いたい。

 未開な時代に高かった妊婦と新生児の死亡率は、下手をしなくても人災なんじゃ? 特に中世から近世にかけて!?



 かなり重要なことかも知れないけど――

 そんなことより、いまはエリティエだ! 嗚呼、可愛い!

「では、この子が――エリティエがドゥリトルを継ぐのだね。坊は分家を?」

「そうなると思いますけど……一応、いまのところエリティエは玉座の後継者でもあるかと」

 僕に子供がいない以上、それが次善の策だろう。後継者の不在は良くない。

「……坊の跡継ぎは、坊自身でこさえればええ。婆に曾孫を見せて下され」

 な、なにを突然に、御祖母様!?

「私が吾子の歳には、もう貴方を身籠っていましたよ?」

「……そろそろ婚礼の日程も考えないとだねえ、リュカ」

 母上に父上まで! でも、そうするべき……なの!? 凄く気が早過ぎない!?

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