中世初期の医療事情

 もう今日は会議にならぬでしょうと気を使われつつ、父上と広間を後にする。

 ……誰もが城住まいなだけあって、このような出来事は慣れっこか。

 結局のところ、大半の者にとって城は家だ。自宅兼職場な経営者一族と、家族ぐるみで住み込みの従業員だらけといえた。

 さらに住人が千人前後ともなれば、年に四十人は妊娠している。もう誰かが出産なんて毎週のようだったけれど――

 だからって僕や父上の不安が消える訳もなく、たいして役にも立たないと分っているのに、母上の下へと馳せ参じてしまう。


 が、その前に一仕事――医者や産婆が屯う部屋へ突撃せねばならなかった。

 僕の意を汲んだティグレが蹴破らんばかりに扉を開けると、しかし――

 そこには吃驚した様子の医者と産婆が!

 いや驚いていたのは、べつにおかしくない。まずは度肝を抜こうと思った訳だから、それの成功した証拠だろう。

 けれど降参とばかりに掲げられた両手は、消毒液に塗れてて!?

 施術前に自分達自身を清めるよう指示しても、これまで頑として首を縦に振らなかったのに!?



 医学が発展してない時代、産褥熱と呼ばれる症状で妊婦の死亡例が多かった。

 これは現代人が聞いたら耳を疑うことが原因で、ようするに――

 医療従事者が自らを消毒しなかった為、患者が感染症にかかった

 だったりする。残念ながら嘘や冗談ごとでなく。

 さらに施術者が事前に消毒するだけで、ほぼ対処できるというか――

 最悪で十人中三人が死ぬという産褥熱を、最良で二十人中一人にまで改善可能だ。

 どころか統計が無いだけで、新生児にも感染症のリスクは同じくあり――

 新生児の死亡も、これだけで数割は減少が見込める。

 いかに消毒が重要かという証左といえた。

 ……それを人類が理解するのには、あと千年近くを必要とするけれど。



「りゅ、リュカ様! それにレオン様!

 こ、これで! これで宜しいのでございましょう、騎士ライダーティグレ!」

 そういうなり医者は、これ見よがしに手を消毒用アルコール塗れにしていく。……よっぽどティグレが恐ろしかったらしい。

「さて! 御納得されたのなら、そこを通しておくんなまし! あたしゃ忙しいんですから!」

 産婆も威勢の良いことを口にするけれど、しかし、やはり両手は消毒用アルコール塗れだ。

「ど、どうして!? ふ、二人とも納得してくれたの!?」

「リュカ様の聖水は、疫病をも退けたではねえですか。きっと悪い風にも効くに違いねえだ」

 などと産婆は説明してくれたけれど、微妙に理解を間違っている。正すべき?

「わ、私は……その……少なくとも悪い結果には、ならぬだろうと……――

 ど、どうやら良い結果が導けるようでしたし」

 まあ、そりゃそうだろう。変に意地を張らず試しさえすれば、結果は一目瞭然だ。

 でも、科学というよりオカルトおまじない的な理解で良いのだろうか?

 それに意外な疫病の効能といえたり!? あれだけ説得が難航したのに、なんだか拍子抜けだ。

 ……前世史の発見者――消毒を初めて推奨した医師は、とても苦労したというのに。


 そんな思いを吹き飛ばすかの如く、もの凄く元気のよい産声が聞こえた。

 この距離を!? それに、もう!?

 が、この誤解は、すぐに産婆が解いてくれた。

「おめでとうございます、騎士ライダーティグレ様。元気な御子様のようで」

「ど、どうやら! そ、そのようであるな! 我が息子か……娘かは分からぬが……お、御役目に遅れずに済んだ」

 うわぁ……凄い汗……それに、ここまで挙動不審なティグレは、初めて見る。

「というか! 母上だけじゃなく、奥さんも――レディ・フルールも産気づいてたの!?

 そしてティグレ! 父親なのに、こんなところで何してるのさ!?」

「わ、私めは……そ、その……ご、御公務につき――」

「僕やリュカの護衛なんていいから! すぐにフルールのところへ」

 そう父上も促すけれど、その顔は青かったから……ちょっと脅し過ぎたかもしれない。



 出産直後の母親は、記憶力が向上との――俗説がある。

 生まれてきた我が子を間違えない為に具わった母性本能と説かれるも、実は有効な論拠や証拠エビデンスが一つもない。

 おそらくは世の男どもに出産直後の妻を労われと、誰かが拵えた作り話の類に違いなかった。

 もうデマや似非科学と断じる他ないけれど……特徴的な出来事の記憶が鮮明となり易いのも、また事実ではある。

 つまり、もし失策してやらかしてしまった場合、その高まった記憶力で鮮明に覚えられてしまうのだ。



 嘘も方便という考え方を認めたくなかったし、僕が口にしたら何でも事実と受け取られそうで嫌なのだけれど――

 この産後に労わるという精神は、推奨するべきだった。未開の時代、そんな発想は皆無といえたし。

 それで俗説と知りつつ父上やティグレの耳へ入れておいたのだけど――

 どうやら効果抜群だったらしい。あの俗説は、本当に男へ刺さる。

 さしもの剣匠ティグレですら致命的な失策やらかしを、末永く恨まれたりは恐ろしいのだろう。

 ……やり過ぎたかな? 同病相憐れむとばかり、父上も同情的だし!?

 とにかくティグレをレディ・フルールが待つ産屋へと追い払う。

 妻の出産に立ち会うより、職務を優先が当たり前な時代とはいえ……それに納得してくれるとは限らない。できるだけ誠意は見せておくべきだろう。


 ちなみに出産直後の面会は、身を清めた近しい者だけに留めるべきなのだけど……それすら改めて禁じなければならなかった。

 もう妊婦や新生児の死亡原因は、半分以上が感染症ではないかと疑えるレベルだ。

 汚物は猛毒と知っているのに、どうして汚い施術や接触が駄目と気付かないのか。もう不思議で仕方がない。

 やはり邪気だとか瘴気などを信じているのが問題? あれらは全てを説明してしまえるのが拙すぎるし。


 そんなことを考えながら父上と二人、ただ母上の産屋の前で待つ。

 もう少し身分が低かったら、おそらく湯を沸かすので忙しかったに違いない。

 なぜなら近代以前の時代、陣痛の始まった妊婦を風呂へ入れる地域もあり、とにかく湯を沸かすのが定番となった……らしい。

 でも、それは見方を変えれば熱消毒とも見做せたし――

 伝統的な産婆に頼る方法だと、それなりに産褥熱の発生率も低く抑えられていた。

 結果的に妊婦や新生児、それに産婆も清潔さを保てたからだろう。

 ……もしかしたら最も産褥熱が猛威を振るったのは、医学が台頭し始めた黎明期だったり?


 しかし、僕ら父子へ気の紛らわしに最適な作業であり、さらには貢献の証となる湯沸かしは命じられなかった。

 もう、ただ焦れながら、辛抱強く待つしかない。

 母上は、無事に御出産されるだろうか?

 数割で死亡という危険な試練を、数パーセントの低リスクに抑え込めたとは思う。

 万が一の産褥熱だって、保険的な抗生物質の投薬――プロポリスの摂取で予防できなくもない。

 だが、それでも尚、安全とは言い難かった。


 ……なんと人は無力なことか。

 現代人のように無神論者を気取ろうが、どこかで祈り願うことしか許されなくなる。

 どうか母上が無事でありますように! そして僕のに生を!

 父上と二人、無言で祈り待ち続け――

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