マスキアテル・カンプフヴェットベルブ(三)

 今宵の立役者となったティグレは、僚友フォコンの酌で流し込むように盃を乾した。

 ……さすがに目を白黒させている。

 あれは何かの折にティグレへ下げ渡したブランデー――蒸留ワインの試作品だ。そんな水のように飲む代物ではない。

 でも、強敵と仕合った満足、勝てなかった無念、奥義を成功できなかった悔しさ――去来する様々な感情を落ち着かせるのには、役立ったようだ。

 ……お酒と鎮痛剤アスピリンは、あまり良い飲み合わせじゃないというのに!

「弟子サムソン! なにを呆けておる! そろそろ皆伝を考えていたというのに……そのように不心得では、師として情けないぞ!」

 そして早くも酒が廻ったのか、八つ当たりめいて義兄さんに絡み始める。

 当然、義兄さんも師匠の御小言を無視とはいかない。師の教えを拝聴するべく、奔ってダッシュで駆け寄る。……いつの時代も弟子パシリは大変だ。

「師が志半ばで倒れし時には、それを継ぐが弟子たる者の心得であろう!」

「……え? いえッ! 師匠、その通りです、師匠!」

 いや武侠とかだけど! 仕合で引き分けたからって、復讐を誓うの!?

「その心得や良し! さすがは我が弟子よ! では征け!」

 意外にも褒め称えたティグレは、片手で義兄さんを投げ飛ばす!

 ……というか、義兄さんの方で跳んだのだろうなぁ。

 逆らったら折檻だろうし、変に投げられるより自分から跳んだ方がダメージはない。いわば低ヒエラルキー弟子の処世術といったところか。……泣ける。


 だが、それは蜻蛉を切りながら試合場ひろばへの乱入エントリーに他ならなかった!


 しかも、即座に騎士ライダーヒルデブラントがゲルマン古ドイツ語で名乗り口上の二段構え! って、何してんの!

 慌てて振り返ればヒルデブラントの手には盃があり、いそいそと酌をするフォコンの姿が!

 そして僕の視線に気づいたのか――

「自分は剣匠ティグレに皆伝を許されし一の弟子。師に代わり、居残った挑戦者の相手を務める、と名乗りました」

 と翻訳してくれた。

 でも、違うよ? 僕が咎めたいのは、その手に持った賄賂の方!

「む? 神官は、どのような理由があろうと、祖霊の代理以外は認められぬ、と。これは困ったことになりそうです」

 さらにドル教神官の言葉も通訳してくれて助かるけど!

 いや、それはそれで都合がいい? この純然たる悪ふざけ弟子いじめも拒否されそうだし?

 が、ばつが悪そうに広場に佇む義兄さんへ向かって――

 祖霊の仮面が投げつけられる!

 誰の仕業かと辿ってみれば、なんと騎士ライダールーだ。

「従士――いやさ、いまは叙勲の誉れを授かっていたな……――

 騎士ライダーサムソン! お主がみせよ!

 さすれば我が君は、先の約定を御守りに為られるであろう!」

 それは王太子の忠臣らしい機を見計らった介入であり、宿敵への――義兄さんへの挑発をも兼ねていそうだ。

 もちろん義兄さんは毅然と受け流すのだけれど、しかし、なぜか歯噛みして見守るグンテルへ一瞥くれた。

「……よかろう。今宵に限り、俺は祖霊とやらの代行者だ」

 と告げるや、決意の表情を仮面で覆い隠してしまう。


 これに大喜びなのは、困ったことに僕らの師匠達だ。よい酒の肴だとばかりに盃を重ねていく。

 あまりのことに僕やポンピオヌス君、ルーバンは顔を見合わせちゃうけれど……新人騎士一番の下っ端に意見が許されるはずもない。

 もう興味深そうなエステルから珈琲を受け取り、それを啜るのみだ。


 そして義兄さんが広場の中央へ進み出て、やっと待ちかねていたブリュンヒルダ姫との対決かと思いきや――

 なぜか義兄さんは、無言でグンテルを指さした。

 誰もが意図を汲めず首を捻り、やがては騒めきだしかけ、なにごとかとブリュンヒルダ姫が問い質さんとする寸前、やっと義兄さんは奉剣礼を奉じる。

 慌ててブリュンヒルダ姫も応じ、それで仕合が開始された。


 だが、すぐに違和感を覚えさせられる。なにかが変だ。

 少なくとも義兄さんないような?

「この動きは……グンテル?」

「やはりか」

 テオドリックの囁きとフォコンの応えで、やっと僕にも理解できた。

 おそらく義兄さんは、グンテルの動きを模倣している! まるで仮想されていた影の動きを、なぞるかのようにして!

「……優しい子ですね、サムソンは」

「戯れてはならぬと戒めてはおるのだがな」

 称えるブーデリカに、しかし、ティグレは難しい顔だった。

 それは勝負事の本質が、あくまでも勝敗を分かつだけという――道を究める者としての見地からか。



 だが、いくらティグレが否定しようとも、あらゆる競争は対話の側面を持つ。

 命を懸けた決闘であろうと、基本的には遊戯な囲碁や将棋、チャトランガであろうと――なんであろうと人は、競い合う過程で通じ合えてしまう。

 それこそ千の言葉を交わすより、ただ一度きりな真剣勝負の方が深く分り合えるほどだ。

 ……認めたくはないけどエステルも王太子とのチャトランガを通じ、その人となりを理解したのだろうし。


 さらに義兄さんは、この仕合で別に主張をもしていた。

 ブリュンヒルダ姫は、グンテルに勝てる。真っ当に戦いが成立さえしていれば、それは自明の理だと。

 まあ残念ながら、誰にでも分かるようでは、なかったかもしれない。

 けれど当の本人――グンテルが悔しそうに唇を噛みしめ、その隣に立つジーフリートが喝采を送っているのだから、伝えるべき人物には届いている。

 もちろん対戦相手のブリュンヒルダ姫には、誰よりもで!



 徐々に結末が明らかと成りつつあった。

 ブリュンヒルダ姫が止めの一撃――儀礼に則って返した剣の平で、義兄さんの肩でも打ち据えれば終わる。

 それで勝負あり。グンテルの――義兄さんの負けだ。

 ……いつからだろう? 正しさより、勝利や利益を優先してしまうようになったのは?

 でも、義兄さんが負けることで正道を示すというのなら、僕はそれを尊重しようと思う。

 それにブリュンヒルダ姫が負けなくても――サリ族が何れかの勢力に与しなくても、なんとかできる。

 レヴ族とサリ族が大同しなかっただけで十分だ。なんの問題も――


「サム兄さんも、リュカ義兄様も、まるで分ってない」

 なぜかエステルに糾弾されてしまった。

 それが聞こえたはずもないけれど、そうだそうだとばかりにブリュンヒルダ姫も――

 まるで息切れした相手の呼吸を待つかのように、なぜか間合いを!?

 さすがに説明をエステルに目で求めれば――

「真剣な話し合いの最中に別の人の話ばかりしてたら、どんな女だって怒る」

 とのことだった。

 ……より分からなくなったんだけど!?


 しかし、我らが剣匠ティグレの叱責は、僕にでも理解可能だった。

「だから戯れるなと、口を酸っぱくして教えたであろう! お主は勝ちを譲られ満足か?」

 ……なるほど。

 確かに義兄さんの主張は、分らないでもない。間違ってもいないだろう。

 だけど「それはそれ、これはこれ」ともいえた。いわば片八百長で勝利を譲ろうなんて、ある意味で対戦相手への侮辱だ。

 ブリュンヒルダ姫の不満も分らなくはなかったし……謝罪の機会を与えられたともいえる。

 素直に義兄さんも悪かったと奉剣礼で示し、謝罪があるならばとブリュンヒルダ姫も奉剣礼を返す。


 だが、仕切り直してからの実力差は、歴然だった。

 ブリュンヒルダ姫が渾身の連撃も、ただ丁寧に義兄さんは打ち払っていく。

 どころか合間あいまで返される斬撃は、姫君に大怪我でもさせやしないかとヒヤヒヤさせるほどだ。

 もう何合も持たない。どこかで確実に姫君が負ける。しかし――

「真剣勝負とは、善きものに御座いますね」

 とポンピオヌス君の漏らした感慨が全てか。

 突き詰めたら殺人術の競い合いだというのに、観る者の心は揺さぶられていた。

 また解らないなりにも察せさせられる。

 その一振りに込められた熱意が、その一足に費やした汗が、その研鑽に掛けた時間が――


 決着は一瞬の出来事だった。


 剣を弾き飛ばされ体勢を崩すブリュンヒルダ姫。

 引っくり返ってしまわぬよう義兄さんは優しく支えつつも、一応、剣を胸へ突き刺すように構えていた。

 ……仕合とはいえ、女の子を剣で叩くのは気が引けたのだろう。

 ドル教の神官が何か裁定を下していたけれど、さすがに僕でも分る。きっと「勝負あり」だとか「そこまで」に違いない。

 それで義兄さんに掻き抱かれたままブリュンヒルダ姫も――

「約定通り妾は、勝者である其方に――騎士ライダーサムソン殿に従おう!」

 と高らかに宣言した。


 ………………うん?


 嗚呼! これってテオドリックの派閥ザール族ブリュンヒルダ姫の氏族サリ族、さらに王太子の息が掛かったギーゼル族を、こちら陣営へ引き込めるってことでは!?

 勝った! これでゴート問題は完! 凄いや、義兄さん! そしてティグレ!

 なのに、なんだってエステルは難しそうな顔で首を捻って!? もう何も厄介ごとは残ってないというのに!

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