財界との癒着

 門閥派オプティマテスにして交易商人でもあるガイウス・コリネリウス・スキピオは、チャトランガ盤を前に唸り続けていた。

 まだ仮設ながらも体裁の整い始めた北王国デュノーの王宮、それもぼくの私的な応接室サロンでのことだ。

 長い熟考の末、意を決したかのように駒を動かす。

 対戦相手のエステルが満足そうに頷いていたから、妙手の類なのだろう。

「それで……どうする? 乞われるまま十艘もの船に、小麦を満載してきたが――これへ値段を付けての取引は、さすがに勘弁してくれ」

 盤面から顔をあげ、こちらを向いたガイウスは、柄にもなく申し訳なさそうだった。

 おそらくは北アフリカ地中海南岸の穀倉地帯辺りから運んでくれたのだろうが、普通はガリアフランスへ運ばないし……大西洋を経由して北部へなんて、もっとあり得ない。

 また外洋仕様かつ帝国でも最大の一万壺級――四百トン級の船を十艘もチャーターだから、その小麦の値段は推して知るべしだろう。

「船主に掛かった日数分の売り上げを補填。その辺が落し処ではなかろうか? 我らで捌いても、似たような売上は稼げようが……手間が掛かるし、寝覚めも悪い」

 この時代に交易は、対重量コストパフォーマンスがシビア――というよりも、ほとんど博打にも近い利率だ。

 高値で売り捌ける小麦だろうと、通常の交易と比べたら細やかな利益という他がない。

 かといって食糧難で困窮している民衆に吹っ掛けるのは、さすがの帝国商人も気が引けたのだろう。

「ウチは、それでかまいません。でも、帰りは空荷やないのやから、そないに足元を見たらあかんよ」

 ガイウスを牽制するかのように、ポンドールが助け舟を出してくれた。

 ……控えめながらも華やかに着飾っていて、なんだかドキドキする。なんでも側室コンクビナ貴人ノビリスの義務と考えている……らしい。

「ま、まあ! それこそ我が国の名誉に懸けて、船主への補填は約束するよ! ただ、あと何便か追加で頼みたいな」

 ポンドール以外の聞き手は吃驚するけれど、これは単純に規模の問題だ。

 小麦四百トンなんて百万食分でしかなく、人口百万の北王国デュノー百万だと一日分でしかない。

 つまり、無理を言って輸入したのに、たったの十日分でしかなく、年間でいうと三パーセント程度となる。

「その注文はアタシ達へもかい、王様? それと謎なんだけど、どうして大麦じゃダメなのさ?」

 退屈そうにしていた女商人ミリサが、半ば雇い主ともいえる僕に確認してきた。

 エジプトとの貿易で帰路に小麦を積めなくもないが、その分だけ利益は落ちる。それで面白くないのだろう。

「大麦でも構わないけど……かえって集めるのは大変だと思うよ? そんなに流通してないだろうし?」

 日本の江戸時代は米の――穀物の流通システムが部分的に確立していた稀有な例といえるが、それでもひえあわは販路に乗らなかった。日常的には、他所から取り寄せるほどの需要がないからだ。

 それを踏まえたら西欧でも、貧民食な大麦の流通なんて成立してないだろう。

「……仰せのままに、陛下。よくよく考えたらアタシだって、ガラス職人達が死んじまったら、御飯おまんまの食い上げだしね」

 納得がいったのか、そう嘯いてミリサは肩を竦めてみせる。



 北王国デュノー中で――いやさガリアフランス中で人が死んでいた。疫病――おそらくはウイルス性疾患インフルエンザによって。

 現代人の感性だとインフルエンザと聞いて、拍子抜けしてしまうかもしれない。

 だが、インフルエンザに罹ったので「緊急で病院へ駈け込んだ」や「点滴を受けた」、「注射を打ってもらった」、「処方薬を飲んだ」は、この時代だと高確率で死亡となる。

 「高熱が出た」や「市販薬で治した」、「栄養ドリンクで持ち堪えた」などでも、極めて分が悪い。

 もう「軽く熱が出たけれど、数日ほど安静にしていたら治った」より重い症状の場合、重篤な生命の危機といえる。

 なぜなら対処法が二つしかないからだ。

 それは「栄養を摂る」と「可能な限り安静にしている」であり、ようするに基礎体力頼みといえた。

 そして働き盛りの男手が倒れ始めると、さらなる二次災害へ発展する。

 食糧難だ。

 ただでさえ食糧備蓄力が低い――これは技術力的にも、生産力的にも――のに、この危機を絶え凌ぐことすら不可能となってしまう。

 また、これが三次災害をも呼ぶ。

 ウイルス性疾患インフルエンザへの対応が「栄養を摂る」と「可能な限り安静にしている」しかないのに、その両方を封じられてしまうからだ。

 栄養不足で倒れる者がさらに増え、かといって人手不足から安静にもしてられず、結果として耐えられたはずの流感に倒れてしまう。

 当然、人手不足が加速すれば、四次災害も呼び込み……最後には負のスパイラルを起こし底なしとなる。

 まあ、どんな疫病も人が減れば沈静化し、自動的に食糧難も解決するが……文明の発展という観点では、数十年単位での停滞もしくは後退だ。


 そして発電ルートを諦めた――電気分解の使えない僕にサルファ剤は作れないし、ペニシリンは難し過ぎて手に負えない。

 唯一、入手できた蜂ヤニプロポリスは量が少ない上に、抗生物質としては弱すぎる。

 もう打つ手なしにも等しく、胡乱な対処法に頼らざるを得なかった。

 つまり、食糧輸入だ。

 どれだけ高くつこうとも穀物を、被害のない地域から取り寄せてしまえばいい。食べ物さえあれば栄養補給は試みられる。

 さらに並行して手持ちの蜂蜜や水飴も全土に放出しておく。

 この時代、熱病患者にとって砂糖水――糖分は特効薬ともいえた。それだけで助かる命がある。



「俺も手伝います。陛下には、義理もありますし……この面白い国が疫病で終わるなんて、あんまりやし、つまらんですわ」

 そう交易商人ダウウドは言ってくれたけど、義理というのは珈琲という商材を教えたことかな?

 大人しく珈琲販路の独占に励んでいれば、世界でも指折りの金持ちと成れるものを。これだから歩く厄介ごと製造機暇な交易商人は困りものだ。

「ですが、その支払いは莫大なものと。大丈夫どすか?」

「心配はいらへんよ。背の……背のki……――

 リュカ様の支払いは、うちが保証したる。どんだけ嵩んでもや」


 僕に代わって自信満々なポンドールが言いきったのは、光の帝国を掌握し始めた証拠か。

 おそらく彼女は、この場にいる大商人達の中でも、一番に財力がある。

 ローマ帝国や中東帝国が覇権国家級――現代のアメリカと同等なGDPとして、現代の価格にして三〇〇〇兆円ほど。

 そして有名財閥の資産なら一〇〇〇兆円ほどとなり、この時代だとローマ門閥貴族のトップや中東帝国の皇室、エジプトなど古参な金持ち国家のGDPと比類する。

 一般的な財閥レベルが二〇〇兆円前後で、ローマの有力家系に相当し実はゴロゴロといるが……ここへポンドールの財力は迫りつつあった。

 さすがに生きている内は届かないとしても、子孫の代には確実だろう。どころか上手くいけば有名財閥級だって夢ではない。

 ……やはり光というインフラを千年間も独占する計画は、かなり無茶苦茶な話ともいえる。


「でも、どうしてリュカは……その……手っ取り早く解決しちゃわないの?」

 ずっとポンドールの後ろへ控えていたダイアナ女官長は、なんともいえない質問をしてきた。……義姉さん、貴女もか。

「そんなことできる訳ないだろ! というか……なんとかできるのなら、もうやってるよ!」

「だって……オラ様のご加護で、カーン教徒には熱病患者が少ないって噂よ?」

「カーン教は、食事の前に手を洗う戒律があるからだよ! いや厳密に言ったら、それを皆に教化したオラ様の業績かもだけどさぁ――」

「じゃあ、井戸水が熱病に効くというのは?」

「あああっ! そんなデマまでッ!? それは因果が逆で、川の水だとあらゆる病気がうつり易くなるんだよッ!」

「おトイレで紙を使うと良いっていうのも?」

「紙を使う人はトイレも使いがちだし、トイレには手洗い器を備え付けてるし、消毒も丹念にしているからだよッ! というか流感の最中に、不特定多数で便器を使うのは、むしろ避けるべきだしッ!」

 ドゥリトル領は被害が軽微だったので、割と義姉さん達は暢気な感じだ。実感がないのだろう。

 でも、それは僕がいるからだとか、カーン教の加護とかが理由ではない。

 先んじて生産能力が向上していた分だけ、領民の栄養状態が良好だったからだ。

 ……やはり体力か? なにごとも体力で解決してしまうのが一番?


「それじゃ食べる前に手を洗うよう言って、できたら川の水は控えて、なるべく栄養を摂って、熱が出た人を大人しくさせておけばいいの?」

 どうしてかエステルは、指折りにポイントを整理しだした。……入れ代わりに盤面へ向かうガイウスは、頭を掻き毟らんばかりだ。

「まあ、そんなところかな。あと可能な限り、発熱した者を隔離――まだ熱病に罹ってない者と接触させない。病人の汚物等に触れた場所は、必ず消毒する」

「消毒って……義兄さんの強いお酒で?」

「なければ石灰を水に溶いた物でもいい。ただ北王国デュノーの分は、もう足りてるけど?」

 嗚呼! エステルに目を逸らされた!

「ステラ! まだ王太子と文通を続けてるのか!」

「ぶ、文通って……義兄さん、そんな言い方……ただ、ノワールが……しつこく次の一手を送ってくるから……」

 あの時の一局、まだ続けてたのかよ!? それにノワール!? ノワールって誰!? もしかして王太子のこと!?

 言っとくけど義兄ちゃんは、悪魔王子なんて絶対に認めないからな!

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