停戦協議
とにかく会談の場を設けねばならないのだけど、しかし、その間に隠されていた王太子軍の窮状がよく分かってしまった。
全軍の一、二割りが疫病――おそらくは
最初から相対していたブブネの後詰に、そのような様子はなかったから……ほぼイコゥナから戻った王太子軍本隊?
つまり、約三〇〇〇前後のうち半数近くが病人だった?
そして四〇〇〇強と七〇〇〇弱の戦いに見えて、実際に相手で動けたのは五〇〇〇弱程度?
そりゃ勝負を急ぐはずだし、なにより主君との合流を優先もするだろう。総合的には不利だ。
またアキテヌの援軍で、僅かな戦力リードも引っくり返って?
それを抜きにしても僕らが持久戦術を採っていたら、相手は勝手に壊滅すら?
いや、さすがに穿ち過ぎか。時間の経過と共に敵兵が回復も考えられる。
でも、負けを覚悟する必要はなかった。……神の目で俯瞰できていれば。
街道の真ん中へ、それも両陣営から均等に離れた位置へ大天幕が設営されるのを手持無沙汰に眺めながら、苦い後悔を噛みしめる。
完全にしてやられた。
戦術的に
それを以ってすら取り返せないほど、僕が戦略判断を間違えてしまった。
勝ち負けだけを追うなら……街道の封鎖を続けて王太子本人を討ち取るか、ほぼ互角の戦力で守備側の有利を押し付ければいい。
なのに相手の急戦に付き合ってしまった。これは大きな失点だろう。
神の視点でなければ分らなかったことが多い?
いや、そんなのは分るようにしておけば済むことだし、王や王太子も条件は同じだ。僕にだけハンデを付けられている訳じゃない。
王には――指導者には、人を超えることになろうと、結果を呼び込む義務がある。
そんな風に煮えかけていたら、雄弁な溜息と共にエステルがやってきた。
……唐突過ぎて意味不明だ? 安心して欲しい。それは僕もだ。
アキテヌからの援軍に帯同というか、なぜか指揮官も同然だったエステルは――
「王様なんだから、そんな風に泣き喚いていたら駄目でしょう、義兄さん?」
と僕を窘めてくる。……名誉のために明らかにしておくけど、ひどい捏造だ。
「な、泣き喚いてなんかない! ただ、リゥパーとトリストンが それに兵士だって何百名も――」
途中で慰めるかのようにタールムが僕の顔を舐めた。……襲い掛かられたともいう。
でも、歳のせいかヨタヨタと二本足で立つ様は、少し億劫そうだった。
とにかくタールムと二人して引っくり返らないよう支える。……いつの間にやら兄弟分に飛びつかれても平気になってて、自分でも驚いてしまう。
が、さすがに二匹同時は無理だ。やめてくれ
そして尻餅をついた僕をエステルは呆れ顔で見下ろすけれど……まるで母上のように貴婦人然としていた。
「で、レディ・エステルにあられましては、どうして戦場に? 事と次第に依っては、僕だって怒るからな?」
「イコゥナで王が停戦を申し入れて、それを王太子が受諾しそうと聞いたから――
これでも急いだのよ? 御爺ちゃん、置いてきちゃうほど」
「……それでソヌア老人がいないのか。まてよ? 王が停戦を申し入れたって? 王太子からじゃなく? それにエステル? どういう権限でアキテヌに動いてもらったんだよ? 公式には立場を与えてなかったよな?」
「東部は
事情を鑑みた王太子も、ほぼ白紙で合意したそうよ。
兵隊さん達は、キャストー様にお願いして。二つ返事で快諾してくださったわ」
なるほど。なるほど。嗚呼、なるほど!
ゲルマンが東部へ南征を試みるのは、いかにもというか――
そうなっても構わないと放置したからだ。
ライン川の真ん中から西半分――下ラインは
だが、上ラインや中ラインは、なにも条件が変わらない。
むしろ前世史通りに民族大移動は活発化してるだろうし、隙あらば東部へ攻め込むだろう。
また
いざ外敵が来襲してくれば、一致団結して事に当たる。
まさしく『ガリアのことはガリア人で』の民族主義が根付いている証拠か。
……ことが治まったら治まったらで、何事もなかったかのように内輪揉めを再開するのだけど。
そして王太子にすれば大叔父上に裏切られ、
あとは
……甘い見通しで立ち塞がるなんて、もう自殺行為も同然か。
僕が情報を咀嚼している間、暇になったのかエステルはチャトランガ盤を眺めていた。
「……なんでチャトランガ盤? それに指してる途中じゃない?」
「ああ、シスモンドのだよ。途中なら動かしたら駄目だぞ? 信じられないかもしれないけど、しつこく怒るんだよ」
大天幕設営担当の兵士達は、駒位置の記録が習慣となったくらいだ。……そうでもしなきゃ片付けられないし、設営し直すのにも困る。
西部軍との停戦協議には不要だが、ルーチンワークで並べてしまったのだろう。
しかし、説明を聞いたエステルは、悪戯を思い付いた顔をしている。
「駄目だぞ? 動かすなよ?」
「……ちょっと黙ってて。考えてるんだから……これが手番の印? となれば――」
止めたのにエステルは駒を動かしてしまう。御満悦な様子だ。
そして悪戯を叱ろうにも時間切れとばかりに、こちらへ王太子一行が向かってくるのが見えた。
……少し約束より早いけど
護衛兼閣僚として付き従うは、
ちなみに
義兄さんと互角に競り合い、その隠していた実力を披露したからだ。
が、もちろん裏切者とも蔑まれてもいる。
露骨に態度――唾を地面へ吐いたり、行儀の悪いハンドサイン――を示す者も多い。
その僚友たる
体格に恵まれた者の多い
また兜へ付けられた双角も、野生牛の
……もしかしたら成人してからの改名だったり?
そんな二人を露払いとするは、王太子その人だ。
黒髪を長く伸ばしているものの、それでいてボリュームはなかったから重い印象を与えてこない。
また濡れ羽色の髪と対にしたかのように、その肌は抜けるように白かった。
やや退廃的な翳りを感じさせるけど美形の範疇といってもいい。それも狂的な信奉者を生みそうなほどの。
……
けれど、その瞳が全てを上書きしてしまっていた。
飢えだ。この魂は餓えてしまっている。おそらくは満たされそうもない願望で。
母上の恐れた理由が腑に落ちる。僕にですら判ってしまった。
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