チャトランガ

 このところたまり場サロン化しつつある臨時の執務室に駒を動かす音が響いた。

「『パオン』を動かしましたぜ。御嬢様の番です。

 ――結局、アキテヌの殿様は、ドゥリトルへ御戻りになられるんで?」

 筆頭百人長シスモンドから手番を回されたエステルは、僕へしがみつく力を強め、タールムに載せていた足もジタバタと動かした。

 どうやら劣勢へ追い込まれたらしい。

「マレー領へ表見訪問したら、あっちで船を仕立てるって。わざわざ海路とか危険じゃないのかな?」

「前線から戻った奴らの話じゃ西部と東部の睨み合いは、もう一触即発な雰囲気だったとか。そこを抜けて帰るより、海路の方がマシなんじゃねえですか? なんといっても南部の――中つ海沿いにある領地の殿様ですし」

 なるほど。ドゥリトルまではボラック達と同道の都合があったけど、自分達だけなら海路の方が楽か。

 ……ドゥリトルも河を整備して、海路まで繋げてしまうべきだろうか? このまま東西の戦争が長引けば陸の孤島と化してしまう。

「『車』を動かします。閣下の番です」

「閣下は止して下せえ、エステル御嬢様。それなら『臣』を退避でさぁ」

 再びエステルは唸りだした。察したタールムは抜け目なく逃げ出しかけるも……御嫁さんに睨まれ、仕方なく役目へ――腹立ちまぎれの踏まれ役へ留まった。



 ここで御嫁さんと聞いて首を傾げる方も居られよう。

 なんと! タールムってば、いつの間にか父親になっていたのだ!

 これはベック族はイフィ姫の守り犬バァフェルが御身籠りになられて判明した。

 金鵞城襲撃で受けた傷を理由に、しばらくタールムは弱ってたり、それでバァフェルも同情的に優しくしてくれてたけど……――

 まぎれもなく大金星だろう。上手いこと高嶺の花を射止めたとしかいえない。

 ……その反動というべきか、思いっきり尻へ敷かれちゃってるけど。

 しかし、それも当のタールムは満更でもないらしく「おんなってのは、干渉したがりで困っちゃうよね」といわんばかりなドヤ顔が癪に障る。

 まあおとことして大きく水を開けられた感は否めないけど! ぐぬぬ!



 難しい顔で盤面を睨んでいたルーバンに戦況を目で問うと、首を横に振って返してきた。やはり良くないらしい。

 シスモンドとエステルが興じているのは、チャトランガという遊びで、チェスや将棋の祖先にあたる。

 古代インドで発祥し、紀元前四世紀にアレキサンダー大王が東欧へ持ち帰ったと俗説も囁かれつつ、なんだかんだで西欧へも伝わった。

 ……いち早くドゥリトルにも伝わっているのは、例によって御爺様先代が蒐集したからだろう。

 ちなみに八マスかける八マスの盤で、自陣は手前に二列。それを隙間なく埋めて自駒は十六だったりと……チャトランガの段階で、かなりチェスに近い。

 なによりチェスで『歩兵』や『騎士』、『城塞』にあたる駒は、それぞれ『兵士』や『馬』、『車』と名前が違うだけ。

 『女王』にあたる『臣』が劇的に弱かったり、『僧正』にあたる『象』が奇妙だったり……癖は強いものの、同じロジックなゲームといえる。


 そしてことからルーバンがチャトランガの名手と判明し、ポンピオヌス君も愛好してたりと……チャトランガの指し手は多いと判明したのが、今回の発端だ。

 こうなると男の子的には、優劣を着けねば治まらない。俄かにチャトランガ大会と相成った。

 まず驚かさせられたのは、ルーバンが本当に強かったことか。それも尋常ではないほどに。

 僕などは前世でのチェスや将棋の経験や知識を流用し、辛うじて面目を保てた程度でしかない。もうルーバンとの勝負では、防戦一方だ。

 しかし、その苦戦の最中、要所々々でエステルが助言を囁いてくれた。

 そして半信半疑ながら従ってみると、それが正しい。

 吃驚して最初からルーバンと競わせてみると、勝ったり負けたりを繰り返す。

 僕らの中で一番に――大人のフォコンやティグレより強いルーバンとだ。

 ……ちなみにサム義兄さんが――弟子がチャトランガに弱いことに驚いたティグレは、急遽特訓を開始している。

 どうにもチャトランガに弱いのは、剣士として欠点になり得る……らしかった。



 おそらく将棋やチェス、チャトランガなどの運が絡まないゲームには、勝負事の基本が全てあるからだろう。

 自分の成功プラスは相手にとって不利益マイナスであり、相手の失策マイナスは自分の利益プラスと成り得る。

 こんな基礎中の基礎ですら、漫然と生きていては閃けないし……相手の足を引っ張ることは、努力にすら等しいとの応用へも至れない。

 それ以前に『何がプラスか、あるいはマイナスであるかの定義』や『最終的な勝利条件を理解し、目指す』など……――

 勝負事を通じて、初めて意識される事柄も多かったりする。


 さらに『王』を詰めれば勝ちという勝利条件が、独特のを育む。

 将棋やチェス、チャトランガの基本的な勝ちパターンは、相手が対応不能になるまで王手を――対応されずに次の手番が回ってくれば、相手の王を取れる状況――を続けるだ。

 つまり、こちらが王手を掛け、相手に対応を強要する。

 対応されても再び王手を指せば、また相手も対処するしかない。

 そして何度回避されようとも王手王手で繋ぎ……基本的な勝ちパターンでは、相手の対応策が尽きて勝利となる。


 まれに勝負事を詰み将棋――連続王手で勝利まで確定している盤面や、それをクイズとして解く遊び――に例える人がいるけれど、まったくの見当違いだ。

 なぜなら将棋やチェス、チャトランガの基本的な勝ちパターンは、盤面を詰み将棋とすることにある。

 そして詰みの確定した局面で「まるで詰み将棋だな」などと嘯けば笑いものでしかない。

 勝負の肝は、その詰み将棋へと至った道筋にこそあるからだ。


 さらに現実では、詰み将棋的な勝ち方が全てでもない。あくまでも方法論の一つに過ぎなかった。

 しかし、それを得意とする者もいるので、全くの無案内だと一方的に負けてしまう。

 なので剣士は、チャトランガに駄目らしい。

 少なくとも詰み将棋的な勝ちを狙われていると察したら、それを防げる程度の理解はしておくべき……らしかった。



 が、サム義兄さんに、そんな小器用なことを覚えられるはずもなく、本日の特訓も不発に終わったようだ。……ティグレが憮然とした顔をしているし。

 手順殺しの実例を説明すれば、それで義兄さんなら理解できると思うけどなぁ。……あるいは、もっと単刀直入に体験させてしまうとか?

「どうやら俺は最下位脱出みたいだな!」

「誇ることなのか、それは?」

「なに、俺は戦術より占術せんじゅつが専門だからな。騎士ライダーや従士で一番に弱くなければ構わんのよ」

 義兄さんとティグレの修行風景を見物していたフォコンとリゥパーは、まるで漫才のような感想を口にしていた。

 しかし、占術の冴え――右ストレートのフォームを頻りに披露している辺り、もしかしたら義兄さんを慰めているのかもしれない。……チャトランガの腕前など、武人の資質に関係ないと。

 うん、義兄さんまで占術の専門家となってしまう前に、僕も手を打っておこう。これ以上に増えるのは正統後継者だけで――ルーバンだけで十分だ。


「『兵士』で『象』を倒します! 閣下の番!」

「なんたって、この『兵士』の奴らは、前にしか進めないんですかね? 功を上げる時だけは、ちゃっかり斜めへ進む癖に。

 『馬』でそちらの『臣』を。さらに王手チェックですぜ、御嬢様。

 ――ゲルマン討伐に、金鵞兵坊主たちを出さないで良かったんですか?」

 チャトランガが強くない僕でも分かる。こんなに連続かつ即座に手番を返せるようでは、もはや全てが読みの範疇なのだろう。

 どうやらドゥリトルが誇る参謀長官殿は、詰み将棋的な勝ち方に長けた武将らしかった。

 それでいて名を馳せてないのは、駒遊びが嫌いだから? どうやらルールに納得がいかない様子だし。

「帝国との防衛戦にも、北方防衛戦にも――しばらく何処へも出征してない騎士ライダーがいたからね。その辺はバランスとらないと。

 この助言をしてくれたのは、シスモンドのはずだよ?」

「それもそうですけど……いやね、西部や東部、さらには南部へも使者を送りたいと仰ってたじゃねぇですか? それで軍部うちに適当な奴はいねえかと打診もされて?」

「それで今日は紹介に来てくれたの?」

「一応は探しましたよ、他ならぬ若様の御下命ですし。でも、いる訳がねーって話です、軍部になんか!

 多少でも頭に具の詰まった士官には、パンや矢を数えるので忙しいと断られました。やっぱり畑違いの政略なんて、引き受ける奴は奇特かと」

 本業は兵站管理などの実務で、外交――営業的な資質とは掛け離れていると言いたいのだろう。

「僕にも判り始めたよ。これまでドゥリトルは、外交を任せられる人材を育成してこなかった。……必要なかったからね」

 おそらく領主的外交と君主的外交は、性質からにして全く違う。

 そして外交官の別名――間諜スパイを囲う必要性なんて、普通の家にはない。

 しかし、領主や家系の人付き合いの延長では、用の足りなくなる日も来てしまいそうだ。

 それに「僕が君主的外交に着手するべきか?」という根本的命題もある。

 僕はどうしたいのだろう? たんなる地方領主の名代に過ぎないのに?


 幻想の盤を前に、顔を隠した指し手達と、勝負ゲームを強いられてる気分だ。

 ……それも肝心要な勝利条件を提示されずに。

 正直、躊躇いがある。それ故か、ちっとも考えが纏まらない。

 最善手はどれ? あるいは次善の策は? とにかく自軍以外の『王』を全て討ち果たせば勝利になる?


 御馴染みとなった思考の泥沼へ沈み込む寸前、レト義母さんが女の子達を連れて軽食おやつを持ってきてくれた。

 ……とりあえず腹拵えとの天啓か。僕の脳味噌だって胃袋で動いてるんだから。

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