人造温泉
断熱圧縮という物理現象がある。
断熱――外部と熱のやり取りがない状態で、圧縮――気体を押したり縮めた時の熱エネルギー変化を指す。
これでは何のことやら解らない?
だが、簡単化して考えれば、そう難しくもなかったりする。
十畳の部屋で、十人の発熱体。
これが熱エネルギーの想定モデルだ。……やや科学的な正確さに掛けるけれど、この理解でも間違ってはいない。
そして一畳あたり何人の発熱体がいるかで、温度は定義される。
初期状態では十畳に十人だから、一畳あたりは一人――つまり一℃だ。
この部屋を何らかの方法で一畳に圧縮したとする。
この際に発熱体は減らない。増減する理由が無いからだ。
しかし、一畳あたりでは十人の発熱体となり、温度も一〇℃となってしまう。
つまり、気体を断熱して圧縮すれば高温化する。
これが一〇分の一畳まで圧縮していたら到達温度は一〇〇℃だ。
そして一〇〇分の一畳なら、なんと一〇〇〇℃もの高温に!
……もう少し科学的に解釈するべきだけど、これでも理解の一助にはなる。
また誰もが知ってる実例を示すのなら……大気圏へ突入してきた隕石が燃え尽きたりするのは、この断熱圧縮が原因だ。
隕石の速度で空気を押せば数千度どころか、下手をしたら数万度にも届く。
他にも空気入れの金具などが、溶解してしまうほどの高温へ達するのも、やはり同じ理屈といえる。
噛み砕いて説明されると、なんでもなく思えたかもしれないが――
これで運動エネルギーを熱エネルギーへ変換する、人類が知り得た最も効率的な方法だったりする。
もちろん水力や風力、波力、人力……どんな運動エネルギーだろうと変換可能だ。それも高効率で。
そして前世史の活用法を上げれば、この仕組みでお湯を沸かしたりしていた。
さらに他の一般的な加熱方法と違い、熱の均一化に頼らないのも大きな特徴か。
例えば炎による加熱だと目標温度へ達するのに、より高い燃焼温度でなければならない。熱の均一化を利用して、対象を温めているからだ。
……ようするに五〇〇℃の炎では、五〇〇℃弱までしか温めることができない。
だが断熱圧縮は、気体が保持する熱エネルギーを偏らせることで高熱化している。
つまり、理論上の到達可能温度に制限がなく、熱源という枷が存在しない!
そんな最先端技術が採用された人造温泉は、糸のように細く温水を吐き出していた。
ちなみに量ってみたところ、だいたい毎秒〇.五ミリリットルほどになる。
つまり、毎分で三〇ミリリットル、一時間だと一.八リットル、一日なら四〇リットル強だ。
「ちと頼りなさ過ぎやせんか、リュカ殿? この風呂が小さめなのも、これが原因か?」
「で、でも! こ、これは! 水車の力で温水を得られるという!」
「よく分からぬが、焚火で湯を沸かした方が早いのではないか?」
ポ、ポンドールが言うようなことを!
確かに大金貨数万枚を費やして水車を修復、そして断熱圧縮ユニットも開発したのに、結果が焚火に負けるようでは切なすぎる。
でも、これはタダで無限にお風呂というロマンを追った結果だ!
なぜか人造温泉のプレゼンは、失敗しかけているけれど……全ての原因は技術精度にあったりする。
標準的な水車の出力は八馬力で、ジュール換算すると毎秒六〇〇〇ジュール、熱量換算で毎時五〇〇〇キロカロリーほどだ。
熱器具に例えると、大きめの石油ストーブ程度か。
だが、それでも水なら二〇℃の加熱を毎時二五〇リットル、鉄ですら一日に何百キロをも溶かせれる。
……エネルギーの変換効率が一〇〇パーセントに届いていれば。
残念ながら前世史の最先端な技術でも、二五パーセント程度が理論的限界だった。
実践では、さらに効率低下してしまうし……今生の工業力では、もう惨澹たる有様となる。
だが、どうして皆は分かろうとしない!?
水力や風力を利用した、燃料の全く要らない人造温泉! それは人の夢だ! 誰もが、これを欲しがるはずなのに!
確かに水車一基の建造費は大金貨数万枚――前世史の価値で億単位にもなる。
さらに中世突入時、ガリア全土でも水車は、片手で数えられる程しかなかった。
……壊れかけとはいえドゥリトルに存在したのは、まさに僥倖だろう。
また大金貨数万枚は、風呂百年分以上の代金――燃料費だけでなく、諸々の人件費込みもで――に相当する。
そして入浴が目的なら、もっと効率の良い手段がなくもない。
でも、これには浪漫が詰まって! この風呂は
だが、この思いを熱弁しても分かって貰えまい。……少なくともポンドールは駄目だった。なんと技術屋のジュゼッペすらも。
ガリア人は風呂に対して、不当に評価が低すぎやしないだろうか?
ちょっと水車に無駄使いしただけ、ほんの大金貨数万枚が無駄となりかけただけなのに……――
しかし、今回は父上の御帰還が懸かっている。
ここは男らしく涙のを呑んで堪えよう。……
隅で隠れるように控えていたジュゼッペへ合図を送る。
……「だから言ったじゃねえですか」みたいな表情を! ギギギ!
それでも手は止めずに……水車の動力と断熱圧縮ユニットの接続を外し、中の温水――熱媒体を抜く。熱媒体を
さらに逆止弁の向きを反対にするべく、一抱えほどの大きな蓋を開ける。
露わとなった断熱圧縮ユニットの内部は、全てが黄金製な上、シリンダー――それも意味ありげに、途中で径を窄めたもの――が整然と並び、『機械萌え』とでもいうべき風情を感じさせた。
ふと思い立ち――
「ガイウス殿、ここを――この径が広がった辺りを御触り下さい。これが何であるか、たちどころに理解できます。
――ジュゼッペ、先に動力との再接続を」
と安全なのを実演しながら手招く。
興味が抑えきれない様子のガイウスは、見よう見真似で僕に続き――
「なんと!? もしや……冷たく!? いや、気のせいか? 違う、確かに!」
と驚く。……なんというか、もう赤子の手を捻るが如しだなぁ。
断熱圧縮の対な現象に断熱膨張がある。
やはり断熱された状態で、空気を膨張――広げたり引っ張ったりした時の熱エネルギー変化で、断熱圧縮と真逆の結果をもたらす。
つまり、温度の低下が引き起こされる。
具体的にはユニットの逆止弁を引っくり返すだけで、一日に二、三〇リットルほどの氷を獲得できた。
ようするに前世史における小型冷凍庫で、水車代込み十数億と聞いて引かれたかもしれない。
だが、僕に硝石技術を開示の意思がない以上、入手可能な唯一の商品だ。
……あるいはローマ
「この前にいらした折には、たいそう御執心でしたね?」
「そ、そうであったかな? し、しかし、いつでも氷が楽しめる程度では……それに水車! 水車が要るのであろう?」
「はい。ですから特別な方にしか――友誼の結べる方にしか、御譲りできません」
実際、光線銃を懐中電灯として売るにも近い。
不特定多数へ売ったり、勝手にコピーを作られたりは、あまり好ましくなかった。
……超技術と理解に千年が。そして活用には、さらなる年月が必要だけど。
「ど、どうであろう? 俺は欲しいのだが……しかし……そこまでの用意はしてこなんだ。水車の確保もあるしの……――」
俄かにガイウスは断熱膨張ユニットを下げ始めるも、さんざん氷を堪能してからでは無理というものだろう。
「細かくは追々でも? 当家と致しましては、譲れぬ条件に御約束を頂ければ」
とにかく父上だ。ドゥリトルとしては、それを果たさねば身動きすらとれない。
ただ、まあ……ガイウスがユニットに夢中な様子は、僕らが最上の仲介者を得た証拠といえた。
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