Sランク戦略・下
前世史では四世紀頃に――今生だと
それから中東を中心に珈琲は流行し続け、ヨーロッパでも地中海沿岸全域を席巻する。
……前世史のイタリアや南部フランス、スペインで、紅茶よりも珈琲が愛されていた理由か。
しかし、珈琲一杯に豆一〇グラムは必要だ。
胡椒並みの値段――同じ重さの銀と等価値ならば、珈琲一杯が数千円となる。この半分どころか一〇分の一で考えても、けっこうな贅沢品だ。
もし、ここで熱狂的に珈琲を受け入れてしまったら、千年先に紅茶で起きる貿易赤字を、珈琲で前倒ししかねない。
そして大雑把にいえば貿易赤字とは、自分達が搾取される側へ回るということだ。
ある意味で贅沢は国を滅ぼしてしまう。母上の心配も尤もか。
「ですが母上の御蔭で、妙案を思いつけました! いまのところダウウドも商品価値に気付いた程度ですから……ドゥリトルまでの販路を作らせてしまいましょう! そうすれば、より良い取引先と知り合っても後の祭りというもの!」
ドゥリトルから
しかし、聞いて母上は口をあんぐりと御開けになって驚かれてる。
……この発想を僕と分かち合えそうなのは、ポンドールぐらい!?
そもそも前世史でアクスム王国は、紅海からインドへの航路を――裏シルクロードとでも呼ぶべき流通ルートを握っていた。
また中世ヨーロッパ史とは「地中海の流通を誰が支配したか」で、そこは列強の主戦場だけれど……流通の終着地となるだけでも、大きな見返りは見込める。
曲がりなりにも世界経済とアクセス可能になるからだ。
これが大きい。北方の一辺境と、北方で最も有力な流通の中心とを比べたら、その将来性は天と地の差にもなる。
しかし、何かを買ってあげねば、ここまで買いにも来てくれない。
そこで僕らは胡椒や珈琲を買い、帰りは商人達に板ガラスや鏡、
貿易収支も赤字さえ回避できれば上出来だ。トントンでも御の字だろう。なぜなら地場産業を潤わせられる。
偶然の思い付きにしては、検討価値のある戦略といえた。
……ドゥリトル側に海上戦力どころか、運送力すら無いことに目を瞑れば、だけど。
「とにかく! 珈琲にせよ、胡椒にせよ……いずれは安くなると思います!」
物を安くする手段は色々とある。
そのうちの一つは『売り手を増やす』であり、珈琲航路の終点ともなれば、それなりの流通量となる――つまりは価格の下落だ。
インド航路の発見だけが、その手段ではない。これでも用は足りる。
けれども、この妙案に母上は顔を引きつらせ、僕へ手招きをしてきた。どうしたんだろう?
しかし、疑問に思う間もあればこそで――
「やっと捕まえましたよ、吾子!」
と抱きすくめられた!
「母上!?」
「嗚呼、重い! 大きくなりましたね、吾子は! あんなに小さな赤ん坊でいらしたのに……」
なんとか僕を膝の上へ抱き上げようとされるけど、さすがに無理だろう。
まだ背丈こそ追い抜いてないけど、そんなに二人の体格は変わらなくなっているし。
ただ、どうしてか母上が哀しまれているように思えて、なるべくジッとしておいた。
「……どうかなされたのですか、母上? もしや父上から、よくない知らせでも?」
「いえ! レオンからの便りなど……御父上は、少し筆不精が過ぎるのです。吾子は、そのようになってはいけませぬよ?」
そう不平を漏らされたと思う間もなく母上は、俄かに背筋を正された。
「御役目、御無事に果たされ、まこと祝着至極にございます。また帰還の折には、ベック族を軍門へ下されたとか。御屋形様も必ずや、その忠勤と武勇へ報いることでありましょう」
これは正式な――それこそ父上に代わってのドゥリトルを代表した謝意だった。
でも、その喜ばしいはずな祝いの言葉を、どうして血を吐く様にして!?
「過分な御評価に、この身は震える思いでございます。ですが、ただ義務の求るに従ったまでのこと。そう御構え召されぬよう。
――母上? 一体全体、どういうことなんです?」
「まだ吾子へ、正式な祝言を申し上げてなかったかと」
微かに微笑まれる母上は、しかし、瞳の底へ深い哀しみを宿していた。
「……このリュカめに、なにか粗相がございましたか?」
「いいえ。いいえ、吾子は、立派に御名代の責務を果たされました。母も誇りに思うほどです」
再び抱きしめられるも、なんだか祝福の抱擁というより……まるで縋り付かれたかのようだった。
「母上?」
「私は駄目な母親の様です。この世に安全な戦場など無いというのに……
これはレイルへの救援について?
しかし、確かに言われてみれば、安全な戦場と考えられなくもなかった。
なによりドゥリトルは義理での参戦だ。
混戦や激戦、長期戦など――面倒な成り行きとなったら、早期の撤退も選択肢に入る。……盟約があったところで、つまりは他人事でしかないし。
となると消去法的に、ベック族との遭遇戦で母上を悲しませて?
だけど、あれは仕方がなかったと思う。
何よりも僕は武門の長となるべく、その心構えを厳しく躾けられてきた。それこそ今生で覚醒する前から――まだ揺り籠にいた頃からだ。
しかし、母親の立場で――武門だなんだと煩わしい事情を抜きで考えたら……たった独りしかいない息子が、死亡遊戯に耽っていたも同然か。
やっと僕にも、どうして母上が御怒りになられているのか、そして皆が機嫌の悪かった理由に至れた。
おそらく待つ身にとって、武勇や誉れなんぞに意義は見いだせない。全ては帰ってきてくれてこそだ。
でも、遅ればせながらの言葉を継ぐより先に――
「謝ってはなりません! 決して! 吾子は、血脈の求むる務めを果たしたのですから! 我が背レオンも――御父上も、必ずや褒め称えることでしょう!」
と遮られる。
強いて背筋を伸ばし貴婦人然と振るまう母上は、美しかった。……哀しくなってくるほどに。
また確かに、謝ってはならなかった。それは大間違いだ。僕らが僕らである理由を喪ってしまう。
「ですが母上に誓いましょう。今日この日より、決して戦に負けぬと」
必ず生きて帰るとは、残念ながら約束できなかった。そこまでは血に刻まれた掟が許してくれそうにない。
けれど不敗の誓い程度なら、辛うじて容認されるだろう。
その証拠でもないけれど――
「吾子、それは詭弁というものです。それに勝った負けたで拘ってはならぬとも、お教えしたはずですよ?」
と呆れられつつも微笑んで頂けた。
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