着火地点
垂れ下がった紐を、織り手の母上は左手で引っ張られる。
紐を目で辿っていくと、織り手の頭上で左右へと分かれ、それぞれが細長い木の箱と結ばれていた。
引っ張られたことで箱は内側へと傾き、収納されていた
この
裏には
従来型だと母上にダイ義姉さん、エステルと――助手込みの三人がかりで数秒は掛かっていたことが、ほんの一瞬だ!
そして発射された飛び杼へ注意を戻すと、対となった細長い木の箱へ飛び込むことで止まる。……これで停止と次弾の装填の一石二鳥の工夫だ。
同時に左右の細長い木の箱を傾ける仕組みだって、もう唸るしかない。
そうしておけば織り手は、飛び杼が左右のどちらにあっても、常に左手で紐を引っ張ればよいからだ。
めでたく横糸が渡されたので、母上も空いた右手で大きな櫛――
だが、まだ新型織り機の工夫は残っていた。
従来型と同じく、縦糸も互い違いに組となるよう
そして手で
ざっくり説明すると
ようするに右か左の、いま現在に上がっている方を踏めば、自動的に
結果、新型織り機では「左手で紐を引く」に「右手の筬で詰める」、「上がっている方のペダルを踏む」を繰り返せばよくなった。
……熟練工ならば一工程に一秒かからないというから、従来型から十倍以上の効率化といえるだろう。
「どうです? そろそろ量産に入っても?」
ジュゼッペ相手に改良案を語る母上へ促す。
「もしやお急ぎだったのですか、吾子? 私は、もう少し使ってみてからと思っておりました」
そう可愛らしく母上は小首を傾げられるも、実のところ現時点での完成度は度外視でよかった。
なぜなら新型を目にしたり実際に動かしたりする人は、
さらなる工夫や改良が必要不可欠だったとしても、それだけの人数がいれば必ず閃く者がでてくる。
実際、産業革命期やその前夜という時代を振り返ると、現場サイドからの発明は枚挙に暇がない。
なので革新的なアイデアの核さえ伝えてしまえば、その発展や向上などは勝手に起きる。……もう止めたくても不可能なぐらいに。
「クラウディアは楽しんでいるんですよ、若様。いまなら魔法の織り機と、それを羨望する皆の目を独り占めできますからね」
「そ、そのような意地悪をいうものではありません!」
レト義母さんは母上を揶揄うけれど、その手と目は自分専用の糸車に独占されている。
もう扱いに習熟していたから、その回転速度は結構なものだ。……赤く塗っとくべきか?
「しかし、首を長くして待つ者もいるとのこと。そろそろ完成とするべきかもしれませんね」
母上も母上で、急ぐべきとは御考えになられていたらしい。おそらく戦災未亡人への配慮だろう。
この時代、戦死者へ手厚い保証とはいかなかった。語弊を恐れずにいうのであれば、ほぼ死に損だ。
しかし、そういう時代だからといわれても、独りで遺児を育てねばならなくなった戦災未亡人の心を癒しはしない。
なによりも空腹に泣き叫ぶ子供へ与える食糧が必要だ。それを得る生活の術も。
それで一助になればと、糸車の初期生産分は戦災未亡人が最優先となった。
また人の口に戸は立てられない。この開発中の織り機だって、すでに噂となっていることだろう。
そして糸車の抽選に漏れた戦災未亡人だって、今回こそと期待しているはずだ。
つまり、あまり試作品の完成度を高めている余裕はない。すぐにでも量産へ取り掛かるべきだった。
「……
思わず独り言ちたのを、機織り部屋の隅の方で縮こまっていたポンドールに聞き咎められた。
「ええっ!? 若様っ!? もう使い果たしてしまわれてっ!?」
淑女には相応しくない大声だったけれど……これは僕の方が悪い。
いまのところ僕の財源は
そして手元に残っていないということは、あり得ない速度で僕が浪費している証拠でもある。
「レアものだったんだよ!? どうしても押さえたい戦略資源! それが今なら買えるって!」
「だからって
やばい話の流れに母上と乳母上を横目で窺うも、ギリギリセーフか?
でも、大金貨一万枚前後とは――日本円換算で十億前後の買い物とは思ってなさそうだ。
「欲しかったんだよ! どうしても! むしろ安いくらいだったし! あっ! また
「またですか! いくら損はしないいうても、元手の
すげなく袖にされたけど、これ押したら
それに現物を担保に
……軌道に乗ったら融資銀行の設立も考えるべきか?
とにかくッ! 僕はッ! ポンドールッ! 君が「うん」というまで――
よく分からないけど、どこかでセーフラインを越えてたらしい。
「はい、若様御所望の氷菓子にございますよ」
しかし、冷たい! 対応も、氷菓子も!
そして煩い! 誰だ、タールムにアイスクリームの味を教えたの! 僕や義姉さんの足元に纏わりついて離れやしない!
義姉さんやエステル、ポンドール、グリムさんと集まって何をするつもりなのかと思っていたら、どうやらアイスクリームの試食会らしかった。
そう聞かれて母親たちが働いているのに、なんと怠け者な娘たちと思われるかもしれない。
だが義姉上たちにしてみれば、わざわざ効率の悪い旧式を使うのはナンセンスという他ない。おとなしく道具が空くのを待った方が無難だ。
それにアイス製作は、正式に僕が依頼したことだから公務中ともいえた。
とにかくタールムを押しのけながら受け取る。
「ありがとう。また、色々と作ったんだね」
「色々って……リュカが沢山の種類を教えてくれたんじゃない。でも、あれね。氷を作るのがちょっと大変だったけど、労力に見合うものが出来たと思うわ」
……これを義兄さんとポンピオヌス君が聞いたら、大変どころじゃないと反論したと思う。幸か不幸か、この場にはいないけど。
「兄ちゃ! ステラも! ステラもお手伝いしたの! 青いのが、そう!」
嬉しそうなエステルに蕩けそうになるも……青いの!? アイスが!?
嗚呼、この世界線でも人類は、不毛なミントアイス論争を引き起こしてしまうのか!?
しかし、ミントアイス論争の是非はともかく……少年少女と呼ぶべき年頃の子が、寸暇を惜しんで働かずともよくなった証拠か。
これまでに『農具改革』をし、北の村では『
もう計り知れないほどに生産性の向上は約束されている。
『
これだけでは産業革命なんて夢のまた夢で、決して起こるはずもないけれど……裕福で牧歌的世界なら構築可能だろう。
それは子供に至るまで労働へ駆り出されない、ゆったりした平和な世界だ。
……外敵が侵略してこなければ、だけど。
残念ながらドゥリトルには、いますぐ戦う力が必要だ。
掴める藁であれば、なんであろうと躊躇っている場合じゃない。
それで産業革命を起こしかねない導火線へ、火を点けることになってしまってもだ。
この最強最悪の現代科学チートも、導入を躊躇える局面じゃない。
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