転章・父上からの手紙
「必ず帰るという約束は守れなかったよ。でも、君なら判ってくれるよね、クラウディア? 嗚呼、愛しい君に会えなくて寂しい。君を思って眠れぬ夜が幾度あったことか! 君のことを思わない日なんて――
……父上の手紙は、こんな風に全力全開でスタートダッシュを軽やかに決められていた。
さすがは
しかし――
「よいですか、吾子?
と母上は御冠だ。
いや、さすがに国土防衛での出征だし、ちょっと厳しすぎるだろう。……まあ母上のお気持ちも、分からないではないけど。
「――それとボラックがいうには、リュカが初めての鹿狩りをしたそうじゃないか! 嗚呼、どうして僕は帰らなかったんだろう! そうすれば今頃、僕らの天使と鹿を追っていただろうに! それにリュカは、そんじょそこいらの大人よりも賢いと――
「レオンは吾子と――息子と鹿狩りをするのが夢だったのです。もし御誘いを頂いたら、大喜びしてあげるといいでしょう」
「母上!? そのように言われずとも、なんとも光栄なことで! 望外の喜びです!」
支配者階級的に鹿狩りは、息子とのキャッチボール的な定番だったり?
あと
……さすがは伝言ゲームの全盛期といえる。
「――ボラックは大金貨二万枚も持ってきたけれど、ドゥリトルの台所事情は大丈夫なのかい? 無理をしたりしてやしないよね? それが心配で――
「吾子、改めて軍資金の融通に感謝を。領主レオンに代わって御礼を申し上げます」
「いやいや、そのように畏まられずとも。ちょうど
その通りとばかりに無言で母上は僕を抱き寄せられる。
やはり国土防衛戦争だけに負けられない。それだけは絶対に駄目だ。
「――前に君へ話した通り、ゴート諸族が戦争から手を引き始めている。というのもアルプ以南の平地を、アッチラという男に率いられたハン族を称する勢力が――
……え? なんだか聞き覚えがあるような?
アッチラ率いるハン族? なぜだろう? 東ローマ帝国より不吉な響きを感じる。
「――そんな訳で北部を奪われたゴート諸族は、南下を余儀なくされたけど、その際にテオドリックという若者が頭角を現した。この人物がゴート諸族を束ねてしまわないかと不安だ。しかし、それは杞憂と王は一笑に付され――
テオドリック? テオドリック
……もしかしてハン族=フン族!? 『ニーベルンゲンの歌』にも登場するし!?
あのローマ帝国が分裂した直接の原因にして、民族大移動を活発にした大災厄の!?
慌てて懐から地図を引っ張り出して尋ねる。
「母上! 父上が仰るゴート諸族の国とは何処ですか!?」
「ゴート諸族ですか? ……存外に、この地図は役に立つようですね。この半島からアルプ山脈まで。それがゴート諸族の治める地でした」
そう仰りながら、イタリア半島からアルプス山脈までを指し示された。ちょうど帝国と
「えっ!? ゴートは此方じゃ?」
言いながらアルプスから真北――ドイツ辺りを指でなぞる。
「そちらはゴート族が始祖の地かと。何百年もかけてアルプ山脈を超え、現在の版図を築き上げたと聞き及びます。一部は帝国へ従属したりと親帝国な気風もあり、先年のように矛を交えることもあるのです。元々は帝国領でもありましたし」
民族大移動はフン族来襲からが本番だけど、それ以前から続いていたのだった。
それに前世の歴史でもイタリア半島からアルプス山脈までは小国が割拠し、なんと第二次世界大戦が終わるまで再統一されない。
ゴート諸族が分割統治していても、それはそれで前世と似たような感じか? ……フン族がヨーロッパ全土を荒らすのと同じで。
でも――
東ローマ帝国が攻めてきてて――
隣国にヨーロッパでも指折りな英雄が頭角を現しつつあり――
大災厄なフン族支配地と隣接することになって――
その影響で民族大移動が起きている。
……絶望的だ。絶望しかない。
西ローマ帝国がないのに、これから大ローマ帝国を崩壊・分割させた大災厄が押し寄せてくるらしい。
しかし、これこそ混迷の四世紀というべきか?
「――東部戦線が落ち着けば帰れると思っていたのに、なんと王はハン族なる輩との同盟を望まれた! ハン族にゴート諸族を牽制させ、その間に我々は帝国との戦いへ専念すれば、上手くいくかもしれない。でも僕は、どうしてもハン族のことが信用できず――
「……王にしては妥当なような?」
「おそらく父上は、
実際、フン族は正体不明な部分が多く、現代へ至っても多くの謎に包まれている。
だが、その分を差し引いても、フン族は同盟相手として不適当だ。僕なら絶対に手を結ばない。
しかし、二方面作戦は避けるという王の判断も正しかった。
……なんだろう? ここは考えどころな気がしてならない。
「――そういう訳で南部への攻勢は激しさを増し、遂に僕らは海岸沿いにある全ての拠点を失ってしまった。しかし、我らが王太子は恐ろしい方だ。どうせ奪われるならと、あらゆる施設を壊し、焼き払われてしまった。なんと田畑に至るまでなんだ。信じられるかい? そして驚くべきことに、それが功を奏してもいる。一度は上陸に成功した帝国も、物資不足で退却を余儀なく――
……これは焦土戦術のことかな?
強大な敵と対するに、仕方のない選択肢と思うけど……父上は、そういうのは駄目な感じか。
「吾子、御父上の御言葉は覚えておくのですよ? 王太子は、いまだ二十代の若さなれど、その情の薄さは……嗚呼、とても恐ろしい方なのです」
前言撤回。ここまで母上が警戒されるのなら、並大抵の人ではなさそうだ。
それに焦土戦術をノーケアで実行すれば、まず苦しむのは自国の民となる。本末転倒でしかない。
「――王都は南部からの難民で溢れ、もはや受け入れ不可能な状態となっている。僕も出来る限りのことはしているけれど、正直いって手が回らないのが実情だ。また北東部のフィクス領やゼッション領へは、ハン族に追い払われたゴート族やサクソン人、ゲルマン人が落ち延びているらしく――
……最悪だ。
ついに悪名高き民族大移動――負け部族による悲しいビリヤードが始まってしまった。
そしてサクソン人やゲルマン人もということは、ゲルマニア――ドイツ近辺でもフン族は暴れているらしい。
「――唯一といっていいぐらいに頼れるのが、マレー領が誇る戦船だ。カサエーとの戦いから負け知らずというのも、あながち誇張でもないんだろう。彼らにとって穏やかな『中つ海』なんて、荒々しい外洋と比べたら水溜りも同然らしい。あの大英雄カサエーが負けたのも――
……うん?
確かにカエサルは、ガリア北部やイスパニア――現在のスペイン平定時に外洋側で海戦をしている。
しかし、非常な幸運に恵まれ、荒れるはずの外洋が凪ぎ続け、いわば逆神風を吹かせていたはずでは?
……もしかして吹かなかった? カサエーには逆神風が?
「帝国の海軍は『中つ海』が基準なので、外洋を征くマレー領や西国の船に劣るといいます」
疑問が顔に出ていたのか、そう母上は教えて下さった。
まあ、そりゃそうか。さすがに地中海と北大西洋では難易度が違う。
何の問題もなく勝った前世のカエサルとローマ海軍を異常というべきだろう。
「――という訳で海軍が補給を断ち、僕らは上陸部隊を追い払う。これで今のところ上手くいっている。ただ、それで楽観論も口にされ始めたんだ。王都では誰かが見張っていないと、すぐに物事が悪い方へ転がっていくとしか――
もしかしたら父上は、貧乏籤を引かされがちな常識人……かな?
なら僕は、その貧乏籤に負けないぐらいに物資を送ろう。戦争とは物量――つまりは資金力だ。
「――そういえばマレーの老人が訪ねてきてくれて、色々と話をしたよ。……あの人は年を重ねられても変わらないね。そして拙いことにボラックへ持たせてくれた『ビスケット』や『炭水化物バー』を見られてしまったんだ。……判るだろ? しつこく作り方を教えろと――
これはマレー領先代ソヌア老人のことかな?
「あの方は、どうしてかレオンと私を、いつも御揶揄いになられるのです!」
……間違いなさそうだ。
でも、プチマレでの借りを、まだ返していない。
かといって『ビスケット』や『炭水化物バー』の製法は教えられないし、何か考えておいた方が良さそうだ。
「――『ビスケット』と『炭水化物バー』は兵士たちのウケがよかった。できれば此方でも作れるよう、誰か料理人を送って欲しいところだけど、その判断は任せるよ。色々とあるだろうしね? でも、製法を秘匿するつもりなら――
……これは助かった。
父上は説明されずとも、その重要性が御分かりになられている。
しかし、前世の大戦期に最低の
「如何いたします、吾子? 料理人を戦地へとなれば人選も?」
「とりあえず現品を、もう少し御送りいたしましょう」
「――あの『鐙』とかいう道具は優れているね。そして、やっと僕にも謎が解けたよ。なんとハン族の騎兵も『鐙』を使っているんだ! さらに恐ろしいことに、彼らは馬上で弓を使う! それも馬を走らせながら! 幸いにも、まだ小競り合いしか起きておらず――」
やはり、あのフン族だ。間違いない。
となればアッチラも二つ名持ちの大英雄で確定だろう。
……味方からは『大王』と称えられ、敵からは『神の災い』と恐れられた馬賊の王で。
そして手紙は細々とした差配についてとなり、僕も半ば上の空となってしまい文章へ集中できなくなった。
……もう前半の衝撃だけでお腹一杯だ。
しかし、父上は非常に重要な情報を届けて下さっている。
ならば不平不満を述べるより、最大限に活用するべきだ。愚痴はそれからでも間に合う。
やはり、いまは考えるべき時か。
逃げてしまう手もあった。
史実でもローマ侵攻時にガリアからブルタニア――イギリスへ逃げた者もいる。……後年に様々な揉め事の火種となってしまったが。
いやガリアが陥落すれば、それがどの勢力によって為されようと、結局はブルタニアも安全ではなくなる?
それに父上の手紙は――
「――愛しいクラウディアへ、変わらぬ真心を! そして僕らの天使に愛していると伝えて欲しい」
と〆られていた。
裏切れるか? この世界での生を与えてくれて、そして今も命懸けで守ってくれている父上を? そして父上に従いし将兵達を?
さらに看過できるか? 力なき人々が、戦禍に踏み躙られるのを?
……最初から選択の余地なんてない。
これが定めであろうと抗うしかなかった。そして勝利するしかない。
ただ客観的に考えて、ここ一、二年で結構な成果を上げてもいる。
生産性を高めることで領内総生産を五十パーセントは向上させたはずだ。
新規産業の立ち上げも考えたら、国力ならぬ領力が二倍すら過言ではない。
戦後の有名な高度成長期――いざなぎ景気でGNPが倍加しているが、あれは約五年での実績だ。
成果が実るまでを勘定へ入れて二、三年としても、世界的に伝説となった好景気の二倍ペースといえる。
……もう流石の現代科学チートという他がないだろう。
だが、それも戦力へ換算すると、甚だ心許なくなる。
ドゥリトルの外征力――国外へ出せる戦力は二千名ぐらいだ。
対するに、この時代の大国は、なんと五万名の兵力を外征へ出してくる。
本土決戦にすれば外征の五倍が招集可能とはいえ、それでも一万名が精一杯だ。絶望戦力差とされる敵の半分にも届かない。
そして経済力が倍になったから、その外征力も倍に増えたとはいかない。なによりも頭数が必要だ。経済のように短期間では増やせない。
また二倍になったと考えたところで、なお全然足りない計算だ。
つまり、ドゥリトルだけの頑張りでは、如何ともしがたい。
やはり苦しい。
幾つもの幸運が必須となるだろうし、それを誤らず全て掴む必要もある。
それでも成し遂げねばならなかった。
暖炉の火を睨みながら、静かに決意を固める。
いくら負けなければ勝ちとはいえ、本気にならねば凌ぎきれない。それ程に時代の奔流は荒々しかった。
残念ながら、もう好き嫌いを考慮――危険な技術だからと封じている余裕はなくなった。
……よし。ただ全力で勝ちにいこう。それしか選択肢はなさそうだ。
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