カーン教
カーン教の聖母は小柄な、それも若い女性だった。
見慣れない黒いガウンのような服を羽織り、色白で長い黒髪、確実に
人を殴るの適した感じの長さと質感を備えた棒を、どうして持ち歩いているのだろう?
そして隣に――というか脇へ座り込んだ少年も謎だ。
やや肌は浅黒く、髪も合わせたような黒だけど……色んな人種が入り混じったといわんばかりで、その出自が想像もできない。
そしてサム義兄さんより一つ二つ年上としか見えないのに、すでに不敵な印象すら与えてくる。
が、それも哀れなまでにタンコブだらけで台無しだ。
床へ胡坐をかいて腕組みで、辛うじて体面を保っているけど……タンコブの原因が容易く想像できてしまい、同情の涙すら誘う。
誰かが言っていた気がする。カーン教の聖母は孤児や浮浪児の――『街の子』の面倒を見ていると。
現代日本的に言い換えると、保護者とか身元引受人などに相当……かな?
そして、いかにもな不良少年が――それも折檻を受けて!――連れてこられたのだから、まあ筋立ては分かろうというものだ。
「この度は、この子が大変申し訳ないことを!」
僕らを見るなり、聖母は立ち上がり深々と頭を下げた。
「違うって言ってんだろ! あれは……その……こいつから貰ったんだよ! 御ありがたい施しって奴で!」
往生際も悪く不良少年は、その場凌ぎの言い逃れを口にする。
……まてよ?
『指輪』かつ『盗まれた』で『戻ってきた』さらには『貰ったと主張』だとぉッ!?
これはッ! 漢ならッ! 一度は言ってみたい台詞のチャンスッ!?
うおぉぉッ! 刻むぞ誇り高き血統のビーt――
その場にいる全員が引くほどの鈍い低温が響いた
聖母が遠慮なく少年を打ち据えた音だ。
「悪事を自慢げに吹聴していたというではありませんか。まったく! そんなのは馬鹿を宣伝して歩くようなものでしょうに」
……そう少年を諭すも、なぜか満面の笑顔なのに怒り心頭と判って怖かった。超怖い。というか、怖ろしすぎる。
「分かった! 分ったよぉ、カーン! 俺が悪かったよ!」
「分かればよろしい。カーンは仰いました。人のものを盗ってはならぬと。これからも守るのですよ?」
そして何事もなかったかのように――
「こちらが若様の指輪かと。しかし、あれは物事の善悪もつかない、まだ子供にございます! これからは私も厳しく監督しますので、どうか御慈悲を賜りたく!」
と『ド』の字が彫られた金の指輪を差し出してくる。
……うん。紛れもなく僕のだ。
僕の細い指でもズリ落ちなくて重宝していたぐらいだし、一目で判る。
しかし、思っていたより指輪は、身分証明の役に立つというか……僕だけでなく母上にも一目瞭然というか。
僅かな希望を胸に、ちらっと御様子を窺えば……まあ、もちろん母上は御立腹されていた。
僕にしか分からないほど微かで、もうニュアンスレベルだけど、絶対確実に御不満がおありのようだ。
おそらく武家たるもの、油断して掏られるなんて不心得とかなんとか……だと思う。
当然にピンチだ。暢気して少年に同情している場合じゃなかった。下手をしたら、明日にならなくても我が身だ。
しかし、それでいて少年には慈悲を。さらに母上へ領主道?から外れていないと示さねばならない……のかな?
「順番が前後してしまいました。私、ドゥリトル教区で聖母の代役を任されているテチュと申します。こちらは私共が面倒を見ている子供で、ゲイルと」
「なにが面倒を見ているだよ! 俺は独りでだって生きていける。もう『腹を出して寝たら駄目』とか叱られてるガキじゃないんだ!」
にこやかな笑顔のままテチュは例の棒へ手を伸ばし、ゲイルはゲイルで抜け目なく距離をとっていた。
「とりあえず座ったら? これじゃ落ち着いて話もできないし……給仕ができなくて義母さんも困っている」
「御見苦しいところを。あの子には丁寧な言葉を使うよう、口が酸っぱくなるほど言いつけておるのですが……」
どうやらゲイルは、かなり
矯正しようとテチュは頑張っているものの、あまり上手くはいっていない……訳でもなさそうだ。
席に着くなり、さっそく茶菓子へ手を伸ばそうとしたゲイルへ――
「カーンは仰いました。何かを食べる前には、手を清めるようにと! それに遠慮しなさい! 菓子を賜れる立場ですか、貴方は!」
と叱りつけてるし。
「俺が悪かったよぉ、カーン! いま手を洗う! だから教導棒は、もう勘弁してくれ! もうタンコブだらけなんだよ!」
……ゲイルもゲイルで、あまり城にいないタイプのパーソナリティではある。
そして『宗教とは道徳である』という本質を思い起こさせられた。
僕が見聞きしただけでもカーン教は――
・汁物を素手で食べたり、鍋へ直に口を付けてはならない
・人の物を盗ってはならない
・食べる前には手を洗う
・食事の前後にお祈りをする
・お腹を出して寝たら駄目
と日常生活での戒律に厳しいようだった。
しかし、基本的な道徳の大半は、各地の宗教が育てた結果ともいえる。
その証拠でもないけれどユダヤ教やキリスト教、イスラム教の基本ルールな十戒すら――
・親孝行するべし
・人を殺してはいけない
・不倫は駄目
・盗んではいけない
・嘘をついてはいけない
と半分は道徳に関した指示だ。
ただカーン教は、やけに世俗的というか……非常に家庭的なのが特徴か?
そして用意された手水桶を使う前に、とでも思ったのかテチュは小ぶりな壺を差し出してきた。
「お詫びといっては何ですが、これを御口汚しにでも」
……示談金とか、その類の品物……かな? でも、受け取るのと受け取らないのとで、どちらがマナーに適った振る舞い?
などと悩んでいたら、小声で義母さんが囁いてきた。
「若様! 中身は、きっと魚醤ですよ! 聖母様からの献上品で、壺に入ってますし! 間違いありません! 頂いてしまいしましょう!」
「はしたないですよ、レト! ――それに吾子? 手心を加えるつもりならともかく、後味の悪い結果となるかもしれません」
「でも、クラウディア? ちょうどストックが切れかかって。それに若様は魚醤を使うと、たくさん食べてくださるし」
……思わぬところで、とばっちりだ。
それにカーン教は、魚醤と密接な関りがある……とか?
また、母上が濁された部分を考えるに僕は、これからゲイルへ罰を与えねばならない?
でも、貴人から貴重品を盗んだ罪と考えると、生半可なことで放免とはいかない気がしてきた。
もしかして情状酌量の余地があっても身体刑とかが、この時代の相場!? つまり、通常なら死罪?
すでにゲイルが過剰なまでに折檻されているのも、ある意味でアピールとすら思えてきた。
それに度胸が良いようでいて、よくよく観察してみればゲイル自身も怯えているし。悪ぶった振る舞いも、たぶん虚勢だろう。
……あと頭も良くはなさそうだ。
そもそもドゥリトル城下には人口一万人しかいない。
この時代にあっては大きい方な街だけど、現代日本の尺度でいえば鄙びた村程度だ。当然、誰も彼もが顔見知りに近い。
なのに選りによって領主の息子である僕に悪さをしたら、即座にバレる。
指輪だって純金製であっても、誰一人として換金には応じてくれない。関わり合いになりたくないからだ。
……僕や母上の格好なんて、細部に至るまで具に観察されている。ちょうどテレビで芸能人でも見る感覚だろう。愛用の指輪なんて、誰か見憶えた者が出てくるに決まっていた。
よって僕が凶事に巻き込まれるなんていうのは、これまた皆無に近い行きずりな余所者の手によるか……ゲイルみたいな子供の悪戯でしかありえない訳だ。
でも、その報いが身体刑や死罪!?
……これは何としてでも穏便に収めねば! そして適当な着地点って何処!?
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