捲土重来
驚いているビィセスには申し訳ないけれど、のんびりはしていられない。
なんとしてでも今日中に大まかな指示をしておきたかったし、僕も確認したいことが残っている。
そんなこんなで慌ただしくも
ちなみに帝国よりの教育を受けたらしく、ポンドールは馬に乗れない。
そもそも全世界的に女性へ乗馬技術を教える文明は、だいたい蛮族と呼ばれている。
もう想像の埒外なのだろう、進歩的な文明にとって女性の騎乗は。
これはローマを模倣したヨーロッパでも継承され、おおっぴらに女性が乗馬するようになったのは、中世末期から近世にかけてとなる。
……母上は名家の出といっても北方民族の系譜。乳母上や義姉上、エステルは武家の血筋でもある上に非帝国圏の出自。つまり、広義の意味では蛮族だ。
まあ、僕に割り当てられた
例の好意的な無関心をされつつドゥリトル橋を渡り終えると、河辺では下町の女将さんたちが集まって何やら作業をしていた。
慌てて最近覚えたハンドサインで『全軍静かに』と伝える。
「焼いた卵の殻を水へ溶いたら、えーと……そうそう水が赤くなるんだよ! そしたら、さっき沸かしておいたトロナ石を混ぜた鍋へ混ぜるのさ!」
「ハンナ! 混ぜたやつは危ないって伝えないと! 目に入ったら失明してしまうって話だよ!」
「分かっているよ、クレア婆さん! いま言おうとしてとこじゃないか! 混ぜた後は危ないから、素手で触るんじゃないよ! それから優しく丁寧に掻き混ぜながら……底に少し砂ができたら『かせいそぉだぁ』の完成さ!」
どうやら女将さんたちは、石鹸作りをしている! それも近所の主婦を集め、製法伝授の真っ最中らしい!
これは母上と義母上の御尽力が実った証拠か。
二人が
果てしない伝言ゲームは、きちんと繋がっていたのだ!
「そしたら『かせいそぉだぁ』を、このリュカ様の柄杓で三杯! それと油を同じく――」
ハンナの授業は続いていたけれど、それどころじゃなかった。
いつのまにか『一リュカ杯』が定着!? それも『リュカ様の柄杓』とかいう妙な道具まで!?
これは絶対にファッキンだ! 石鹸業界に深い禍根を残しかねない! でも、どうやってメートル法に準拠させよう!?
などと歯噛みしていたら、同乗のポンドールが小声で話しかけてきた。
「……ウチ、いまだにトロナ石で商いをするべきだと思っています。なのに若様は輸出を禁じられつつ、それでいて庶民でも入手しやすいままに。なにか特別な御考えが?」
やけに同道したがると思ってたら、僕に内密の話があったようだ。
「最初に値打ちがあると――それこそ商取引すら可能と知らしめたら、皆が石鹸を使わなくなってしまうからだよ。もちろん、お金は重要だし、まだまだ足りないけど……それよりも皆には、石鹸を使う習慣を覚えて貰いたかったのさ」
この時代の基本は自給自足だ。
逆をいえば老若男女、貴賤を問わず、自作できる道具や消耗品であれば、誰でも使うようになる。
しかし、金銭で購うようなものは、余裕のある者だけの贅沢となり、それだけで伝播も非常に遅れてしまう。
つまるところ目先の金銭より、公衆衛生の方が重要という話だけど……いまいちポンドールには難しいようだった。
「それと、おとんには危なくて教えていないんですけど……きっと、この先、凄く糸が値上がりします。もしくは原料の亜麻が」
「……どうして、そう思ったの?」
「だって! だって、若様は、そのうちに凄い織機を御作りになられるんですよね? あの糸車にも負けないような? 最初は値崩れかと思ったんです。これまでより多く作れるようなるんですから。でも、布を織るには糸が要ります。それを考えたら――」
「――糸の買い占めをするべきと思っちゃった? それとも亜麻の輸入ルートの開拓?」
驚きを隠しながら揶揄うと、ポンドールは赤くなった。……この
「でも、遅かれ早かれ足りなくなります。材料がなければ、あの凄い糸車だって張り子の虎です」
「なるほど。承ったよ。でも、それについては考えているし……詳しくは教えられないけど、
「……
「好きにしたらいいけど、秘密を洩らされたら困る」
「では、これは仕方のない悲劇ということで」
面白そうに笑うポンドールは、ちょっと怖かった。……なんというか覚悟決めている人種はアレすぎる。
「ビィセス! あれが見える? あそこで女将さん達が作業しているのが」
「へい、直ちに! ――なにしているんです、あいつら?」
「石鹸を作っているんだよ。えーと……洗濯用の灰? それの親戚。で、石鹸作りの廃液とか、洗濯の汚れとかで河の水が汚れてしまっているでしょ?」
「……誰かが使えば濁るのが河ってもんですぜ?」
「いや、そうだけど! そうだけどさ。だからって濁った河の水を我慢して飲む必要はないでしょ」
「そりゃそうです……けど…………もしかして、若様? それが理由で、あっしらに井戸を掘らせるんで!?」
どうにも誤解させてしまったようだった。
でも、僕にいわせれば、皆して母なるドゥリトル河を信用しすぎだ。
もちろん石鹸の廃液なども問題だけど、そんなのは糞尿に比べたら大した脅威ではない。
たとえば糞尿の混じった河の水を飲み続ける限り、寄生虫なども永久に再生産され続ける。
そして寄生虫は宿主を痩せ細らせる上、様々な病気すら引き起こす。目立たないというだけで重篤な健康リスクと見做せる。
しかし、それすら些細な損害だ。
大半の流感は便から病原菌が検出されるし、それを口にして感染ることも多い。
もし悪性に変異したインフルエンザなどが流行ろうものなら、ドゥリトルの全住人が危なかった。
「とにかく! まずは下町側の河下から! 河上や城下側は、まだマシな状況だろうし。えっと……誰か街の顔役的な人を捕まえて? 皆が使いやすい位置を教えて貰えば良いんじゃないかな。できる?」
「あ、あっしは……その……若様が御望みなら、何本だろうと掘りますぜ」
……どうやらピィセスは、仕事と割り切ることにしたらしい。
世間知らずのボンボンが、親の金を湯水のように使って自己満足な善行をしている――とでも思ったのだろう。
古代ローマなどを鑑みれば、有力市民によるインフラの寄付は珍しくなかったそうだし。
まあ、それで良しとするしかなさそうだ。
この井戸政策は今生の間に、誰からも判ってもらえないかもしれない。それでも必要と思ったのなら、そのまま信念に従うべきだろう。
「ジュゼッペ! ここいらは下町でも、捨て場?になっているみたい。紙工房には向いてないかな? どう思う?」
「へっ? 紙工房の御話は、御本気でしたんで!?」
……理解者とまではいわない。でも、偶にでよいから説明なしでの賛同が恋しくなってきた。なんというか……時々に孤独を強く感じる。
「本気に決まっているだろ! そろそろ城にトイレを増設するんだから! もうジュゼッベ一人じゃ、紙の生産に対応できなくなるよ」
ちなみにトイレットペーパーの普及も、基本的には慈善事業だ。
一人当たり一日に十円程度としても、一万人が相手では年商数千万にしかならない。工房を建てた段階で赤字だ。
「確か……もう少し河下へ行けば、それなりに手ごろな空き地があったような気がしますぜ?」
「どうせ最後には領内中の紙を賄うんだ。それなりに大きいのが欲しいな」
「いってみますか? でも、けっこうな大きさと仰られるなら……縄引きには腕を振るわないと!」
「あっ……建てるのはジュゼッベじゃないよ? いや、細かな監督は任せるけど、工房建設で手一杯になられたから困る」
意外なことにジュゼッベは意気消沈してしまった。
もしかしたら数年ぶりの大工らしい――それも自分が仕切る棟梁らしい仕事と思ったのかな?
でも、ジュゼッベほどの処理力と適当さを兼ね備えた実務担当は他にいない。手放せる訳がなかった。……なにか埋め合わせを考えておこう。
それに候補地があるというなら、見に行くべき?
でも、女将さん達の様子も気に――
そこで目を真ん丸にして僕を凝視する幼女と目が合った!
……拙い!
おそらくは講習会へ参加中な女将さんの娘だろうけど、明確に僕のことを異質な人物と認識している!
いや、よくよく辺りを観察し直せば幼女だけでなく、河原にいるほとんどの人が僕らに気づいていた。……あれだけ大騒ぎしていれば当たり前か。
しかし、そこは大人の忖度とでもいうべき、礼儀正しい無関心を装ってくれていたのだけど――
「リュカ様だぁ! お母さん! リュカ様が! リュカ様がお馬に乗って!」
もちろん純粋な幼女に、そんな汚い大人の腹芸など期待できるはずもなく、真実を告げられてしまった。
だが今回は、当方にも迎撃の用意あり、だ!
「ジュゼッベ! 例の袋を!」
無言で差し出された袋から、『じつだん』を取り出す。
「義兄さん、ポンピオヌス君、それにポンドール! 手伝って!」
察したのかフォコンとティグレが、慌てて壁となる位置へと移動した。
しかし、僕を発見して大興奮な幼女は、二人には目もくれず一目散に駆け寄ってくる。
ならば、ここは先手必勝! 先んずれば人を制す、だ!
「ほーら、お菓子だよー! 甘くて美味しいぞー」
そう説明しながら『炭水化物バー』を幼女へと手渡す。
「お、お菓子だぁ! ありがとー……ございます!」
レアキャラな僕に話し掛けられるし、なぜか物をくれるし、それが珍しいお菓子だし……幼女は大興奮だった。
そして甘い香りに我慢できなくなったのか、手渡された『炭水化物バー』へ噛り付く。
「甘い! リュカ様、このお菓子、甘い!」
子供がお菓子に夢中というのは、どうして人を和ませるのだろう?
それに、この程度のことで償えたとは思えないけれど、少しだけ心が軽くなったようにも感じる。
……が、そのような感傷に浸れたのは僅かな時間で、すぐに子供達の大群を迎え撃たねばならなかった。
戦訓としては、もっと『じつだん』を用意しておくこと。
そして施しをする時には、指輪を外しておくことだろうか?
僕の細い指でもズリ落ちなくて重宝だった『ド』の字が彫られた金の指輪は、いつの間にやらなくなってしまった。
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