お忍び
あの若鹿のことを、僕は一生忘れないだろう。
しかし、生きるということは、他の生命を犠牲にするということだ。奇麗事だけでは済まされやしない。
そもそも鹿肉は食べる癖に、自分の手を汚すのは厭うだなんて……卑怯だろう。
あるいは鹿ならよくて、人は駄目と? いずれは人をも殺めるというのに?
きっと戦士階級に気高さが要求されるのは、命と向き合わされるからだ。そして生命への敬意だけが、殺し屋である自分達を肯定してくれる。
……これの代償は、つぶらな瞳を悪夢として思い返すことだけど。
そして思い出した話もある。
雌ライオンは、仔ライオンに瀕死の獲物を与えるという。自らで止めを刺させて、命の奪い方を学ばさせる為に。
きっと獅子としての生き方も平坦な道ではない。貴人としてのそれが同じである様に。
馬上の僕へ、やはり同じく馬上のフォコンは、しきりに翻意を促してくる。
「若様! やはり危のうございます! 城へ戻られるか、予定通りに馬場へ!」
「えーっ? ここまで来ておいて、いまさらじゃない? それに大丈夫だって、誰も僕のことに注目してないよ。あと本当に約束もあるんだ」
……半分は嘘だ。
秋口になったといっても、マント姿で目深にフードな子供は目立つ。
さらには随伴が煌びやかな
これでは素性を察するなという方が無茶だろう。
しかし、意外にもドゥリトルの住人は、遠巻きに様子を窺うに留めてくれた。
もしかしたら「お忍びみたいだから、気づかない振り」と配慮?
「フォコン、失礼だぞ! 本日、御曹司は
「違うよ! 違うからね! そうじゃない! まだ僕は数えで八つだよ!? そうじゃなくて、この目で街を見物したかったの! 父親が治める城下をよく知らないとか、あまり好ましくないでしょ! ――本当だからね?」
最後は剣匠ティグレへではなく、後ろのポンピオヌス君へだ。
可哀そうにエッチな大人の話と勘違いした?彼は、顔を真っ赤にして俯いてしまっている。
……違うから! そういうんじゃないから!
「でも、今日は城下じゃなくて、郊外へ行きたいとかいってなかった? ダイアナ達が怒るぜ、聞いたらきっと」
「うん? それは時間があればね。でも、先に街が見たかったんだ。……義姉さん達には、御土産がいるかもだね」
しかし、僕への発言でサム義兄さんは、フォコンから睨まれていた。
その視線を翻訳するならば「計画を知っていたのなら、それを押し止めるのが役目であろう」かな?
「ちなみに今日は『止せばいいのに先導を買って出たリュカが、大胆に道を間違えて迷子』だから! 義兄さんは悪くないんだよ?」
「そして今後は定期的に迷われるのでありましょう?」
などとフォコンは仏頂面で不満そうだったけれど――
「それぐらいにしとけ。我らとて、色々と羽目を外してきただろう。御曹司は、それを始められるのが少しだけ早いのさ」
とティグレに、やや疑問の残る諭し方で宥められていた。
……まあ、お忍びに暗黙の了解が得られたと考えれば良し……かな?
街並みは、いわゆる中世ファンタジーなイメージより、やや格落ち感が強かった。
なによりも住宅街でしかなく、看板や文字の類も皆無だし、ある意味で無味乾燥な印象が続く。
そして意外なまでの木造率だろう。
ヨーロッパといったら石の街を連想させるけれど、それは現代へ至るまで千年以上かけて築き上げたものだ。
その初期状態とでもいうべきドゥリトルは、当然ながら木造建築も多い。
まあ帝国様式の影響からか、富裕層は石造りで立派な家を建てるので、それらが徐々に街を埋めていく。……何もかもがこれからだ。
「うん? 水車小屋じゃない? 水車小屋なんてあったの? 税収には記載されていなかったような?」
「あれは御屋形様の――ドゥリトル領の所有ではなかったかと。この荒れようから鑑みるに、おそらく修繕もままならないのでしょう」
そう教えてくれたティグレは、やや憤慨していた。
街の整備にまで手が回らない現状を憂いているのと、せっかくの水車が壊れているのとでだろう。
実のところ西ヨーロッパ人は、機械を――仕事を代わってくれるシステムを好んでいた。
自らの手足による労働を尊ぶローマとは、真逆の思想といえる。
……西ヨーロッパ人は労働させられる側で、ローマは強要する側という違いも大きいのだけど。
「もったいないなぁ……。買い取れないかな? いくらぐらいだろ? それとも修理が大変だから、放置しているとか?」
僕が呻いていると、最近では分かってきてくれたのか――
「見た目ほど腐ってはいねぇようですよ? でも、修繕は大変そうで」
と控えていたジュゼッペが進み出て、中を探ってくれた。
「直せる?」
「あっしだけじゃ無理ですね。歯車の原板を持ってないと。どこかで写しを手に入れますか?」
『糸車』の時に判明したのだけど、この時代に計算ができる技師は少ない。
よって歯車などの精密部品は、上手く動作するものを完全にコピーして賄っている。
現代人でも計算の面倒な歯車数の決定は、哲学者とか数学者――この時代では魔術師扱いな天才達の領域だ。
「譲って貰うのには、誰と話をすればいいんだろ?
「なるほど。本日の獲物は
「……違うよ? そうじゃないよ?」
だが、ティグレは意味ありげに肯き返す。
なんなの!? その言わなくても分かっておりまする的な感じ!
「リュカ? 義兄ちゃん……まだ、
「だから、違うんだってば! 僕を信じて! 義兄さん! ポンピオヌス君も!」
「やはり、いまからでも遅くはありませぬ! 予定通り馬場へ!」
ああ、またフォコンが話を蒸し返すし! もう無茶苦茶だよ! どうして家の
しかし、
マルスとポンドールの父娘による出迎えは、まあ理解できなくもない。僕は一応、これでも領主の息子だし。
でも、乗馬靴では窮屈でしょうと綺麗な履物が用意されたり、たいして汚れてもいない足を洗うとお湯が用意されたりで……明確に大げさだ。
「我が君! この度は畏れ多くも出御を賜り、誠に光栄と――」
「待って! ちょっと待って、ポンドール! 少し考えるから」
思わず口上を遮ってしまったけれど、それは無理からぬことだろう。
まず、ポンドールの格好がおかしい。
この時代と地域の服飾傾向に精通している訳じゃないけど、確実に
なんといえば伝わるのか……まるで少女サイズに特注した、大人な女性の服を着ていた。
そんなポンドールに付き従う女中さんたちも女中さんで、一様に質素なお仕着せな上に……なぜかメイドさんの被るような帽子で目元を隠している。
……やっぱり普通じゃない……よな?
「おい! どういうことだ! 今日は本当に女鹿狩り――いや、
「そんなッ! まさかッ! 御曹司が、これほどとは! このティグレの目をもってしてもッ!」
などと頼りにならない随員の二人も
とにかく拙い! この流れに乗ったらどうかしてしまう!
「よし! 平和に皆でお茶会か、何もしないで、すぐ帰るかだ!」
驚いたことに
しかし、ここで折れると面倒な予感しかしない。断固拒否だ。
「こんな風に格式張られると、敷居が高くなっちゃうだろ。僕に城下の知り合いは少なくて……ポンドールだけなんだよ?」
……多少はズルいけど、もう手を握って必殺の笑顔で
案の定、まだ人見知りなポンドールは、顔を真っ赤にして耐えるも……すぐに陥落した。
「もう、若さんはズルい! ズルい人や!」
……悪いな、ポンドール。君の弱点につけこむような真似をした。
でも、僕は何を犠牲にしてでも目的を果たすと誓った身。君の対人恐怖症を利用してでも――
………………あれ?
どうして義兄さんとポンピオヌス君は「さずがリュカ! 俺たちにできないことを平然とやってのけるッ」みたいな反応を!?
そしてフォコンとティグレも「御曹司! なんて恐ろしい子!」みたいな目を!?
もしかして……また僕、なんかやっちゃいましたぁッ!?
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