一手目
窓ガラスで大金貨二万枚、さらには鏡でも同じだけ……つまりは合計四万枚をポンドールは約束してくれた。
日本円に換算して数十億円を手に入れたも同然だ! それも手付金だけで!
もう成功の興奮に寝付けなくなるほどだったけど……――
朝になったら、もの凄く冷静になれた。よく考えると全然足りない。
領内へトイレ設置だけで大金貨一万枚以上が必要なのに、紙工房や水飴工房、酒工房、ガラス工房などにも資金が要る。
他にも石鹸文化振興に重曹の流通やプォール親子に任せた蜂蜜産業の促進など予算を配分しなけりゃならない。
さらに父上へ仕送りもだ。
戦争を指揮したことはないけど、やはり軍資金が無くなったら、さぞかし辛い思いをされるに違いない。
今回の収入から大金貨数千枚を――いや、例え一万枚以上だろうと、必要なだけ届けるつもりだ。
以上を踏まえると……順調な滑り出しなものの、結局のところまだまだ。慢心せず資金調達や計画の推進を計らねばならない。
「いつまで続けるんだい!? この奇妙な儀式?を?」
飽きてきたのか、とうとうサム義兄さんが不満を口にした。
「わ、私も! リュカ様の御所望ですし、能う限りはやり遂げたいとは思いますが……その……なんとも意味も分からず、いつまで続ければ良いのやらで」
隣のポンピオヌス君も同意とばかり、団扇を片手にへばっている。
例によって先代の倉庫――僕の研究室だ。今回は外へ色々と広げての作業だけど。
最近、僕を探す人が真っ先にここへくるのは、どうしてだろう?
まあ、それで修練へ誘いに来たサム義兄さんとポンピオヌス君を、逆に助手として捕獲できたのだけど。
……関係ないけど男の子への賄賂に甘い御菓子は抜群だ!
「悪い、悪い! 二人共、少し休憩して! ――どれどれ?」
二人が扇いでいた素焼きの壺へ指を突っ込む。
千切れてしまうんじゃないってぐらい冷たい! やや、半信半疑だったけど、実験は成功していた!
慌てて用意しておいた銅のコップを壺の中へと浮かべる。
「……なんなのですかな、この中身は?」
もう興味が抑えられないとばかりフォコンは、
そのまま冷たさに全く動じることなく、味見とばかりに指先を舐める。
「これは! もしやブーデリカのいっていた火のように燃えるという御酒!?」
あれは果実酒だから、ただのアルコール水溶液とは別物だろう。
「その材料かな。まあ、似たようなものだけど……味付けしてない状態?」
「これで完成しておらぬと!? しかし、すでに伝え聞く
などと驚きながら、名残惜しそうに再び壺の中身を舐める。……実に意外だ。
「少年達! 任務が辛いと音を上げるなんて、戦士の名折れ! まあ、時には間違えられた主君を御諫めするのも、家臣の務めではあるけどね」
慌ててフォコンお兄さん調な態度で誤魔化してくるけど……間違いなさそうだ。それなりに悪癖を持っていたらしい。
「今日の作業が終わったら、もう要らないから……フォコンが持って帰る? 壺の中身?」
……明らかに葛藤しだした。
たぶん指導役が保つべき節度と酒飲みの本能が争いだしたに違いない。ちょっと意地悪だったかな?
自分の世話役が苦悩する姿を、ポンピオヌス君も珍しそうに眺めているし。
色々とあったものの結局、ポンピオヌス君にはドゥリトル城へ上がって貰っていた。
名目は来たる
さらに教育熱心な
……という体だ。もちろん両陣営が共に人質と認識している。
が、当の本人は子犬のように僕やサム義兄さんの後を付いてくるので、なんというか面映ゆいものがあった。
弟がいたら、こんな感じなのだろうか?
よく判らないまま僕やサム義兄さんは、面倒を見るべき弟分が増えたというか子分が増えたというかだ。
そんな高度に政治的で複雑な事情の世話役には、『なんでもできるフォコン』へ白羽の矢が立った。
他の
……他領の世継ぎを
『口で説明もできる』フォコンは適材適所だったし……ちょうど怪我をしてたりで、適任ともいえる。
そう、なんとフォコンはプチマレ領の一件――ギヨームの謀反で
つまり、ティグレの逆を――直接にドゥリトル城を目指したフォコンは、どこからともなく現れた盗賊に襲われていた。
……実に嘘くさい。
いくらプチマレとドゥリトルの領境だからって、そんな奴らと都合よく遭遇する訳がなかった。
まず間違いなく大叔父上の息が掛かった者達だろう。
そもそも幼少の頃から剣や馬に親しむキラー・エリートたる
さすがに多勢に無勢で、逃げの一手だったとしてもだ。いや、むしろ、か?
……恐ろしいことに逆に相手へ幾つかの
とても決死の囮役だったとは思えないし、それで片腕を骨折というのも……なんだか人間アピールの類と思えてくるぐらいだ。
そんな次世代のドゥリトルが守護を担う益荒男は、壺一杯の見知らぬ酒の誘惑を前に悶えていた。
うん、これは覚えておいた方が良さそうだ。
ポンピオヌス君は僕に懐いちゃったから、その世話役たるフォコンと顔を会わせることも多くなるだろう。
……ようするに修練をサボる難易度が上がるということだ。
しかし、ここまでチョロ――……人間味あふれた弱みがあるのなら、むしろ買収しやすいとすら!?
そんな風に悪い顔で悦に入っていたら、事態が急変した。
「リュカ! 凄いよ! このコップの中の水……凍ってないか!?」
「あ、拙い! 掬い上げなきゃ! 皆、手伝って!」
銅のカップにできた氷を回収し、また水を入れて壺へと戻す。せっかく二人に奮闘してもらったのに、ぼんやりしていたら台無しだ。
……が、そんな僕の作業に皆は恐れ戦いていた。
当たり前か。紀元前からの製氷技術といっても、西ヨーロッパには伝来していない。
なんだかよく判らない儀式で氷を作り出したのだから、ほとんど魔法も同然なインパクトだろう。
気化熱を利用した冷却および製氷技術は、紀元前にエジプトもしくはインドで発見された。
手順は非常に簡単で、素焼きの壺へ――中身が染み出てくる壺へ液体を入れるだけ。以上、終了だ。
そんな馬鹿なと仰る人もいるだろう。しかし、事実なんだから仕方がない。
これは壺の表面へ染み出た液体が蒸発する際に冷える――気化熱で温度が失われることを利用した冷却技術だ。
気化熱で冷却なんて信じられない? いや、そんなことは無いはずだ。
誰だって雨に打たれたり、激しく汗をかいたりで、ずぶ濡れとなった経験はあるだろう。
そんな時、風が吹くと凄く寒い。気化熱で温度を奪われるからだ。
一般的に言い直すと「濡れたものは乾く時に冷える」だろうか。
これは生物だけでなく物体――表面が濡れた壺でも同じことを起こせる。
つまり、素焼きの壺から染み出た液体は蒸発する際、気化熱として熱を奪いながら壺の表面を冷やしていく。
当然、壺の表面だけでなく中身の液体も冷やす。
これは壺から液体が染みでなくなるか、表面が効率よく乾燥しなくなるか、液体が冷えすぎて凝固してしまうまで継続する。
ただ液体の凝固――製氷までの冷却は至難であり、それが理由で失伝もしやすい。
液体が固体化する際には凝固熱が――より大きな冷却能力が必要で、なかなか条件を満たせられないからだ
ようするに少し冷たい水を得られるだけ、それも下げれて十度ぐらいの微妙な技術ともいえた。
が、中へ満たす液体を水ではなくアルコールに変え、人力で風を強く送ってやると結果は大きく変わる。
アルコールは凝固点が――凍る温度が零度以下なので、凝固熱に邪魔されることなく氷点下へ到達できるからだ。
さらに生半可な低温では凝固もしないので、気化熱による冷却のサイクルも止めずに済む。
結果、氷点下まで冷たくなった壺一杯のアルコールを得られる。
あとは水を入れた銅のコップなどで、いくらでも製氷ができるという寸法だ。
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