最も人を多く殺した毒
ややムニュムニュした思いはあるけれど、義姉上が給仕を始めてくれたのは好都合だった。
……僕ではお茶の淹れ方どころか、場に相応しい品の区別すらできないし。
でも、ここ最近――城へ戻ってから一ヵ月ほど考え事をしていたら、気付くと義姉さんや義兄さんの様子が変わっている。
なんと義兄さんは宣言通りに、ポンピオヌス君を城へ上がらせる為の根回しを始められた!
やはり
まだ少年であっても、自分なりの政治的駆け引きを心得ていた。
大人達だって子供の戯言と切り捨てず、いずれは御曹司の腹心となる人物からの要請と受け止めている。
そして義姉上も何を思われたのか最近は、まるで僕付き女官のようだ。
相変わらず我儘だし、理不尽めいた御小言も多いけど……あきらか僕を
もちろん、それまでも熱心だった理想の手下としてではなく、一般的な貴人としての行儀作法や嗜みなどをだ。
……まるで乳母上が二人に増えたかのような気分ではある。
いや、よくよく考えてみれば、それほどおかしなことではないのかもしれない。
二人とも数えで十一歳だから、あと四年もすれば成人と扱われる。
現代日本だと数えで十五歳は――満十四歳は、絶賛厨二病全盛期たる中学二年生だ。
仕事や社会的責任などから最も遠い場所で、右目が疼くだの左手が勝手になどと……好きなだけ罪の無い子供でいられる時期だろう。
しかし、この時代にあっては社会人一年生だ。
実際、サム義兄さんは今年の秋頃――収穫祭の後には
そうなれば半分くらいは社会人というか、まだ半人前扱いなだけで、もう立派に社会の一員だろう。
ダイ義姉さんだって、このまま母上付きの侍女として行儀見習いを続けるか、それとも箔付けに王都あたりで貴人付きとして数年を過ごし――
下手したら、その後すぐに結婚だ!
むむむ!? 許せない! 誰だ、僕から義姉さんを奪おうとする奴は!
もし求婚にでも来るような
……が、万全を期すべく相手が
転ばぬ先の杖となるし、天は自ら助くる者を助くともいう。勝てばよかろうなのだと究極生物さんも説いておられた!
なに、どうせ相手はちょっと剣を振るのが上手なだけの野蛮人だ。文明人たる僕が格の違いってやつを――
「ちょっと、リュカ! なにボーっとしちゃってんのよ! いくらポンドールが相手だからって、それは失礼というものでしょう!」
小声での叱責という驚くべき義姉さんの妙技で、僕は現実へと引き戻された。
嗚呼、そうだ! まだ見ぬ田舎者の対処なんて、
今日は
顔の思い出せない誰かが、前世で言っていた。
営業には、女の子を口説くぐらいに本気で混じり気なしの熱意が必要だと!
そして別の、やはり顔を思い出せない誰かも語る。
女性を落とすつもりなら、もう「はい」というまで帰さない! 場合によっては犯罪も辞さない覚悟でと!
おお、ポンドール! 今日は君が! 「うん」と言うまで! 家へ帰しはしない!
そんな意思を込め、まじまじと見つめ直したら……可哀そうなことに人見知りなポンドールは赤面して俯く。
さすがに心苦しい! 相手の弱点へつけ込むような真似は卑劣!
だが、卑怯といわれても構わない! 例え卑俗と誹られようとも、僕は勝つ!
そんな決意を込めて、茶菓子を取り出さんとする義姉上を押し止める。
……そっちじゃない。
今日の特別な
それは『名状し難き菓子のようなもの』とでも呼ぶしかなかった。
……本当に僕は、これの名前を知らないし。
なんともなれば知らないどころか、かつて名付けられたことがあるのかすら疑問だったりもする。
具体的にはパンやケーキ、クッキーなどの類――練った粉物を焼成した食料品だ。
でも、基本的に高価な小麦粉は使わない。……
主成分は木の実だ。クルミやアーモンドに始まり、灰汁を抜いたドングリまで、もうありとあらゆるものが使える。
実際、量産用のレシピはクルミやドングリだ。……やはり量産を視野に入れると、材料から妥協もやむを得ない。
「そんな粉でパンやケーキ、クッキーが焼けるのか?」と、疑問に思われる方もおられるだろう。
しかし、驚くべきことに答えはイエスだ。
さすがにパンは厳しい。絶対条件にグルテンが――生地を膨らます成分が必要となる。
……まあ、それも重曹で――膨らまし粉で解決可能だったりするけど。
対してパンケーキやクッキーは、粉になることが最低条件だ。つまり、何であろうと材料にできる。
現代ではクルミ粉やアーモンド粉にも材料時の名称があるし、それぞれに使われた菓子類だって存在もする……らしい。
これを
ちなみに乳清とは、チーズを作った時に出る副産物というか……まあ廃棄物だ。
現代であればバターや卵、牛乳、フレッシュチーズなどを使うけれど、どれも高級食材だったりする。
というかバターに至っては食用に量産すらしてないし、未開文明の牛乳はあまり芳しくない。
飼料によっては毒性が高くなり、それが理由で死亡事故すら起きている。
牛乳を飲むという文化は、高度な科学によって生み出された近代からの流行にすぎないのだ。
この時代に牛乳を口にするのなら、可能な限り最小限度で留めるべきだろう。
そんな事情から量産用には入手しやすく代用品となる乳清を。
ここまでの説明で菓子作りに明るい方なら、ピンとこられたことだろう。「粉物へフレッシュチーズを混ぜて焼いたら、チーズケーキでは?」と。
御明察の通りだ。
やや乱暴だけどチーズケーキとは、ようするに「小麦粉などとフレッシュチーズを混ぜ込んで焼いたケーキやクッキー」といえる。
しかし、これだけで実のところ驚天動地な大発明に値した。
古代ローマの共和政期に食されていたパン――あの税金として納められていたと有名な大きなパン――のレシピは現存し、現代のパン職人によって再現なども試みられている。
だが、驚くべきことに小麦と水しか使われていない!
基本、何も添加しないのがスタンダードなのだ!
もちろん、この時代の人達も、混ぜ物の発想はしていた。例えば黒パンなどは、大麦で水増しされている。
でも、それらは誤魔化しというか、止む得ない場合だけ……らしい。
そもそも高級品として発展したパンは「小麦だけで作り、その香りや歯ごたえを楽しむもの」という既成概念があった……そうだ。
であれば混ぜ物は基本、邪道扱いされた……と思われる。
まあ史実を鑑みるに、ゆっくりとバターや卵、チーズ類などを混ぜたパンやケーキ、クッキーも開発されていくのだろうけど、とにかくスタート直後も同然な現時点だと発想されてない。
制作を頼んだ義母さんが――
「えっ!? チーズを混ぜてパンを焼くのですか!?」
と驚いたといったら、少しは伝わるだろうか。
もう十二分に珍しい品物といえるけど、まだ不十分だ。まだ足りない。背徳の味――糖分が!
幸いなことに量産品ですら、惜しげもなく甘味料を使えた。水飴の生産に成功しているからだ!
生地の三分の一が糖分となるべく、一切の妥協はしない!
油! 糖分! 炭水化物!
これら悪徳の三位一体こそが、人を最も堕落させてきた!
そして、ここまでは未だ
まだターンは残ってる。具のターンが!
量産タイプですら、荒く砕いた木の実をぎっしりと練り込む。
さらに仕上げで追い糖分だ!
堅めに焼き上げ、そのまま頂いても良いのだけど、このままでは保存性に難がある。
だから仕方がない! これは避けようのない
涙を呑んでバー状へ切り分けた
つまり、厚く表面を覆い隠しきるまで、何度も何度も水飴や龍髭糖を掛けては乾かすを繰り返す。
乾燥した水飴もしくは龍髭糖とは、ようするに濃度一〇〇パーセントの溶液だ。そして高濃度であれば細菌などは繁殖できなくなる。
……塩や砂糖を固体で保存していても腐ったりしない。それと同じ理屈と説明した方が伝わるだろうか?
あとは湿気にだけ注意し、それなりの容器か包装で保存すれば、もうどれだけ長期間保存できるか予想もつかない。……下手したら年単位だろうか?
そうして
おお、神よ! 我を許し給れ! ついには顕現せしめてしまいました!
「油! 糖分! 炭水化物!」と叫ぶ災厄を! 人類を最も堕落せし悪魔を!
一口で後頭部を鈍器でブン殴られたかの如き衝撃!
だのに意志とは裏腹に止めることすら叶わぬ逆らい難き快楽!
おお、罪深き汝の名は――
………………なんだろう?
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