その半分な優しさ――またの名を胃薬

 エステルは僕の服をしっかりと掴み、全く離してくれない。ぷうぷうと頬を膨らませ、顔も真ん丸なままだ。

 仕方ないので御機嫌取りにと、ポケットから干し果物を口の当たりへ差し出す。


 フィッシュやったぜ


 器用なことにエステルは、顔だけ動かしてパクリと口に入れた。

 しばらくはポーカーフェイスを保とうとしていたものの、すぐに甘さの波に飲まれ蕩けていく。

 どうやら上の口は正直な様だった!?

 でも僕は、緩めない! うひひ! ここで追いドラフルだぁ!!

 恥ずかしかったのか抱きついて顔を埋めるようにしていたけど、もはや風前の灯火!

 さあ甘味がもたらす快楽へと身を委ねて! 不愉快な体験など、この僕が塗り替えて――


 そこで暴走を咎めるかのように鋭く音が響いた。


 白い三角巾で自慢の黒髪を纏め、その手に持った包丁で俎板を叩いただけなのに……正直、コワイ。

 常々思っているのだけど、黒髪ロングは包丁に補正があるんじゃないだろうか?

 もちろん催促だ。

 ダイアナは義姉たる権利を――自分の分け前を要求している。当然だが義弟な僕に拒否権はない。

 最初から義姉さんの分は考えていたし、仲良く分けようと持ってきてはいても……献上といわれたらムニュムニュしてしまう。

「美味し! どこで手に入れたの、こんなに上等なの?」

「御祖母様に。たくさん頂いたから、皆にも御裾分けだよ。――義兄さんも食べるだろ?」

「僕には分けてくれないのかと思ったよ! いま戻るから!」

 なんと言うか、いかにも西洋的な切り返しだ。……しみじみ異邦なのだと思い知らされる。

 そして先ほどから纏わりついて煩いターレムには、レト義母さんから貰ってきたパンを与えておく。

 ……ドライフルーツを少しくらい平気だと思うけど、まあ念の為だ。

「ジュゼッペも食べる?」

「いいえ! あっしは御気持ちだけで! どうにも甘いものは」

 竈作りの手を止め、そう答えてくれたけど……遠慮してるのかな?

 でも、これが御酒とかなら受け取ったはずだ。額面通りに苦手なんだろう。

「よし、言われた通り、皮を剥いできたぞ」

 戻ってきたサム義兄さんから籠一杯の柳の樹皮を受け取り、引き換えという訳でもないけどドライフルーツを渡す。

「甘い! なんというか……凄く甘いよ、リュカ!」

 義兄さんが喜んでくれて何よりだけど、その頬は軽く腫れていて痛々しい。……僕の身代わりとなった結果だ。

「ねえ、サム? 大きなタン瘤になっちゃってるけど痛くないの? ついでに柳の煎じ汁を作る? ――これを細切れにすればいいの、リュカ?」

 柳の煎じ汁といわれてサム義兄さんは怯んだ。凄く苦いからだろう。

「粗微塵ぐらいにお願い。そもそも煎じ汁を作りたかったんだよね」

 それで「お前にはがっかりだ、我が義弟よ」な顔をされたけど、まあ事実なんだから仕方がない。



 柳の煎じ汁にはサリシンが多く含まれていて消炎鎮痛作用――つまり解熱鎮痛剤の薬効がある。

 もう全世界に知れ渡っていたどころか、一説によるとネアンデルタール人すら利用していたという。

 なぜなら柳の生木を齧るだけでも薬効が認められ、難しい技術を必要としない。日本人は楊枝や歯ブラシの原材料に使っていたぐらいだ。

 ……痛みを抑えるだけで虫歯を治しはしないけど、まだ未開な時代ゆえの勘違いか。

 古代ギリシアでは医学の父ヒポクラテスの書に記されたし、中世ヨーロッパでも失伝するまで活用された。

 これは柳の樹皮の採取を未亡人の特権とした為、後年に医学ではなく魔女の知恵や呪いの類と見做されたからかもしれない。

 ……社会弱者保護が却って迫害へと繋がったのは、皮肉な結果だろう。


 とにかく話を戻せばサリシンには、確かな薬効があった。よくある未開文明の気休めや迷信の類ではない。

 これから発展したのがアセチルサリチル酸――アスピリンだし、そのカバー範囲も同じだ。

 つまり、関節リウマチ、リウマチ熱、変形性関節症、強直性脊椎炎、関節周囲炎、結合織炎、歯痛、症候性神経痛、関節痛、腰痛症、筋肉痛、捻挫痛、打撲痛、痛風による痛み、頭痛、月経痛……と異常なまでに広い。

 中でも注目するべきは、リウマチや関節炎などへの効果だ。

 医学用語だから難しく感じてしまうけれど、ようするに加齢による節々の痛みを意味する。

 ……本来は一緒くたとするべきではないが、病名診断が不可能なら諦める他ないだろう。

 医学とは病名特定が肝な学問でもあり、この地には未だ存在しないのだから。



「柳の煎じ汁を飲ませようっていうのかい!?」

「……義兄さんがシロップの方が良ければ煎じ汁にするけど? でも、いまから作るのは粉――というか錠剤だよ」

「どう違うのさ! それに柳の煎じ汁を飲むと、胃が痛くなるんだよ! あと、苦いし!」

 サム義兄さんにしては珍しく雄弁で、よっぽど嫌らしい。

「苦くない様、粉にするんだ。それに胃も痛くならないよ。重曹を――トロナ石を混ぜるから」

 とりあえず宥めるも、いまいち納得して貰えなかった。



 しかし、サム義兄さんの主張は、アスピリンまで乱用の待たれた理由でもある。

 サリシンは消化器障害を起こしやすく、最悪、胃に穴が開く。胃粘膜が荒らされる上に、胃酸過多も引き起こすからだ。

 が、その対処法もなくはない。

 まず少しでも胃壁を保護するべく、先に乳製品を胃へ入れておく。

 そして少量で薬効を得る為に、アルコールかニンニクと同時に摂取する。

 最後に過剰分泌された胃酸を中和するのに炭酸水素ナトリウム――重曹を胃薬として飲む。

 特に胃薬の添加はアスピリン系の薬でも行われていて、かなりの安定化を期待できる。



「御祖母様が節々が痛いと、お困りの様だったからさ。まあ、そこまで義兄さんが嫌なら――」

「……分ったよ。俺が生贄になればいいんだろ! 実際、言われだしたら、けっこう痛く思えてきたし。でも、本当に苦くないんだよね?」

 そのあまりにも真剣な表情は、逆に僕らの笑いを誘った。

「せっかく従士サーバントにして頂けそうなのに、それじゃ台無しじゃない。従士サーバント騎士ライダーは、勇敢なものよ?」

「そ、そんな風にいうことないだろ! あとティグレさんが親切なことを言ってくれたのは……御世辞というか……なんか、そんなのだろうし……」

 当のティグレはランボとシャーロットの処遇を確認という名目で、抜け目なく雑用を逃れていた。

 ……いや、そっちの方が公務的で大切だろうし、まあ仕方がない?

 そして去り際に指導役チューターで困ったら相談に乗ると――騎士ライダーを志す少年へ、何よりにも勝る言葉を残した。

 確かに義兄さんが謙遜するように、ティグレなりの労いというか……リップサービス的な意味合いはあると思う。

 でも、義兄さんは自分自身の資質――勇気を示した。

 少しぐらい期待しても罰は当たらないというか……まずまずの第一歩を踏み出せたと考えるべきだろう。



 それに義兄さんは心配するけれど、まったくの杞憂という他ない。

 煎じ汁どころか粉に、それも小さな粒とするつもりだったからだ。

 なによりも実際に起きた事故――サリシンが強烈な胃痛を引き起こし、その痛みを抑えるべく追加摂取し、致命的な結果となるのが――胃に穴をあけてしまうのが怖かった。

 そして原因が特定できたところで、この時代は開腹手術もままなない。

 つまり、過剰摂取したら死ぬ。

 それを避けるには可能な限りに少ない使用量を、常に心がけるしかなかった。

 小さな粒とするのだって、一粒や二粒くらい飲み過ぎても過剰摂取オーバードースとならないようにする保険だ。


 さらに万能薬と勘違いされる危険も残っている。

 ありとあらゆる痛みを消す――いかなる難病をも癒すと思われたら厄介だ。

 実際に痛み止めは、その場しのぎ――患者本人の治癒力へ頼るだけで、何も解決はしていない。

 医学が未熟であればあるほど、その導入は控えるべきだろう。

 しかし、それでも尚な苦渋の決断だった。

 一応は麻酔や鎮痛剤に使える別の薬――アヘンも存在はする。

 けれど日用的な痛み止め代わりに推奨したら、あっという間に社会が壊れてしまうだろう。

 アヘンに比べれば順当な成果が見込めるのだから、悪いプランではない……はずだ。

 いや、それでも世界を大きく、そして不可逆に変えてしまう?



 気付けば皆の注目の的だった。

 ダイ義姉さんとジュゼッペは手持無沙汰に物問いたげだし、エステルも不思議そうに見上げてくる。

 そしてサム義兄さんは、どうしてか心配するなとばかりに僕の肩へ手を回す。

 ……近くで見ると頬の腫れは大きくなっていて、凄く痛々しい。

「庇ってくれて、ありがとう。もう言ったっけ?」

 驚くことにウィンクを返され、でも、なんというか凄い下手で……とても義兄さんらしかった。

 ……うん。

 時々にとんでもない勘違いをしたりするけど、やっぱりサムは僕の頼りになる年下の義兄ちゃんだ。

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