思いつきと偶発事
落とすようにコマを――それも軸の頭が長いコマを手放す。
その回転は、綿状の縄へ成形しておいた羊毛を捩って毛糸へと変えていく。
しかし、おそらくは回転の加減よりも、羊毛を手繰る右手の方が肝だ。とすれば幼いながらも、熟練の業と称えるべきか。
地面へ落ちてしまわないうちに、また左手でコマをキャッチする。
そのまま軸の先端にあるフックから毛糸を開放し、手元へ戻すついでに完成した分をコマへと巻き取っていく。……意外と早業だ。
再びフックへ毛糸を掛け直し、コマを回しながら手放す。やっと一ループだ。
今の工程で紡げたのは、ほんの十センチ程度か。であれば一秒につき一センチぐらいの進捗となる。
ちなみに一着のセーターを編むのに、おおよそ一五〇〇メートルの毛糸が必要という。
紡ぐ時間へ直すと十五万秒であり、二五〇〇分で、四〇時間強となる。
念の為にいっておくと、紡ぐだけでだ。
編む工程の時間も必要だし、羊毛の用意に手間暇だって掛かる。
羊を育てるのはもちろん、羊毛を刈り、それを洗濯し、必要なら染色もで、さらには紡ぐのに都合が良いよう解して成形しなければならない。
毛糸のセーター一着が月収に相当というのも、やや誇張の嫌いはあれど見当外れでもなかった。
だけど、これで毛糸はマシな方だったりもする。布はもっと大変だ。
なぜなら毛糸より糸は細い。必要量も長くなるし、紡ぐ時間も同じだけ増大していく。
さらには機織りだ。
毛糸ならばダイレクトに編んで衣服とできるが、糸は機で織って布としなければならない。
母上のような貴婦人だろうと、暇さえあれば機を織られているというか……貴婦人だからこそ、機織りに専念しても問題視されないというべきか。
……この時代の主婦は滅茶苦茶忙しかったりもするし。
そこで僕の視線に気づいたのか糸紡ぎの少女は、手を止めてしまった。顔も真っ赤だ。
……珍しいからと見物していた訳じゃないけど、気分を悪くさせちゃったかな?
実際、ダイ義姉さんやエステルの糸紡ぎは、僕にとって日常の風景だ。
この時代、女の子は小学生に上がったら勉強を義務付けられるかの如く、糸紡ぎを命じられていた。
それは生涯に渡って使う技術だからでもあるし、幼子が紡ごうと糸の価値は変わらないからでもある。もう子供であろうと立派な労働力だ。
ただ、さすがにフルタイムで働かすようなことはない。
というか大人ですら平均労働時間は現代の半分ぐらいで、なんというか貧乏ながらものんびりしたものだ。
しかし、そこはやはり子供というべきか、いつでも遊びたくて仕方がなかったりする。
今日もサボって遊びに行こうとしたところで母親に捕まり、ワーワー文句を言いながら不承不承に作業を始めた。
そんな日常の一コマだろう。……直前に威勢の良い母親らしき声もしたし。
仕方がないので「僕は悪い領主の子じゃないよ!」と手を振ってみる。大盤振る舞いで満面の笑みもサービスしちゃおう。
……拙い。逆効果だ。
ますます顔を赤らめて怒った少女は、羊毛をいれたズタ袋を引っ掴むようにして建物へ引っ込んでしまった。
退屈な糸紡ぎであっても、それでも快適に励むべく、日向ぼっこを兼ねたとかそんなところだと思う。
なのに珍しそうに見物されたら――
「袖にされてしまいましたね」
いつの間にやら隣へ立つティグレに揶揄われた。どうやら見ていたらしい。
うん、誰かを興味本位で観察なんて、それはそれは失礼なことだった。趣味も悪いし!
「そ、袖になんてされてない! っていうか、そういう意味で見ていた訳でもないし!」
「なるほど。しかし、追いかけられないのですか?」
……ぬぬぅ。
母上や義母上とは違う感じにニヨニヨ笑いだ。
でも、こんなところでナンパなんてしている場合か! マーギュリの一件で誤解もされているし! というか僕は、まだ数えで八歳だよ!?
そんなこんなの気持ちを視線へ込めると、楽しそうにニヤリと笑い返してくる。
我が家の
しかし、ほぼ同じテンションでティグレは、絶望的な特攻すら請け負う気がする。
それが判ってしまうと、もう駄目だ。とても非難する気にはなれない。
……まあ、これが
「何か用?」
「いえ! 別段、御曹司に御願い事という訳ではないのですけど……この様な場所で御一人、何をされておいでで?」
不思議そうに尋ねてくるけれど、しかし、特におかしなことはない。僕が御祖母様の館――ゼアマデュノの領主館にいるのは当たり前だ。
でも裏手にいるのは――住み込みな人達の居住区域にいるのは、変といえば変かな?
「ちょっと作業をしようと思ったんだよ。ジュゼッペにも声を掛けたけど、色々と借り出すのに手間取ってるのかも? けっこうな品数を頼んじゃったし。義兄さん達にもお願いしたから、そろそろじゃないかな?」
意外なことにティグレは子供の発言と馬鹿にせず、最後まで聞いてからなるほど成程とばかりに肯く。
それから諭すような感じで咎められた。
「なにを成されるのかは私には解りかねますけど、御一人でいられては困ります。城とは違うのですから」
うーん? そうなのかな?
城とは違うといっても、領主館はそれなりの規模だ。そうそう部外者が入り込めるとも思えない。
しかし、ティグレは僕の意見を求めた訳ではなかったらしく、ならば自分が護衛にといった様子だ。
これは人手が増えたと思えばいいかな?
などと、先ほど揶揄われた分の仕返しぐらいの気分で考えていたら――
「若様! 御申しつけの品物は、ほとんど揃えられ……ました……です」
遅れてきたジュゼッペが首尾を自慢げに誇った。
後半しどろもどろなのは、隣のティグレに気付いたからだろう。なんだって偉い人が苦手なんだか。
「
「おはようございます、
「確かに
「へっ? えっと……それじゃ……ティグレ様?」
「ティグレとだけで、御同輩。私の方が年下なのですから」
「いえいえ! あっしが
不満そうなティグレへ阿るように譲歩では、両者間の格付けは済んだ同然だ。
でも、僕直属の家臣と父上麾下の
「それと申し付けられていた鐙ですけど、そのー……えっと……若様が――」
「ああ! そうそう! ティグレ達は鐙が欲しいんだよね? でも、
「私としては
「うん。どうせなら、ちゃんと作ろう。
不思議そうなティグレへ理由を教える。
「踏ん張っている時に鐙を斬られたら大惨事なんだって。
「おお! 確かに!」
ティグレが納得してくれたところで、ジュゼッペに戦利品を見せて貰うことにした。
内訳は背中に背負っていた大きな籠、蓋付きの鍋、注文通りだけど出処の不思議な金属の御盆、そしてバカでかい鋏などだ。
……なにげなくジュゼッペは調達能力が高い気がする。
中でも目を惹く鋏は、おそらく羊毛を刈り取る用だろうけどギリシャ式の鋏――日本でいうところの和裁用とか握り鋏と呼ばれるアレの親玉だ。
ローマ式――日本でいうところの洋鋏も、紀元前後で開発済みなんだけどなぁ。まあ逆に植木鋏の代用に丁度なサイズ感か。
「あとは適当なところへ竈を拵えれば? 煮炊きをなされるんですよね? 木工は何を御作りになりたいのか判らねぇですけど、生憎とナイフぐらいしか」
などとジュゼッペは謙遜するけど、意外と間に合わせてしまう気もする。
僕が限度を知らないこともあるけど、実はジュゼッペの方も驚くほどに技術力が高い。
おそらくは時代平均レベルなんだろうけど、ナイフ一本で大半の物を作れるのではないだろうか。
……物が無いのを工夫と人力で解決しすぎだ、きっと。
まあ現代社会のような極度の大量生産と過度な使い捨ては、大戦後しばらくしてから。
前世の僕のような現代人にとってすら、まだ百年も経っていない。
やはり千五百年以上も先の感覚で語っては――
近くで悲鳴が聞こえた! それも、おそらく女の子の!
次いで聞き間違えようのないタールムの唸り声! これは相手を威嚇してる! それも最終警告に近い!
さらに注意を向けてみれば、小さな女の子が投げ飛ばされて!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます