紙と石鹸
実のところ『トロナ石』は、『異世チ珍』でAランクを付けられてる程の重要資源だ。
これより上のSランクが『米』や『大豆』、『芋類』、『バナナ』、『各種香辛料』、『スイート・オイル』、『無煙炭』、『ゴム』などだから……その評価の高さを判って貰えるかもしれない。
さらにAランクな理由も惜しい! いざとなったら自作可能という点で評価を下げられている!
ようするに『重曹』は、比較的簡単に合成が可能だ。それも理科の実験室レベルで。
そもそも科学文明的には、合成されてから注目を浴びた資源といえる。
つまり、最初は炭酸ナトリウムを加工していたのに、各地を調べたら――
「なんと天然資源で同じものがあった! それも、ずっと前から確認はされて!」
と、実に珍しい流れを経ている。
そして天然物が再発見されて以来、重曹需要は天然物へ置き替えられていく。
が、歴史的に考えるとヨーロッパで『トロナ石』は発見されてない……気がする。
これは簡単な帰納法で、もし発見されていれば、重曹合成より前に活用されるからだ。
……逆説的に、この地はヨーロッパじゃなかった?
そもそもドゥリトル山からにして、北部ヨーロッパ海岸近くの活火山となってしまい……僕の知識では心当たりがない。
いや、領内にあるという『トロナ石』産地の断層は、前世のヨーロッパにも存在したが、それは重曹合成まで見過ごされていた?
そして僕が知らないだけで、近代や現代からは採掘はされて?
また、あらゆる鉱物類は、いわば地球のニキビの様なもので……どこであろうと、なんであろうと埋蔵の可能性はあるという。
ただ、ほとんどは地下深くへ埋もれすぎていて、あるかどうか判別すらできないが。
偶発的な地殻変動が、運よく『トロナ石』の埋蔵した断層を隆起させた?
しかし、そう考えると僕の前世と現世は、リンクしていないことになる。
前世の史実から誤差レベルで位置がズレただけでも、それは乖離してる証拠と見做せた。
……起きていない断層隆起が、こちらの世界だけで発生した場合などもか。
だが、それらの永久に答えの得られない問題より大切なことがあった!
それは天恵たる『トロナ石』で何を為すか!
……難しい哲学よりも、現実の方が大事だと思う。
そして実際の作業を解説すると――
化学的に『トロナ石』は、炭酸ナトリウムと炭酸水素ナトリウムの複塩――化合物だ。
そのままだと扱いにくいので粉砕し、お湯に溶かして沸騰させる。
これで炭酸水素ナトリウムは炭酸ナトリウムへ変化、元々の炭酸ナトリウムはそのまんまで……つまりは炭酸ナトリウム溶液だ。
ちなみに沸騰せず二酸化炭素を過剰供給すると、炭酸水素ナトリウムだけ――純度百パーセントの重曹となる。
……そんな簡単な訳あるかといわれようと、そうなんだから仕方がない。
この炭酸ナトリウム溶液はソーダ灰とも呼ばれるので、察しの良い方なら結果も想像できるだろう。
そしてお馴染み卵の殻を用意する。当然、貝殻や大理石でも代用可能だ。
これは化学的にいうと炭酸カルシウムで、八百二十五度以上の高温で煆焼したら酸化カルシウムとなる。
……具体的には乾煎り――もちろん直火でも問題は無い――すればよく、木炭でも空気を送ってやれば必要な温度へ届く。
そうやって変化させた酸化カルシウムを水に溶かすと、水酸化カルシウムだ。
溶かしたらすぐに赤味がかるので、成功したかどうかも一目瞭然だろう。
最後に炭酸ナトリウム溶液と水酸化カルシウム溶液を混ぜ合わせると、水酸化ナトリウム水溶液――つまりは苛性ソーダとなる。
……簡単に自作できるが劇薬指定されてるほどで、取り扱いには注意が必要だ。
肌に触れれば化学火傷を負うし、もちろん素手での作業は厳禁。もし目に入れば失明の危険すらある。
また適切な比率は、科学に明るい者でも断言は難しいだろう。当然、僕にはとてもできない。
が、副産物として炭酸カルシウムが沈殿するので、その沈殿具合から適切な水酸化カルシウムの量を推定できる。
……一定を越えたら沈殿物は増えないし、逆に足りなければ減るからだ。
などと簡単そうに説明したけれど、安定して出来るようになるまで一週間も掛かった!
しかも――
果たして濃度何パーセントの苛性ソーダが作れたのか、誰にも判らない
という難問も残ったし!
……乾燥させて固形化するべきか?
まあ、幸運にも次の工程は、正しい比率を覚えてはいる。
石鹸のレシピは――
油……二十、苛性ソーダ……三、水……十、香料類……一
なので容積に対する重量比を参考にすれば、そこそこ正しい量が……推定できるかもしれないし、できないかもしれない!
……予想の数倍は大変かも!?
苛性ソーダも、思った以上の刺激物だったし!
それでも試作品一号に成功し、いよいよ今日から最後の手順となったところで……話は妙な方向へと転がりだした。
なぜか母上とレトが
当然、侍女でもある義姉上やエステルを連れて。小姓役のつもりかサム義兄さんまで一緒だ。
「……えーと? どうしたの? みんな揃って?」
などと惚けてみるも、ちょっと拙い。
……
しかし、予想に反して驚くことに――
「その……若様が石鹸を……お作りになると……」
「ですが、吾子……思い止まる訳には、いかないのですか?」
と石鹸作りに異を唱えられた!
「……はい? どうしたんです、突然!?」
いや、突然ではないのか。
他でもない僕自身が、試作品に使う香料を二人にお願いしている。その流れで石鹸作りの事も伝えてあるけど――
なんで!? どうして止められるの!?
……いや、違う。まだ僕は間違って!?
どうして石鹸を知っているんだ? この世界に存在してたのか!?
「お二人とも、石鹸を知ってらしたのですか?」
思わず問い返すも、逆に不審そうな顔で首を捻り返される。……もしかして愚問の極み?
そしてレトは探り探りな感じで――
「あまり良いものではありませんけど……あたしでも石鹸ぐらいは」
と何やら差し出してくる。
……うーん? 小指の先ほどもないけれど……灰色の樹脂……だろうか? そして微かに香ばしい?
これはスラング的な意味でも、美味そうな香りという意味でもなく、ずばり焼肉的な臭いという意味だ。
「……石鹸……なの? どうしたの、これ?」
「先週、子羊を丸焼きにしたじゃないですか? その時のですよ?」
それは僕も覚えている。子羊が骨折したとかで、予定外の御馳走が振舞われた。
しかし? これ、お互いに話が通じてるかなぁ?
なんとも判らないので、レトが石鹸と主張する物を少し貰い、水に溶いてみる。
……うん、石鹸だ。ちゃんと泡も立つし。……焼肉臭いけど。
「では、吾子が作ろうとしているのは……この様な?」
そう仰るなり母上は、なぜか悲しげに石鹸で作られた蛙を差し出された。
……ビックリするぐらいに写実的だ。まるで本物?
というか――
マジで本物だ! これ死蝋化した――それも鹸化した蛙の死体か!
「うわっ! 珍し! どうしてこんなものを!?」
「我が家に伝わる魔除けで……いずれは吾子の花嫁へ託すつもりでした。しかし、このような
と悲壮感すら漂わされてるし!
「待って! 違う! 二人とも勘違いしてる!」
とにかく濡れ衣と主張しつつ、急いで状況を整理する。
………………うん?
そういえば焚火などで獣肉を丸焼きにすると――
石鹸ができることもあるんだった!
滴り落ちる獣脂――油分と灰――アルカリ成分が、偶然に良い感じで混ざり合って鹸化――石鹸となり得る!
……旧約聖書ぐらいの昔から確認されていたような?
また動物の死骸をアルカリ性が強く、低温で、微生物の繁殖しない水へ沈めておくと死蝋化――死体のまま主成分が変化し、永久死体となる。
その多くは蝋へと変わるのだけれど、場合によっては鹸化――石鹸となるケースもあった。ちょうど母上が所有される蛙のように。
もちろん蝋化した死体は蝋として――蝋燭として使用可能だし、鹸化したものは石鹸として使える。
さらにいうのであれば死蝋化を促す湖を、先祖代々の墓とした部族なんかも実在してて……ようするに古代から認識されてる技術だ。
以上を踏まえると、この時代の人でも石鹸は知ってるのか!
「……違うよ? 確かに僕が作るのは石鹸だけど、悪い石鹸じゃないんだ!」
主張しながら、試作品一号の入った鍋を二人へ差し出す。
「牛乳……ですか? 若様?」
「少なくとも臭くないようですね?」
さすがは実物の説得力で、少なくとも説明を聞いて貰えそうだ。
まあ鍋へ入れられた石鹸を――乳化した液体をみて、なにか危険な兆候を感じてしまったら……それはそれで別の問題を抱えている。
「えーと……これはオリーブオイルと『トロナ石』――『ゲップ石』で出来ているんだ。……色々と端折れば。だから料理みたいなもんだよ!」
……料理は化学でもある。よって完全な嘘ではない。……いわゆる方便だ!
そして上澄みの透明な成分――グリセリンを避けるようにして、沈殿した乳化成分――石鹸を摘み上げる。
「ほら、ちゃんと泡立つでしょ? ただの石鹸なんだし?」
……幸運にも刺激は感じなかった。
実のところ手作り石鹸には危険があり、完成品で化学火傷を起こす場合もある。
材料の苛性ソーダを化学変化させきれなかったら、完成品に苛性ソーダが残留してしまう。
……いわゆる使うと肌の荒れる石鹸だ。
まあ、それを警戒して試作品一号は、もっとも苛性ソーダが少なく済んだ成功例を使っている。
さらには念には念を入れて、半日以上も攪拌してるし。
……苛性ソーダを使わない石鹸の方が良かったかなぁ?
しかし、僕の不安を他所に母上とレトは、また意表を突く反応を示した。
「……臭くない!?」
「石鹸なのに……臭くありませんね?」
……なるほど。二人にとって石鹸は既知の代物で、問題点は臭いだったらしい。
そりゃ焼肉フレーバーの石鹸はアウトだろうけど! 動物の死体の臭いもアレだろうし!
「ちょっと待って下さいよ? 石鹸なのに臭くないのなら――」
そうレトは言うなり、僕の手から手拭いで石鹸をふき取ってしまった。
なぜか、そのまま洗い出す。
「洗濯……してるの?」
「ええ! これは石鹸なんですよね、若様? 朝餉の時に汁物をこぼしてしまって――」
いわれて見れば、たしかに何かの染みが布へ付いていた。
……うん? この時代の洗剤だと、もう落ちないのかな?
「もう少し石鹸使ったら? それに少し重曹も混ぜて――消臭と柔軟剤になるはずだから」
レトの手元へ石鹸と精製しておいた重曹を加える。
「……柔軟剤? 柔軟剤とは何です、吾子?」
しかし、問われても答えられなかった。柔軟剤って何だろう?
「洗い上りが柔らかくなる……んだったかな? 乾かせば違いも判るかと」
「ああ、凄い! 染みが落ちて! それに臭くない!」
洗濯が終わったらしくレトは……凄く感動していた。
……なるほど。この時代では――
誤:「君は石鹸っていうフレンズなんだね、すっごーい!」
正:「君は石鹸なのに臭くないフレンズなんだね、すっごーい!」
だったらしい!
「吾子よ! これは素晴らしいものです! 臭くない石鹸とは!」
「凄いですよ、若様! できるなら沢山作ってください! 明日から洗濯は、これで洗いましょう!」
納得しちゃったぞ!? 我が母上&乳母上ながら現金だなぁ。
「でも、臭わない方が良いの? それなら予定変えるかな」
「……違いますよ、若様?」
「そうですよ、吾子。その石鹸は臭くないだけです。匂いはします」
……どう違うんだろう。
「石鹸臭いということですか? それは仕方がないですし、気になるなら念入りに濯げば――あれ? 微量は残る? やはり香料が要るのかな?」
などと独り言ちかけていたら――
気付けば『凄み』に囲まれていた!
「吾子? それは例えば……『私の香水を、この石鹸へと混ぜる』つもりだったと?」
「そうですよ……そうに決まってるよ、クラウディア! だから若様は……私達に香料を持って来いってッ!」
「私も……私も秘蔵のポプリを持ってきたわ、お母様ッ!」
「ステラはお花! お花をたくさん!」
各々が明後日の方向へ叫びながら女性陣は『凄み』を撒き散らす!
これが『何とか立ち』!? 『ゆらー』とか『ゴゴゴゴゴ』という擬音すら幻視できそうだ!
「えっと……どの香料で上手くいくかは判らないけど……例えば母上の香水を石鹸に混ぜて……運よく問題なくて……それで洗濯すれば……その服は、ほのかに香るように――」
……駄目だ! 皆の目
とにかく誤解は解けたけど、時間が掛かりそうなので――
先に直立不動で固まっているジュゼッペを助けてやることにした。
「肩の力抜いたら? とりあえず石鹸の続きは、僕がやっとくから! ジュゼッペは打ち合わせ通りに始めて」
「へ、へぇっ! 畏まりっ! ましただっ!」
……うん、駄目かもわからん。
しかし、手の方は淀みなく動き始める。さすがは職人あがりだけあって、作業の方は信用できそうだ。
「それで『苛性ソーダ』を入れる鍋ですが……一リュカ杯で良いんですかい?」
「……うん? いや、それは石鹸と違ってラフで良いよ。えっと煮込む藁が完全に隠れるくらい。……違うな。それより水位を高くして。それなりの時間は煮込むから」
ここで『一リュカ杯』に疑問を覚える方もおられるだろう。
……石鹸作りの最中に、でっちあげた独自の単位だ。
作り方を固定した――一定の濃度とした苛性ソーダ水溶液を、これまた計量用とした片手鍋一杯分。
それが『苛性ソーダ』を『一リュカ杯』だ!
下手したら後世の受験生から呪われそうだけど、他に安定させる方法もないんだから仕方がない。
……先に度量衡をするべきか?
「比較するから『トロナ石』だけの分もね」
「あれ? 『重曹』?でしたっけ? そっちでやると――」
「んにゃ。どのみち煮るなら同じだった。それと鍋の蓋に石を載せるの忘れないで」
了承の印とばかりにジュゼッペは、軽く肩を上げる。
その意味するところは「若様が何を仰っているのか判りませんけど、まあ言い付けられた通りに」といった風だ。
……助手としては得難い人材だけど、これで良いのか悩むことはある。
しかし、劇物の取り扱いは慎重だったりで助かっていた。でなければ、簡単な作業すら頼めやしない。
あっという間に、簡易圧力鍋で藁が煮込まれ始める。
……とりあえず弱火で一時間ぐらい?
さらに次の指示を待たずジュゼッペは、大麦粥を作り始めた。最終的に糊とするので、細かく大麦を砕くところからだ。
……昨日の説明した手順を覚えていたらしい。やはり得難い人材だ。
ジュゼッペが――僕とジュゼッペが何を始めたかというと、まあ定番の紙作りだったりする。
大多数の人が勘違いしているけれど、実のところ紙は原材料に――
繊維さえあればよかった!
それこそ道端に生えてる雑草ですら作れるし、動物の体毛などでもOKだ。
動物由来の紙なんて見たことがない?
だが、羊毛で作った紙は、フェルトと呼ばれている。誰でも一度は見たことがあるはずだ。
あれを布と呼ぶか紙と呼ぶかは、ただ使う側の都合に過ぎない。原理的にも作り方的にも、完全に同じだ。
しかし、それなのに長らく紙の大量生産は果たされなかった。
それは――
繊維だけ取り出すのは難しい
からだ。
そこへ至るまでの科学力が――化学力が重要であって、原材料は紙の品質しか左右しない。
よって作ろうと思えば、藁でも紙は作れる。繊維を含んでいるからだ。
これは嘘でもなんでもない。日本人なら誰でも一度は耳にしたことがあるはずだ。
藁半紙
という言葉を。
あれは本当に藁で作った半紙だから、藁半紙と名付けられている。
そして紙の方は、煮えるのを待つだけとなってしまった。あとはジュゼッペに任せて、しばらく放置か。
意を決し、戦場へと戻る。
死んだ目をしたサム義兄さんが、憐むように「がんばれよ?」とアイコンタクトをしてきた気がして……咽た。
「兄ちゃ! あのね! あのね……ステラ……小さいお花しか摘んでこれなかったの。これでもステラの……できるかな?」
女性陣の輪へ戻るなり、小声でエステルが話しかけてきた。
嗚呼、どうして幼女のこしょこしょ声は最高なんだろう!? 絶頂を迎えてしまいそうだ!
しかし、エステルの心配も判らないでもなかった。
もうすぐ春といっても、まだ咲いている花なんて数えられる程しかない。
そんな選択肢のない中、なんとか集めてきたみたいだけど……残念ながら香りは控えめだ。
「……ふむ? 上手くいくか判らないけど……先に香りを抽出してみよう」
答えながら石鹸の上澄みを――グリセリンを皿に取り分ける。
「お花だけ選り分けて、このお水へ入れて。上手くいったら、お花の香りだけ取り出せるから」
「うん! 兄ちゃ、ありがとう! ステラ、がんばるね!」
グリセリンは糖アルコール――つまりはアルコールの親戚なので、成分の摘出にも使える。ごく簡単な香水作りといったところだろうか?
満面の笑みでエステルが作業を始め、それだけで満たされてしまいそうだけど――
振り返れば『凄み』が強まっていた!
「いまのは……没薬を? ……作って!?」
「だとしても……液体だから……つまりは香水!? そんな馬鹿な!?」
「私ですらッ! 私ですら、まだ香水は持っていないのにッ!」
……拙いな。今日は迂闊な一言が……死に直結するかもしれない。
「あ、アルコールはッ! そのうちアルコールは作るからッ! もう少し待っててッ! アルコールの方が成分摘出に向いてるからッ!」
心の中で優先順位を書き換えつつ叫ぶ。
「………………」
「………………」
「………………」
三人共に無言だったけど、なにか考えている風だ。
とりあえず……許された? よし、もう一押し!
「それにッ! これの上澄みは――グリセリンは化粧水に使った方がッ! 良いかなってッ!」
「化粧水とは……なんです、吾子?」
……しまった。藪蛇か!?
「えっと……お化粧の……下地調整? あと汗や脂でテカるのを抑えるんだっけ?」
テレビのCMで「もう汗でテカらない」とか言ってた気がする。
しかし、その辺が「女性的には気になるんでしょ」とドヤる間もなく――
「ほうほう! それはそれは!」
「でも、そんな旨い話ある訳が……」
などと言いながら母上と
「ちょっ! さきにパッチテストを! それにアレルギー出なかったら、洗顔後の方がっ!」
そこで全員がパッチテスト――目立たない部分へ石鹸をつけて、かぶれたりしないか調べることになった。
可能な限りに低刺激を目指したし、まず大丈夫ではある。
でも、やっぱり『苛性ソーダ』じゃなく『重曹』で作る石鹸にしとくべきかなぁ?
「少し突っ張る感じもしますが……この石鹸は良いものです!」
「この化粧水もだよ、クラウディア! ああ、このプルンプルンな感じ!」
と母上&
グリセリンは砂糖を十とした時に六の甘さがあって、甘味料として使いたかったけど……駄目かもしれない。全部没収されちゃいそうだ。
「とりあえず! 基本的には石鹸の香りで良いんだろうけど……まあ、いくつか種類を? 例えばミントの葉っぱや果物の皮を刻んで混ぜたり……香料を入れたり……試して?」
やっと落ち着いたのか、なんとか説明を聞き出してくれた。
……凄いな。
作業始めるまで、えらく時間が掛かったぞ!? サンプルを小分けして、香料を混ぜるだけなのに!?
それに皆の洗顔を見ていたら、頭がムズムズしてきた。
……洗ってしまうか? もう春も近くて、今日は冬にしては暖かめな日だし?
となると石鹸ではなく、シャンプーを作る必要がある。
が、実のところ簡単だ。馬鹿々々しいほどに。
判りやすく石鹸作りの段階から説明しなおすと――
最初は材料が乳化するまで丹念に攪拌する。
さらに分離して戻ってしまわないよう、時間を置いて何度も何度も混ぜ直す。可能な限り長時間に渡って。目安は半日程度で、ここは念を入れた方が良い。
攪拌を止めると、徐々に上澄み――グリセリンも浮いてくる。
それを小まめに掬い取りつつ、数日から数週間放置すると固形化し……現代人の見知った石鹸の完成だ。
しかし、液体状の段階でも洗浄力は変わらない。
余分な水やグリセリンが出きってないだけだから、ようするにボディソープの親戚だ。
逆に混ぜ直すことで、グリセリン過多の状態へも戻せた。
これはシャンプーの代用品にできて、石鹸シャンプーなどと呼ばれている。
つまり、シャンプーが欲しかったら、適当にグリセリンと混ぜ直せばよかった。
少し悩んだが、ミントを混ぜたものでシャンプー一回分を作り直す。
香水や花の香りもいいけれど……まあ男なら、このミントで十分だろう。一番に風呂用品な感じもするし。
「ああ、ジュゼッペ! 一番大きい鍋でお湯沸かしといて! えっと……沸騰させなくてもいいから! 温めで……顔を洗ったりできる感じに?」
頼みながらワイルドに頭を洗い出す。
……上着は濡れるだろうけど、裸になるよりはマシだ。
この時代に風邪をひく方が怖かった。服は、あとで着替えればいい。
それにしても――
凄く気持ち良かった!
思わず鼻歌も漏れる!
冬季だから湯浴みすら出来なかったのもあるけど――
六年ぶりの洗髪だ! 気持ち良くない訳がない!
などと楽しんでいたら、いつのまにか家族全員に見物されていた。みんな口をポカンと開けている。
……あれ? また何かやっちゃい……ましたよね。まあ、どう考えても。
「吾子、なにをしているのです! 風邪でも召したら如何するのですか!」
「そうですよ、若様! ――サム! ありったけのタオルを持っておいで! 綿のをだよ! あと若様の着替えも! ほら、急いで!」
母上&
ダイ義姉上に至っては――
「これは髪を洗っている……の?」
と僕の頭を弄りだす。
……いや、べつに良いけど……泡だらけだよ?
そして釣られたのか母上も髪を弄り始める。
「髪を石鹸で……洗うのですか? これまた奇天烈な。それに……なんというか……泡立ちが悪くありませんか?」
……なるほど。母上の感想も尤もか。
この時代の洗髪といったら水洗いだし、なにか使うのはお手入れ的なニュアンスだ。
具体的には、水で洗ってから卵白や蜂蜜などでリンスをする。しかもリンス的手入れは贅沢で、母上レベルの貴婦人でなければ厳しい。
……ようするにヘアケアの主力はブラッシングだけだ。
「えっと……脂でべたついたのが洗い流せて、気持ちいいんですよ? あと泡立たないのは……まだ脂に負けてるからかな? シャンプーが――石鹸が足りなかったかも」
とりあえず説明したものの、三人は鋭い目
……エステルは解らなかったのか、なぜかニコニコしている。ああ、麗しの我がオアシスよ!
「若様! 冬に頭を濡らすなんて、自殺も同じですよ! でも始めてしまったのなら、ちゃんとお洗いした方が……さっ、さっ! レトが洗って差し上げますから――はい、ごろーんと! 若様! ほら、ごろーんと!」
お小言を口にしながらも隣へ椅子を寄せてきて、自らの膝をたしたしと叩く。
……マジで? ここで
だが、逃げる暇もなく母上とダイ義姉さんに、「手伝ってあげる」とばかりに引っくり返された!
ああ、これ
でも、人に頭を洗って貰うと……凄く
……色々と大変な目に遭わされたけど、僕の名誉の為に詳細は伏せさせて頂きたい。
さらに厳しく怒られた。
まあ、高級品である綿のタオルを惜しげもなく何枚も使って、やっと乾いたぐらいだから……大袈裟でなく冬季の洗髪は、命に係わるかもしれない。
なぜなら風邪をひいた人間の数割は、そのまま死ぬ。そういう世界だ。決して冗談ごとではなかった。
現代人の感覚でいうと、この世界での風邪は『医者に即時の入院を勧められる』級だろうか?
年齢によっては、今生の別れと親族が見舞いへ来るだろう。
……もしくは死病をうつされたら堪らないと、決して近寄ってこない?
そして綿製品は全て輸入に頼っていて、つまりは高級品だったりする。
なぜなら綿が自生してないから。そして植物としての伝来は、遥か先な未来だ。
ようするにボンボンでもなければ、こんな風に何枚も使う贅沢は不可能といえる。
さらにタオルと呼んではいるものの、現物は平織りの布だ。
あの独特の織り方は機械で作るようになってからで、この時代には存在しなかった。
つまり、実際にはタオルでなく、吸水性能は微妙だ。
……もうヘア・ドライヤーを作るしかない!?
などと現実逃避をして――白熱した議論を続ける母上と
やったぜ!
――じゃない! どうしたんだろう?
「どうかした、ステラ?」
「うん、ん! なんでもないの! ………………えへへっ」
そう答えるや恥ずかしいのか顔を、僕の身体へ押し付けるようにして隠してしまう。
……なんだ、この可愛い生き物は! やっぱり義妹は最高だ! これだけで丼飯――いやさ丼パンが何個でもいける!
さらに――
「兄ちゃの髪……奇麗でサラサラ!」
と気持ちよさげに手を伸ばしてくる。
ああ、好きなだけ触ればいい! エステルが望むのなら、何をされたって平気さ!
そんな義兄と義妹の美しひ魂の交流を背景に――
「予め部屋を暖めておけば――」
「さらに大量の湯を使って――」
「亜麻布でも何枚か使えば――」
などと『漢女の世界』は濃く展開されていた。
……うん、おそらく三人は我慢できないだろう。すぐに洗髪を開始するはずだ。
でも、僕と違って完全に用意すれば危険性は無い……かな?
そして――
「なあ? あれって僕もやらされんの? 冬なのに? 風邪ひいちゃうよ! まだ死にたくない!」
と目で訴えかけてくるサム義兄さんから目を逸らす!
……仕方ないんだ!
母上に
「……風呂があればなぁ。それも冬だろうと使える立派なのが」
思わず漏れた独り言に、なぜかジュゼッペが過剰に反応する。
……まだ風呂作りの野望を諦めてなかったのね。
しかし――
「あの者は……やはり吾子に悪い影響を?」
とでも考え込む母上が怖い!
「よし、そろそろ藁が煮えたかな?」
と敢えて大声を――「母上の様子には気付いてませんよ?」な体を装う。
……母上! これで結構、得難いおっさんなんです! 顔も面白いし! 許してあげて下さい!
「という訳で、鍋の中身を笊へ。『苛性ソーダ』も『ソーダ灰』も火傷するから、皮膚につかないようにね? あと、念入りに濯ぎも」
「合点でさぁ!」
軽快にジュゼッペは肯き返してくるけれど、これで意外と慎重だ。
というか僕とジュゼッペは、二人ともに軽い化学火傷を何か所か負っていて、かなり注意深くさせられてる。
……やっぱり、劇薬の利用は止めようかなぁ?
などと悩む間にも、薬品の洗浄は終わった。
「そしたら俎板へ。うーん? 適当に棒で叩くというか……棒を転がすというか? 割とラフで良いよ。本当は包丁で叩くらしいんだけど……切れすぎたら嫌だから、棒に変えたんだ」
「こんな感じに……包丁で切る……ように?ですかい?」
ジュゼッペなりに棒で叩くと潰すの中間的な動きをしてくれた。
しかし、僕の中にも正解は無いから、なんとも答えようがない。
「とりあえず繊維が――この糸みたいのが解れて、それでいて千切れ過ぎない……が、良かったはず。言ってること、伝わってる?」
「な、なんとか?」
これは繰り返すことでの上達や発見待ち……かな?
しかし、徐々に繊維は解れていき、茶色の極細麺料理のようになった。
確か包丁を使うとペーストぽくなり、解れ具合も抜群だけど……その分だけ繊維も短くなってしまう。
そして繊維の長さで紙の丈夫さは決まるので、短くし過ぎたら千切れやすくなる。
……藁は繊維の短さから低品質とされたぐらいで、少し配慮が必要……かな?
また、『苛性ソーダ』と『ソーダ灰』の両者で煮た物を比べると、やはり『苛性ソーダ』の方が簡単に解れている。
これは原材料――藁の蛋白質をアルカリ成分が溶かしているからで、薬品として強い方が効率もよくなるからだ。
「こっちの『苛性ソーダ』の方が良さげで?」
「どうだろう? それほど薬としての強さは関係ないんだよね。漬ける時間を長くすれば良いだけだし」
「でも、それじゃあ……沢山の薪が必要ですぜ?」
「んにゃ。最終的には煮ない。だから薪も使わないで済むんだ」
これが『トロナ石』で紙を作る利点だろう。
今回は結果を急ぐ為に煮たが、必須ではない。
『苛性ソーダ』なら一か月ほど、『ソーダ灰』でも三か月ほど漬けておけば、煮詰めたのと同じ結果となる。
やはり燃料は貴重だから、煮ないで済むなら最高だ。べらぼうに高価な紙を、ほぼ『トロナ石』と藁だけで作れる。
……Aランク指定された理由を判って頂けただろうか?
「よし、そしたら……それを緩く溶いた糊の中へ」
「こう……全部ですかい?」
「うん。どのみち乾燥させれば一緒だから。適当に混ぜといて」
説明しながら自分では四角い型を用意する。
藁半紙と表記すると、半紙と同じ製法と勘違いされるかもしれない。
が、素人に半紙の製作は不可能だ。
繊維を解いた糊の中へ入れたが……この状態をボウルへ入れた素麺と考えたら判り易いかもしれない。
半紙作りの場合、まるで金魚掬いのようにボウルの中の素麺を掬いあげる。
すると不思議なことに掬い出された素麺は、薄いのに均一な厚みに!
それが半紙職人の技だ。……おそらく十年修行しても、その片鱗にすら届かないだろう。
なので僕達は、ボウルの中身を全て型へ開けてしまう。
それから揺すったり、振動させたりして、山となった素麺を均一となるよう広げていく。
残念ながら半紙のように薄く均一とはならないけれど……まあまあ均一にはできる。そしてトイレットペーパーが多少厚くても、誰も困りはしない。
キッチンペーパーとか不織布レベルな厚みとなるけれど、それは願ったり叶ったりだ。
「おおっ! 良いんじゃない?」
「……これが本当に紙になるんですかい?」
「このまま干して乾かせば、立派な紙になるよ」
さすがにジュゼッペは懐疑的だった。
まあ、上等な紙は金貨で取引される時代だ。疑って当然といえる。
「うーん? あとは糊かな。糊の品質には自信がないや」
「あっしは、ちゃんと御指示通りに作りやしたぜ?」
「いや、原材料の方。大麦糊で十分だと思うけど……まあ、色々と試す様かな。繊維の方も他の藁や草とか、あと定番だけど木材とかも」
「糊……ですか? うーん?」
分かる範囲なら考えてくれるのは、ジュゼッペの良いところだ。
まあ、そのうち最適解は出るだろう。なんせ試す時間はたっぷりとある。
「それより問題は量産の目途かな。どれくらい作れると思う? あー……もう少し大きな型や専門の道具を用意して……漬けておく鍋も専門のを沢山。水も使いやすいように河沿いに工房を建てて?」
「わざわざ工房をお建てに!? うーん……これくらいのを一日に……百枚ぐらいは作れるんじゃ?」
手振りで示した大きさは一メートル四方ぐらいだろうか?
それを適当に十六分割したとして、それが百組で……一日に千六百枚!?
他にも作業はあるし、話半分で考えても……八百枚だ!
この世界の日当が一万円としたら、一枚当たり十円前後?
それが二十五センチ四方の厚めなティッシュの値段?
頑張れば一日に一枚で済む? 平均で二枚、いや三枚は欲しい?
それでも一日三十円! 一年に直して約一万円!
……アリだろう。
最悪、自分の分を自分で賄うだけでもいい。一年につき二日も費やせば、その年に使うトイレットペーパーは作れる!
ついでに記録用紙も開発かな? あれば使うだろうし。
などと――
母上達に
結論付けた。
がんばって! 人間、頭を洗うだけじゃ死なないから!
………………たぶん、おそらく。
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