試作品一号

 ……などとポジティブ小僧のようなことを口走っても、大変なことは大変なままだった。

 なかでも僕を絶望させたのは、尾籠な話となるけれど――


 トイレだ!


 そもそも人類は二足歩行を始めて以来、全力で締めてきた。

 何をって……ナニをだ。構造的に出入りを厳しくしないと……歩いている最中に色々と落としてしまう。

 これは単なる事実の指摘に過ぎない。だからこそ人類は独特の進化を――あるいは退化をしたのだし。

 ちなみに四足歩行の動物は、トイレ問題で人間ほど苦労しない。困らないように進化を――人類が失いし機能を保持している。

 つまり人が知恵と引き換えに得しは、羞恥心じゃない。糞尿問題と痔だ。

 ………………本当に泣けてくる。


 しかし、原始人類とて馬鹿ではなかった。

 その証拠として、ほとんど全ての文明は河沿いに発祥している。

 当然、その恩恵は活用された。……用途に!

 つまり、見方を変えれば母なる大河は巨大な水洗便所そのものであり、たとえに見放されようとも、その手でを掴めばよかった。

 ……文字通りなのだし!

 不浄の手という発想だって、実のところ論理的だ。病気や寄生虫を防ぐ生活の知恵として筋は通っている。

 和語で『かわや』というのも、そもそも『川』に作った『屋』で『川屋』。そこから時代が下って『厠』になったという説すらある。

 だが、人々は堕落してしまう。

 プロメテウスの授けた知恵の火は、宣託通りに悪しき文明すら育んでしまった。

 つまり――


 トイレの消耗材が藁とか、まじ勘弁して下さい。死んでしまいます。


 ……そう、『藁』だ。

 『わら』ではない。全角とか半角とか無関係に……素直に『藁』だ。

 まだご理解できない方の為に噛み砕くのなら藁とは、稲や麦の茎を干したものを指す。

 「えっ? そんなブツでナニをアレするのかい!?」と言われようと――

 それしか用意されてなければ、使うしかなかった!

 ここで「紙無いの? なら適当な布でも使えばいいじゃない」と仰る方もおられるだろう。

 だが――


 そのような親不孝をできるはずがなかった!


 領主夫人たる母上ですら暇さえあれば糸を紡ぎ、寸暇を惜しんで機を織られている。

 もちろん、それだけで足りるはずもなく多少を買い足して、なんとか父上や自分自身、僕の衣服を賄う。

 つまり、ほぼ専業に近い母上ですら手の足りない計算だ。……現代日本人の感覚だと必要最低限でしかないのに!


 べつの言い方をすれば……ハンカチ一枚程度ですら、一日仕事で作れるかどうか。

 それを毎日使い捨てるのは「専属のトイレットペーパー作りチームを結成も同然」となる!

 当然、その役職の方は身を粉にしてトイレットペーパー作りに人生を費やす。……念のために言っておくと、僕の消費する分だけで!

 もう「封建時代怖い」と済ませられない。

 これだけで廃嫡されるか……クーデターや暗殺騒ぎへ発展してもおかしくなかった。そのレベルな放蕩だ。

 はっきりいって専属の尻拭き役を従える方が、まだ理解は得られると思う。史実にも例はあるし。


 かといって紙は、もっとあり得なかった。布ですら躊躇われるのに、さらに高価な紙では!

 いや、『』にも製紙は紹介されている。るか?


 ……駄目だ。紙づくりの難易度は、意外にも低いようで高い。

 いずれは制覇するとしても、前提素材が必要となる。すぐに解決可能なレベルじゃない。後回しだ。


 かといって、この問題を放置はできない。

 致命傷となる前なら、入浴で症状を緩和や治療もできる。現代でも推奨されているぐらいだ。

 しかし、その風呂ですら贅沢ときている! 未開文明の燃料問題は深刻すぎだろう!


 絶対に致命傷を受ける訳にはいかなかった。

 それが理由での死亡すら珍しくなかったし、そもそも医療が発達していない。あらゆる病気や怪我は、全力で避けるべきだった。


 ……どうする? なら、やはり……河か?

 幸いにもドゥリトル城は河に面している。毎日だろうと赴いて、その手にを掴む!?


 ……無しじゃない。

 そういう習慣と割り切れば、心も納得もできる。引き換えに得る健康と安心を思えば……十分にアリか?


 いや、駄目だ!

 よく考えたら僕は……まだ生まれてこの方、城外へ出たことがない!

 こんな理由で毎日河へ行く許可は、とても貰えそうになかった。

 嗚呼、誰も彼もが河原で生きなくても済む。そこまで文明がハッテンした報いが……これなのか?


 それに冬は無理だ! 水が凍るほど冷たい! 

 優れた回答に見えて……どこまでいっても熱帯専用だった! 濡れようとも、すでに乾く前提でなければ!

 だが百年! 下手したら百年だ! 生きてる限り、藁でナニをアレし続けるということ!


 ……こんな時に『異世界リュック』さえあれば!

 あれには携帯用ウォシュレットを入れておいた。念の為の予備を含め、二つもだ!

 たいして便利に思えなかったけど、あの程度な玩具ですら……今な……ら?


 嗚呼あぁっ! 携帯ウォシュレットっぉ! その手があったっ!


 ……どこから説明すれば良いのやら。

 まず『異世界リュック』というのは文章作品で――


 生身のまま異世界へ転移した時に背負っておきたいリュック


 というテーマで荷造りをしている。

 例えば水分は七リットル半。内訳は二リットルのペットボトルが三本と五百ミリ・リットルで三本。内容物は全て水だ。

 別枠として粉タイプのスポーツ飲料の元を幾つか。五百ミリ・リットル入りペットボトルへ付けるスリング三つ。燃料や消毒薬にもなるアルコール飲料を一瓶。

 これらとは別にサバイバル用簡易浄水器付水筒と、さらに別系統で超軽量な浄水システム。


 などという感じで続く。

 著者の酷いチタン信仰――チタンは鋼鉄並みに強く、錆びないし軽い――にさえ目をつぶれば、読み物として面白くなくもない。

 さらには災害用持ち出し袋へ流用できるので……一部の無趣味な者の間で、実際に集めるのが流行った。

 ……もちろん、僕もハマった口だ。

 まるで冒険者になって旅立ちの準備をしているようで、楽しかったのを覚えている。……本当に必要な今、手元にないけれど!

 超軽量チタン製キャンプ道具の数々を一度も使えずじまい! 苦労して集めたのに!

 さようなら! 無理して買った強化防水一〇〇メートルで強化耐磁構造なのに自動巻きの国産ムーブメントな腕時計!


 ……話を戻せば、その『異世界リュック』で紹介されていたのが携帯ウォシュレットだ。

 ペットボトルのフタ程度で僅か数グラムしかないのに、すぐさまペットボトルを携帯型ウォシュレットへ早変わりさせてくれる。

 異世界はもちろん、震災時などでも役に立つ優れもの――


 とはいかなかった。

 やはり軽さも追及するといまいちとなる。

 パワーソースは手でペットボトルを握り潰す力だけだから、肝心の性能も微妙だ。どちらかというと拭きやすくなる程度でしかない。

 当時は安物買いの銭失いと嘆きもしたけれど――


 それすら渇望する! 値千金だ!


 しかし、ここで落ち着くべきだろう。

 あの携帯用ウォシュレットは、失礼ながら安物だ。実際、数百円もしなかった。

 けれど、だからこそ――


 この世界でも自作可能ではないだろうか?


 ちょっとした革袋に、小さな穴の開いた金具か何かを付ける。

 それを股の間から差し込み、革袋を握り潰す圧力でシュートッ!


 ……いける……か? いや……いけるはずだ!


 いや、まて!

 順調で万全と思えたとき、その計画はすでに失敗しているッ!

 なぜなら真に優れた作戦は、その問題点も考慮済みだからッ!


 どうして携帯ウォシュレットを『いまいち』と判断した?


 使ったから。実際に使って、その水量と勢いが貧弱に思えたからだ。


 では、それのコピーを作ったら?


 ……決まっている。

 上手くいっても『いまいち』な代物しかできない!


 考え直さなければ!

 そう、落ち着け! まだチャイムは鳴らない!

 ……否、最良の味方は時間だ!

 僕だけが一人、六歳の時から熟慮を重ねられる! それなら凡人であろうと、天才と比肩もできよう!


 そして駄目だと判っているのなら、改善すればいい。

 原因不明な場合と比べたら、遥かに簡単だ!


 水量が少なく、勢いも弱かったから、僕は『いまいち』と思った。

 なら、どちらか――もしくは両方を強化すれば良い。

 例えば――


 ペットボトルや革袋サイズではなく、バケツや樽サイズにしたら?


 これで一気に水量は――少なくとも水源は数十倍を確保できる。

 さらには、それを――


 吊るすのだ!


 初期型の水洗トイレは、天井近くへタンクを置くことでパワーを――位置エネルギーを確保していた。

 一般的な家庭用だって、貯水タンクの高さは一メートルにも満たない。

 たったの一、二メートルほどで、信じられない程な勢いなのに……それをウォシュレットへ転化したら?


 水量と勢いの両方が改良される!


 問題点は、システム全体が大きくなることか?

 だが、それは重大事ではない。

 僕が欲しいのはウォシュレットであり、携帯型ウォシュレットではないからだ。


 そもそも、この世界のトイレ――汚物用の樽に便座をのせ、部屋の隅へ配置というのは気に入らなかった。

 いっそのことトイレ的な個室――か目隠しとなる仕切り――も込みで作ってしまおう!

 そこへウォシュレットを据え付ければ良いのだ! これなら多少は大袈裟となっても、大丈夫だろうし!

 順調すぎる! 万全だ! 何の問題点もない! 勝利は約束されている!

 なぜなら――


 計画のネックとなるはずな銅管は、この世界で目撃済みだ!


 翌日、僕は意気揚々と先代じいさんの倉庫を訪れた。

 本当なら剣術の稽古だった気もする――というか、ほぼ毎日が埋まる勢いで予定は組まれている。

 剣術を習わない日だって、爺やのセバストを先生に読み書きの勉強だ。

 さらに来年からは乗馬や弓術、森での狩猟などもというから……これで武家の子供というのは忙しい。

 しかし、それらの監視を潜り抜けてサボってこそ、子供の本道!


 でも、ガチガチで武闘派な師範役のウルスは、なかなか強面で少し怖かった。

 子供扱いしてこないところだって、むしろ要注意に思えるぐらいだ。僕を幼子と見くびらないということは……少し見透かされているのかな? それとも警戒をされて?

 意外と『神の国帰り』を演じるのは難しい。

 なぜなら観客の一部は、ウルスのように不審を覚えている。やはり文明が遅れていようと、そこに住む人々が純真無垢という訳じゃない。

 これからも隠れ蓑として利用するなら、もう少し検討しておくべきか?

 まあ今回は、純真な笑顔で「一日中、ダンゴ虫を探してた」とでも白を切ることにしよう。実際、リアル六歳の頃は昆虫に夢中だったし。


 そう決定したところで、苦労しながら扉を抉じ開ける。

 あと五年……いや、下手したら十年は厳しそうだ。何をするにも筋肉が足りない。

 記憶にある父上は、凄く御立派なのになぁ。とりあえず僕は、武闘派を目指さない方が良さそうだ。


 何とか開けた倉庫は、前に来た時のまま乱雑としている。

 やはり気にはなっていたので、何度か調査へは来ていた。まあ、半分くらいは秘密の隠れ家としてだけど。

 一応は遺産の後継者にして管理人なのだから、少し整理整頓するべきだろうか?

 母上が仰る――といっても僕は反応しない状態な頃で、それへ睡眠学習よろしく語り掛けてくれた内容――には、どれもこれもが高価な代物だというし。


 ……でも、ホントかな?

 購入価格と市場価格は別物だ。悲しいことに。


 例えば大きな木箱というか、小さな棺桶に入っているのは……グリフォンのミイラだったりする。

 上半身は鷲で下半身は馬という、幻獣グリフォンだ。

 おそらくは大きな猛禽――鷲なのか鷹なのか、僕では判断できない――の上半身……というか尻の辺りで切断し、そこへ小さな馬の下半身を縫い付けてある。

 この馬は上半身に見合ったサイズだから、かなり小さい。もしかしたら胎児か?

 それがミイラとなるまで――干物となるまで乾燥させてあるから、縫い目などは巧妙に誤魔化されていた。

 いや、初見なら騙されるかもしれないけどさぁ――


 これって人魚のミイラと同じコンセプトだよね!?


 もう作る方も作る方だし、買う方も買う方だ。平等に頭が悪すぎる!

 しかし、これが母上の愚痴によれば、推定で金貨百枚! もはや庶民の年収並だ!

 なのに僕ですら幻視える! 嬉々として買い求める先代じいさんの姿が! 実際は会ったことないのに!

 あのパピルスっぽい紙へ描かれている文様や絵は何だろう!?

 見たまんまエジプト土産? というかエジプトはあるの!? やっぱりヨーロッパなの、この辺り!?

 そして隅で埃を被っている像――奇妙なタコの像は……誰!?

 この長くて細いおまるは? どんな人物像を考えて――


 いや、唐突に理解できた。

 長い楕円形な陶器製のおまるというか便座だけど、その両端は微妙に大きさが違う。

 おそらく大きい方は大人用、小さい方は子供用。つまり――


 大人と子供の兼用おまる!


 間違いない!

 なぜなら大きい方には、この地方の言葉で『大人』。小さい方には『小人』と書いてある!

 アルファベットのような文字を使ってローマ字方式で書き記す方法だから、読み間違いようもない!

 ……なんて愚かなコンセプトなんだ。

 十徳ナイフならぬ二徳おまるだけど……まるで意味がない!

 こんな物を作らずとも、別々に大人用と子供用の二つ用意すれば解決する! 無駄に高そうな陶器製だし!

 どころか子供用が必要な期間なんて短い。発明するべきは子供用のアダプターだろう!

 いや、最大の問題点は――


 これへ嬉々として先代じいさんが大枚支払ったということか!


 嗚呼、もう本当にその死は惜しまれたに違いない。

 際物制作を専門とする芸術家たち――もはや詐欺師とすら言い難い――にとって、誰より理解のあるパトロンだったろうし。

 ……うん。ドゥリトル領が前衛アートの都とならなくて良かった。こんなんばっかり住み着いていたら、解消に十年はかかる。


 しかし、紛い物ばかりでもなかった。中には良品もある。

 例えば高級そうな布張りの箱へ収められているのは、なんとナイフコレクションだ。

 三本ほど恭しく並べてあるけれど、驚くことに鉄製だったりする! ……いや、もしかしたら鋼鉄か!?

 何を興奮しているのかと、首を捻られる方もおられるだろう。

 しかし、鉄や鋼鉄のが珍しい時代、その値段は同じ重さの金と同等だ。多少は一般化されてからも、同じ重さの銀と大差なかったりする。

 そして修練場にある実物でも青銅製――こっちの方が重く、練習で持たされるとガッカリする――が珍しくなかった。

 つまり、この時代は鉄製というだけで高級品といえる!

 売って資金にするもよし、都合良く本日の工具代わりにするもよしだ!


 他にもバスタブ――あの女子が憧れる猫脚バスタブなども、さすがは数寄者の集めた逸品と唸らせられる。

 ……これ一杯のお湯を用意するのに、どれだけ燃料が要るのか考えなければ。

 無造作に放置されたテーブルや椅子、物入れなども、よくよく観察してみれば全て高級品だ。

 ……デザインに難があるというか、一癖も二癖もあるのを無視すれば。

 あの銀の鍵はどこのだろう? カレーを注ぐ容器みたいなランプは……どこかの土産物か?

 見ているだけで啓蒙も高まりそうだし……きっと、いいものだろう!

 そんな乱雑なコレクションの中に、なぜか数本の銅管が積まれていた。


 ………………凄く不思議!


 いや、実のところ銅管ではないのか?

 僕は現代日本で銅管を目撃している。だから銅管と思ってしまっただけで……実は別の用途に使われて?

 太さは僕でも握れるぐらいだから――直径三、四センチぐらいだろうか。……この世界が地球と類似している前提で。

 僕は自分のことを人間の六歳児と考えているけれど、実際には巨人種の可能性もある。

 その場合はメートル単位となるだろうし……そもそも最初の三、四センチというのですら、僕個人の感想に過ぎない。正確性は皆無だろう。

 が、それでも現代日本から転生した感覚だと三、四センチだ!

 いや、実のところ転生を前提とするにも問題はあって、自分を転生者と思い込んでいるだけの一般人という可能性が残っていて――


 閑話休題とにかく

 話を戻せば、長さは僕の背丈より少し低い――一メートルぐらいだ。……これも感覚的にだけど。

 そこそこ丈夫そうだし、それなりに厚みもある。材料として十分だろう。

 大事なのは『何なのか?』や『何故あるのか?』ではなく、どう利用するかだし!

 これを厨房からチョロまかして――無断で永久に借りてきた木の樽と接続すれば、もう九割がた完成したも同然だ。

 そして都合が良いことに工具――鉄製のナイフもあったし。

 最初は樽の底へ穴を開ければよいだろう。銅管がピッタリ通るような感じで。


 しかし、あいにく倉庫の中は暗かった。

 とてもじゃないが作業なんて出来やしない。灯を持ってくるのも忘れてしまった。

 ……この時代の暗さは侮れない。どの程度かというと――

 全ての雨戸を閉め、電気を付けない場合に相当する!

 え? それじゃあ真っ暗だって?

 だから真っ暗なんだってば! 窓は無いか、あったとしてもガラス製ではないし!

 いまだって入り口や僅かな隙間から差し込む光しかない。


 もう言葉でなく身体で理解するしかなかった。

 僕達は陽の光と共に生きている。太陽こそ、全ての母だ。とにかくお日様すごい。

 そりゃ日食なんて起きたら大騒ぎになるし、世界各地で神話化するのも納得だ。

 ……ちなみに奇麗な日食――地上の一点と太陽の両端で描かれる三角形に月がピッタリと収まるのは、奇跡的な偶然に過ぎない。

 この点からも、この世界は過去の地球だと――


 閑話休題とにかく

 鉄のナイフ片手に銅管を何本か運び出し、外で作業を開始した。予定通りに樽の底、中心の辺りをナイフで掘るように削る。

 ……堅い。それも凄く。

 これは僕の力が足りない?

 ……十二分にあり得る話だ。なんせ六歳では、その腕力なんて高が知れてる。

 さらにナイフも鈍って?

 ……少なく見積もって数年は箱の中だ。防錆に油が使われていても、さすがに研がないと駄目か。

 今日のところはカバーするのに体重を使って、と思った瞬間――


 危うく指を詰めかけた!

 

 一瞬にして顔中から滝のような汗が流れだす。

 大丈夫。出血は免れた。薄皮一枚すら切れていない。

 でも、本当に危なかった!

 文明が古代や中世だろうと、現代と変わらない長寿も可能だ。理想的に事が進めば、この身体は百歳すら数えられる。

 逆にいうと指を一本でも無くしたら、下手したら続く九十年間も悔やむことに!

 ……横着してナイフを研がなかったことを? それとも力が弱かったと?

 いや、違う。

 注意深く生きなかったことをだ。

 「無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている」が許されるのは、人生の一周目までだろう。とてもじゃないけど運よく二周目へ突入した人間の振る舞いじゃなかった。

 力が弱かろうと、優れた道具が望めなかろうと……それで十分のはずだ。足りない分だけ回数を重ねれば済む。

 六歳にして大人の知恵を持つ――若さと老獪さが合わさり最強に見えるのが、僕の新しい長所なはずだ。

 そして欠点――肉体の未熟さを補ってこそ、その真価も発揮される。


 心を入れ替えて、地道に少しずつ削っていく。

 僕にとって、いつでも時間は味方なのだから。


 先に砥石を入手し、ナイフを研ぎ直すべきだろうか? それとも別の工具を?

 ……いや、難しい。問題点が幾つもある。

 なにより僕は無一文だ。

 ドゥリトル領のではなく僕個人の資産または予算というのも保全されている……らしかった。

 しかし、それだって自由に使えなければ所有しているといえない。

 それに現金が手元にあったところで、僕自身が城下へ降りて買い物とはいかなかった。おそらく城門を通して貰えない。

 ……六歳の御曹司が独りで出掛けようとしたら、それは『外出』でなく『脱走』と見做されるだろうし。


 もっと大きな問題点もある。

 おそらくドゥリトル城下に常設の商業施設は存在しない。週に一度だとか何週間毎などと決めて、広場へ市を立てる形式だろう。

 それでも有力な商人や職人なら、自分の店を構えている?

 さすがに朝市ぐらいは毎日だろうけど、それだと買えるのは生鮮食品だけ?

 ……セバスト爺やの授業を慎重に脱線させて、色々と聞き出す必要がありそうだ。

 これでは何か先代爺さんのコレクションを売って、その利益で欲しい物――砥石やら工具やらを買い求めようにも――


 いつ出掛ければいいのか? どこへ行けばいいのか? 誰が売っているのか?


 ……判らないことだらけだ。

 金銭を得るだけで解決しそうになかった。もう少し知恵を絞る必要がある。

 あと数年――城下へ遊びに行ける年齢まで我慢?

 サム義兄さんやダイ義姉さんなら、もう城外へ出るのが許されている?

 いや、ダイ義姉さんの性格なら、それはもう大喜びで自慢しに来るはずだ。嬉しそうな顔が目に浮かぶ。

 それが無いのだから年上の二人でも駄目で、あと三年は絶望?

 渾身の笑顔で母上におねだりすれば、希望も通るだろうけど……さすがに乱用は避けたい。大人の矜持の問題もある。

 だが、むこう五年は現状維持では、さすがに苦し過ぎ――


 などと考えていたところへ、大きな生き物が走り込んできた!


 最初は本当に大型の動物かなにかと思った。

 でも、そんなことが、あるはずがない!

 確かに先代じいさんの倉庫は城壁から近いといっても、河側――つまりは一番に奥ともいえる。

 なぜならドゥリトル河は、日本の感覚でいったら大河の部類だからだ。

 川幅は何十メートルもある上、城は緩くカーブした場所にあって水深も浅くはない。さらに川岸を利用し、防壁の高さも稼いでいる。

 高度な建築技術を持たなかった御先祖様達は、その分だけ知恵を絞ったのだろう。河沿いであっても、その設計思想は山城と同じだ。

 もう攻城兵器や船舶でもなれければ、突破は不可能といえた。城の河側は本当に安全といえて、野生動物が迷い込むようなことすらあり得ない。

 ……でなければ僕の生活圏――城主一家の領域とならないだろうし。


 つまり目撃できる動物は人間、犬、猫、ネズミ程度となる。

 ちなみにスズメなどの小鳥は、そう頻繁に近寄ってこない。住人の実益を兼ねた遊び相手とされるからだ。

 ……一石二鳥という言葉は、本当に鳥へ石を投げるから生まれている。


 とにかく話を戻せば……逃げ込んできた生き物は大きかったから、それは人間で確定だ。

 しかし、その顔に見覚えがない。名前が思い出せないのではなく、正真正銘に初見だ。

 けれど、それはそれで異常事態だったりする。


 僕はドゥリトル城で生まれて育った――まあ、正しくは転生した。

 そして一歩も外へ出たことがないから、城しか知らない訳だけど……その規模を勘違いしてはいけない。

 半分くらいは想像で補うしかないけれど……おそらくは城全体で、ちょっとした学校程度の大きさがある。もちろん、校庭も込みで。

 そこへ石造りの平屋――正確には床下が一階となっていて疑似的な二階建て――を何棟も建てている。当然、建物で構成される迷路もだ。

 ……建物自体を最後には、防壁の代わりとするためだろう。

 ちなみに領都ドゥリトルの住人だけで軽く一万人を超える規模らしい。

 有事の際は、その少なくとも半数を収容といったら、この城の大きさを想像してもらえるだろうか?


 けれど平時にあっては領主一家の住まいでもある。

 城内で働く人も、ほとんどが住み込みで……つまりは顔見知りだ。もう家族にも近いレベルで。

 ましてや領主一家の生活圏ともなれれば、そこは最重要地域といえる。

 余所者がウロウロしてたら目立つし、顔すら見たことのない人間が立ち入るはずもなかった。


 ……話を総合すると不審者か!? それも危険性のある!?


 いまこそ大声を上げるべきだった。

 男のプライドなんて、日本にいた頃から縁はない。どちらかというと陰キャで軟弱な現代っ子だったし!

 でも、その分だけ躊躇いによる尻込みはないと思って頂こう!

 震えてるぜ度胸ハート! 声枯れるほど絶叫ヒート! 刻むぞ悲鳴のビート!


 などと大口を開けた瞬間、思わず吹き出してしまった。

 茂みへ隠れた不審者は「お慈悲を!」とばかりに両手を組み、必死に嘆願していたからだ。

 ……もしかしたら安全な人間なのか?

 子供相手に大声を出すでなく、実力行使に出るでもなく……必死にお願い。

 大人の男――よくよくみてみれば、相手はおっさんだった――としてはアレだけど、違う意味では信用できそうだ。

 でも、なにから逃げていたんだろう? 僕も逃げないで平気だろうか?

 しかし、そんなことを思う間もなく、すぐに回答はもたらされた。


「御曹司! こんなところで何をなさって!?」

 と騎士ライダーのルーが兵士を引き連れてきたからだ。

 ……なるほど。逃亡者がいるのなら、追跡者もいるのが道理だ。どちらかだけでは成立しない。

「どうかしたの? 僕は……僕はここで、ダンゴ虫を探してたんだ!」

 可能な限りに子供っぽい声をだし、全力で惚ける。

 ごめんね、ルーさん! でも、この窮鳥おっさんは顔が面白いし……貴方がイケメンなのも悪い!


 領内最年少騎士ライダーであるルーは、腹が立つほどモテモテだ! それも老若男女問わず!

 そりゃ確かに若干十六歳にして騎士ライダー、さらには童顔ながら美形、髪だってフワフワの金髪で……嗚呼、イケメン死すべし! 慈悲は無い!

 そして早くに父親を亡くし、地位の相続で苦労してたりと……密かにサム義兄さんのアイドルでもある! なんでも見習うべき先達らしい!

 ちょっと苦労しただけで憧れられるとか、ズルくないですか!?

 それに緑の瞳とか、被ってんですけど! キャラ被りはNGって習わなかったの!?


 ……よし、ここは全力で面白い顔なおっさんを支援する!

 それが人の道というものだろう! 僕は悪くない!


「臨時雇いの人夫が奥へ迷い込んでまして――」

「馬鹿! そんなことを申し上げてどうする!」

 事情を説明しかけてくれた兵士を、ルーは一喝する。

 もちろん兵士の方が年上だけど、上下関係は騎士ライダーの方が遥かに高い。

 この世界の騎士ライダーは、将校と戦闘機パイロットを足して二で割らないぐらいの身分だろうか?

 軍事的には将として兵士の統率を期待され、さらには騎馬戦闘という特殊技能をも要求される。

 また、斯くあるべしと幼年の頃から仕込まれたスーパーエリートともいえるだろう。

 が、その輝ける戦場の華は困っていた。

「あー……不審な……そのー……見かけない大人は来ませんでした?」

 人目がなければ、幼児語ぐらいは使いだしたかもしれない。……いや、逆に荒い言葉使いだろうか。

「うーんとね……皆、見たことあるよ?」

 キョロキョロと引き連れている兵士達の方を確認する。もちろん、とだ。

「……こちらへ来てないのでは?」

「そうみたいだね」

 苦い顔でルーは兵士へと答える。

 しかし、一瞬だけ醒めきった目付きをしたのを隠しきれていなかった。


 僕しか知らないことだけど、ルーには二面性がある。

 ……いや、「誰だろうと裏の顔はある」と言い換えるべきか。

 長らく僕は、物言わぬ赤子と見做されていた。そして判らないだろうと思って、油断した姿を見せる者もいる。

 例えばダイ義姉さんは、顔を合わせたら憎まれ口ばかりだけど……僕が喋らなかった頃は、なにくれとなく様子を見てくれていた。

 ……喋れないのなら不満も口にできないはず。そんな風に考えたのかもしれない。


 同じように……いや、真逆なことにルーも、その隠している顔を僕に見せていた。

 いつもニコニコと微笑を浮かべ、パッキン童顔美少年然としたルーも……独りの時は無表情となる。

 しかし、それは酷薄そうで……無機質な冷たさを感じさせた。その名が示す通りにルーのような怖さをも。

 だが、それは咎めるに当たらない。

 少年の頃に覚えた処世術なのかもしれないし、歳の割には苦労しているのも事実だろう。

 ただ、その本質が冷静な武闘派というだけで、小動物じみた外見を裏切っている。それだけの話とも思う。


 でも、僕は心を開かないけどね!

 少なくともダイ義姉さんとエステルに好感を持たれているうちは駄目だ!

 あとサム義兄さんが、お手本と考え続ける限り!

 それに領内一の美少年ポジションも渡さない! ほぼ唯一の取り柄なんだから!


 ……などと思いを新たにしながら、立ち去るルー達を見送った。

 後には面白い顔のおっさんと僕だけが残されるけれど……なにかサービスしてやる流れでもない。このまま放っておけば、勝手にするだろう。

 そう判断し、再び作業を続けることにした。


 欲張らず少しずつ、やる。

 これが一番大事だ。

 ゴールばかりを考えていたら、とても積み上げる気にはなれない。それでは萎えてしまう。


 ただ一動作だけ、やる。

 ……あまり上手くはいかなかった。

 しかし、それでも怪我はしないで済む。捗らなくとも、それこそが最優先だろう。


 負けない限り、いつまでだって続けられる。小さい勝ちであろうと、積み上げれば大きな山と化す。

 結局のところ最後に到達した人生の結論はであり、僕の中身は経験豊富な大人だ。

 どれだけ忍耐力が要ろうと、淡々と作業を続け――


 られる訳もなく、大声で喚きだしたくなってきた!


 なんなの、この桶! 堅すぎるんですけど! 誰だよ、これを選んだ奴は!

 それに刃物が鉄製といったところで、ようするに普通のナイフでしかない! ギブミー電動工具!

 と天を仰ぎかけたら、いつのまにか面白い顔のおっさんが作業を見ていた。

「なんだよ、変な顔して! 笑いたければ笑えばいいだろ!」

「あー……若様? そのー……木目に逆らって刃を当てるから、思う様に削れねえんですよ」

 意外なことに面白い顔のおっさんは、それっぽいアドバイスをしてきた。

 木目に逆らわない? ということは木目に沿って彫ればいいのかな?

 ……面白いほどにゴリっと削れた。当社比数倍だ。

「おお! 本当だ!」

「あっ……若様! そんな風に力を籠めたら危ねえです! それに削れ過ぎじゃ?」

 慌てて銅管を宛がうと……言われた通りで削り過ぎだった。

「いや、ほら! もう一回カーブを削り直せば! 真中からはズレちゃうけど……そんな大問題でもないし!」

「そのー……よかったら、あっしが代わりやしょうか? 若様は……あー……まだお小さいようですし?」

 僕が本当に幼児だったら、逆にムキになるようなことを言う。

 しかし、酸いも甘いも噛み分けた大人は、この程度のことを気にしない!

「おお、グッドアイデア! ちょっとやって見せてよ!」

「任せて下せぇ! あっしはこれでも、若い頃は大工の棟梁だったんでさぁ!」

 などと面白い顔のおっさんは、調子に乗ってホラまで吹きだした。

 ……賭けてもいい。これは嘘だ。

 が、そんな細かいことにツッコミを入れていたら、この面白い顔のおっさんも困るに違いない。ここは広い心を以て聞き流そう。

「しかし……ご領主の息子さんともなると、ご立派な刃物をお持ちなんですねぇ」

 そして僕の使っていたナイフを、面白い顔のおっさんが手にした瞬間――


 やっと危険に目が覚めた!


 ヤバい! これは凄く迂闊な振舞いだった!

 すでに述べた通り、鉄製品は高価だ。ナイフ一本で金貨数枚は――日本の貨幣価値で十万円は下らない。

 さらに三本もある訳だから、これだけで少なくとも一、二ヵ月分の収入にも匹敵する。

 もう『カモがネギ背負ってやってきた』より酷い!

 それこそ僕をなんとかするなんて、赤子の手を捻るより簡単だろう。実際に幼児なんだし!

 さらに現代日本でもない! ここは力の掟が罷り通る荒々しい世界だ!


 いますぐ走りだせ! そして大声を上げる! それで助かるかも――


 しかし、踏ん切りをつける寸前、面白い顔のおっさんは作業を開始していた。

「この銅管が通れば――この桶へつないでやれば宜しいんで?」

 などと太平楽な様子だ。

 これは強盗の濡れ衣を着せられる寸前だったと、毛ほども思ってないだろう。

 どうやら顔が面白いだけでなく、安全な部類の人物でもあるらしい。……少しだけ暢気過ぎるけど。

「……うん。とりあえず、それから次を考えるつもりだったんだ。――名前は? 僕はリュカだよ」

「ああ、やっぱり! リュカ様でございましたか! あっしはジュゼッペでと申しますです、はい!」

 名乗り返してきたけれど、しかし……妙に嬉しそうだ。

 僕のことを知っていた?

 いや、貴族の幼児といったら数えられるぐらいだし、さすがに僕ぐらいは――

 違う。考えてみれば、かなり名の売れている部類か。なんといっても『神の国から魂が帰ってきた子供』だし。

 とにかく――


 これが僕とお調子者ジュゼッペとの出会いとなる。


 ジュゼッペという男は、すでに説明した通りにおっさんだ。

 年の頃は、逆立ちしても二十代とサバを読めない感じで……なんというか泣ける。

 もう正々堂々、真っ当にくたびれている。どう足掻いても三十路以上。紛れもなく――


 おっさんだ!


 しかも家庭人としての風格や落ち着きは皆無で、問答無用に「嗚呼、こいつ独身だな」と悟らせてくる。

 例えば下手糞に継ぎを当てられた服は、時代平均で考えたら普通なのに……なぜか独り者の悲哀をひしひしと感じさせた。

 「奥さん、裁縫が下手なのかな?」とか「愛娘が頑張った?」などの推察より先に……「誰もやってくれないんだろうなぁ」と想像できるからだ。


 おお、哀れ!


 だが、それを僕とて嘲笑っていた訳ではない。

 むしろ逆だ。身につまされていた。

 おそらく前世での僕は――現代日本にいたころの僕は、おっさんだ。それも独身で冴えない感じの。中年と呼ばれるような年齢に、少なくとも片足はツッコんでいる。

 それを理屈でなく、魂で判らさせられた。

 なぜなら――


 ジュゼッペに強いシンパシーを感じてしまったから!


 男子校出身の者は、自らと同じ社会不適合者だんしこうしゅっしんを見抜く!

 それは立ち振る舞いや言葉遣い、目線など……様々なことから、まるで臭い立つかのようだから!

 これは女子校出身者も同様と聞く。同性愛者など、社会から虐げられがちな立場の人々も似たようなものだろう。

 だが、若者達よ、恐れるがよい!


 それはいい歳して独身おっさんも同様だ!


 いい歳して独身の中年は……同類を見抜く! 感知できるようになってしまう! それは闇を彷徨うものダークストカーが、眷属を臭いで察知するにも似て!

 これは男だけではない。ある種の独身な貴腐人は、例外なく同胞を見分けるという。……その擬態が完全なものであってもだ!



 そんな『独身中年となっちまった悲しみに』浸っていたら、いつの間にやらジュゼッペは作業を終えていた。

「これでどうでしょう、若様?」

 そう言いながら、銅管をあけた穴へ抜き差ししている。

 ……あれ? そういえばさっき、ジュゼッペは銅管を銅管と呼んでなかったか?

 つまり、この世界の人も銅管を銅管と認識している?

「あっ、うん。それで……どうしよう? 銅管をくっ付けたいんだけど……」

「こう……下へピタッとですかい?」

 やっぱり、なんだか変な奴だ。

 僕側にシンパシーがあるのを差っ引いても、なんというか……少し言動が変に思える。どうしてだろう?

 しかし、それを考える間にもジュゼッペは何度も頷きながら――

「なら、こうするんでさぁ!」

 と答えるや、その辺に落ちていた丸い石を銅管へグイグイと押し込み始める。

 あっという間に銅管の片側は、まるでラッパのように開いた。

「こうやっといて穴の方も形を合わせれば……引っ掛かって落ちなくなるって寸法でさぁ」

 と樽へ開けた穴の縁を、内側からラッパに合わせる感じで斜めに削り直す。

 ……面白い顔なのに、けっこう賢い!?

「あとは釘が二、三本もあれば……ありやすか?」

「く、釘?」

 問われて初めて気づいた。

 鉄製品が――というより金属製品全般は、どれもこれもが貴重品だ。

 そもそも金銀に次ぐほど希少、さらには有用だから『銅貨』という概念が産まれている。地域によっては『鉄貨』すら!

 よって銅製、青銅製、鉄製の種類を問わず、釘などの小物すら高級品といえた。

「こ、今回は! ……あっしの持ち合わせたのを……使うとしやしょう」

 苦渋の選択といった体でジュゼッペは、懐から折りたたまれた手拭いを取り出す。

 それを開くと、なんと数本の釘が!


 金色に近い輝きだったから、青銅製だろうか? ……厳密には黄銅?

 つまりは錫が混ぜてあるわけで、それだけで同じ重さの銅より高くなる。

 さらに道具として加工してある分、より価値が認められるから……この釘一本が最低でも銅貨一枚ぐらい。下手したら数枚の価値となる。

 おそらく見栄もあるだろうけど、今日初めて会った子供の遊びに供じるのは業腹だろう。そりゃ顔だって面白く歪む。

 そして大工の『棟梁』というのはともかく、元大工というのは信じてやるべきか?

 たまたま釘を持ち歩いていたなんて、大工か元大工でもなければあり得そうにもない。


「ちゃんと釘の代金!――は持ち合わせがないけど……そうだ! この銅管を一本! この銅管を一本あげるから!」

「え? いいんですかい? これだって潰せば銅貨数枚分にはなりやすよ?」

 ……それもそうか。

 僕の管理下にあるとはいえ、この銅管ですら幼児の玩具には高価過ぎた。

 しかし、ジュゼッペの手間賃など考えたら妥当な範囲だろう。

「いいから! この銅管は僕のだから問題ないんだ! それより続けよう!」

「そ、そうなんですかい? でも……まあ……そう若様が仰るのなら……」

 押し切ってみたら、意外にも素直に納得してくれた。

 ……うーん? 身分差に遠慮しているとしても、微妙に違和感は覚える。どうしてだろう?


 そんなことを考えている間にも、ジュゼッペはサクサクと作業を進めていた。

 ナイフで銅管へ作ったラッパ部分へ、として十字に傷を彫り、トンカチが無いので石を代用に釘を打ち込む。

 ……なんとも見事だ。元大工か、なんらかの職人だったは確実か。

 でも、なぜそれが臨時雇いの人夫に?

 職業に貴賤は無いといっても、やはり転落ではあるだろう。大工の棟梁などは、スーパーエリートの部類だし。

「………………やらかしちゃった?」

「いや、それがですね! 中庭……中庭っていうんですかい? とにかく――あっしはそちらの方で雑用を言い付けられたんですが……シトの木が生えてるじゃありませんか!」

 ……シトの木? ああ、レモンの木か。

 それに思わず漏れた独り言も、ルーに追われていた理由を質されたと勘違いしたらしい。

「あの黄色い実をみたら、口の中は唾だらけで……こりゃ一つご相伴に預かろうと!」

「え? そりゃ駄目でしょ!? 確かに中庭から見えはするけど……レモンの木が生えてるのは、もう奥だもの。臨時雇いの人夫さんじゃ――」

「若様の仰る通りで! 見つかって騎士ライダーの兄さんはカンカンになりますし、兵士の奴らもゾロゾロと……もしかしたら酷く折檻されるかなぁと、えへへ……」

 などと笑っているが、どう考えても大問題だ。

 もう自業自得ともいえるけれど……なんというか暢気な奴だなぁ。


「――と、できましたぜ、若様! でも……手水ちょうず桶にしちゃ、少し長すぎませんか?」

「手水桶? なんだい、それ?」

「……え? 手水桶ってのは……その……こう手を……」

 と説明を加えながら桶を掲げ、底から伸びる銅管を激しく上へ叩くような動きをした。

 ……見たことあるかもしれない。現代日本で。

 公衆のトイレなどでは石鹸水を入れるアレ。あれの水版だろうか?

 下からストッパーを押し上げると中身が出て、止める時は水圧を利用して栓とする。あの道具だ。

「いいね! その……手水桶?」

「手水桶を作ってたんじゃないんですかい!? でも、便利な道具で……帝国の方だと、裕福な家では見かけたもんでさぁ」

 なるほど。ジュゼッペは帝国へ行ったことがあるのか。それでレモンも知っていたのだろう。

 そして手水桶を作っていると思ったから、僕の挙動も変とは思わなかったらしい。

「いや、それも作ろう。でも、次にかな。これは手水桶じゃないんだ。これは――うん? この繋目の隙間はどうしよう?」

「それは溶かしたロウか鉛で埋めちまえば良いんでさぁ! ……ロウはありやすか?」

「……ない。こんど持ってくる」

 我ながら酷い泥縄だ。

 もしかしたらジュゼッペがいなかったら、全然進展しなかった可能性も?

「それより、もっと長さが要るんだ。銅管同士を――」

 ……どう繋げればいいんだろう?

 しばらく悩んでいると――

「わ、若様? その……逆です! 逆!」

 とジュゼッペが外聞を憚るような小声で指摘してきた。

 でも、逆? とにかく言われたまま管の前後を引っ繰り返すと――


 すっぽりと管が管へと入った!


 一見真っ直ぐに見える銅管だけど……片方の端は僅かに太く、逆側は僅かに細くしてある!

 つまり、お手互い同士を差し合う設計だった訳だ。

「なるほど。こうやって長くしていくんだ?」

 面白くなったので何本か繋げていたら――

「若様! くっ付けるのなら酢で洗わないと!」

 とジュゼッペが注意してきた。

 酢で洗う? 銅を酢で洗って……嗚呼、酢酸か! でも、接続部分を酸で洗浄し?

「酢で洗うと?」

「錆びるんでさぁ」

 確かに銅を酸で洗浄すると、酸化膜の無くなった銅は再び酸化――つまりは錆びる。しかし?

「錆びると?」

「錆がノリの代わりになりますし、水漏れも防いでくれると」

 ……なるほど! そりゃそうだ。

「詳しいね、大工の棟梁?」

「実はあっしのひい爺さんが、帝国で配管工だったんでさぁ!」

 確かに古代ローマでは、銅や鉛を利用した水道設備があったという。

 だが、それには施工する職人も存在しなければならない。当然に専門技術も!

「本当は酢で洗ってから、溶かした銀を吸わせてやるのが一番……らしいですぜ?」

「吸わせる?」

「ひい爺さんがいうには……配管の隙間は銀を吸う……と」

 答えるジュゼッペは自信なさげだ。

 しかし、現代日本人には意味が通じる。おそらく毛細管現象のことだろう。

「でも高くて使えなけりゃ、酢で洗って包帯を巻いとけば十分だって言ってましたぜ? そのうち良い塩梅に錆びるでしょうし?」

 確かに高圧を掛けるのでなければ、それで用は足りる。どころか数気圧だろうと保ちかねない。

「って! 最初から銅管のこと銅管だと思っていた訳!?」

「そりゃ銅管ですし? さすがに、ここら辺りじゃ珍しいでしょうけど」

 と逆に、不思議そうな顔で返された。

 でも、この時代の配管工とかレア中のレアでは? いやジュゼッペ本人がではないけれど。


「ちなみに……この後、銅管をカーブさせたいんだ。やり方は判る?」

「ひい爺さんに聞いたやり方で宜しけりゃ。難しく考えないで、こうやって好きな曲がり具合へ?」

 と言いながら、ジュゼッペは銅管を力技で曲げ始めた。

 そりゃそうだ! 銅製だもの! 曲げようと思えば曲げられる!

「嗚呼、スイッチ! よく考えたら、出したり止めたりするスイッチも要るんだ! ……言ってる意味は判る?」

「水を止めたり出したりしたいんで? それはバルブ?ってのが要るかと。さすがにあっしも見たことはないですけど」

 バルブ! 言われて思い出した!

 古代ローマは上下水道で有名だけど、当時の配管やバルブなども現存している! その写真を見た覚えもあるくらいだ!

 ……この銅管と一緒に転がっていた銅製の何かは……ひょっとして?

 それにどうして先代じいさんの倉庫に銅管があったのか、唐突に判ってしまった!

 帝国で文明の最先端とされる配管建材一式。

 それは新しモノ好きの先代じいさんには、たまらなく魅力的に映ったのだろう。……使う当てもないのに。


「とりあえず倉庫! 一緒に倉庫へ行こう! たぶんバルブはあるけど、それを一緒に探して! 他にも有用な材料とか道具とかあるかもしれないし!」

「いいんですかい? あっしが建物の中へお伺いしても?」

「大丈夫! 御爺様の倉庫は、僕の管理下だから!」

 とジュゼッペを案内することにした。

 どのみち僕だけでは『大人と子供の兼用おまる』も運べない。もはや天の配剤といいたいほどジュゼッペの存在は助かる。

「とりあえずバルブ? あとロウか蝋燭? それに酢? ……古くなったワインでも転がってないかな。いや……それこそレモンの絞り汁でもいいのか」

「シトの実ですかい? 少しなら頂いておりやすぜ?」

 どうやら抜け目なく獲物は確保していたらしい。

「じゃあ、一つ分けて。なら……絞り汁を入れる容器かな? あと洗った後に使う包帯用の布も――」

「一つ、あっしに残していただけりゃ。もともと若様のお家のですし。包帯は、あっしの手拭いを裂いても?」

 相談しながら二人で倉庫を目指す。

 うん、やっぱりジュゼッペは話しやすく感じる。

 おっさんシンパシーを覚えるのもあるけど……僕を子供扱いしてこないのも、気楽に感じる原因だろうか?

 しかし、『神の国から魂が帰ってきた子供』が相手であろうと、やっぱり大人としては妙だ。

 ……つまるところ変わり者なのかな?


 案の定、倉庫で銅管のあった辺りを探すと、バルブが何個か発見された。

 ただ、これを一目でバルブと判断できなくても仕方がないだろう。

 大雑把に説明すると、短い銅管同士が直角に交差した形状で、現代日本人が連想する蛇口やバルブとは全く異なっている。

 そして交差している片方の内部にはピッタリしたサイズの円柱が入っていて、それを外側から回転させる仕組みだ。

 この円柱自身に穴があけられていて、その穴と交差している管が平行な時は水を通す。

 逆に穴と管が九十度の角度だったら、円柱自身が水を堰き止める。

 ……これ、もう少し洗練させたらボールバルブかも?


 それに猫脚のバスタブを見たジュゼッペは、大興奮だった。……お前はOLか!

 なんでも銅管は、このバスタブへの給湯用だという。

 どこかにボイラーもあるはずだから、ぜひとも完成させるべきらしい。

 ……配管工だったひい爺さんの影響で、配管工事に憧れてるのかな?


 ついでに使い掛けの蝋燭、そこそこ高そうな湯飲み数客、作業に便利そうな梯子なども発見した。

 さらにジュゼッペを宥めすかしながら、『大人と子供の兼用おまる』を表へと運び出してもらう。

 ……ほとんど必要なものは揃った?



 などと考える間もなく、ハイピッチで作業は進んだ。

 いまや二、三メートルの高さに吊るした桶から銅管は真っ直ぐと伸び下がり、暫定措置として真横へ曲がって終わっていた。

 もちろん樽と銅管の接続部分はロウで隙間を塞ぎ、配管の途中にバルブを入れてある。

 そして我慢しきれなくて……近くの井戸から水を汲んできて、いまはテストの真っ最中だ。


 バルブを開ける。

 すると水が、でろんと出た。

 思ったよりも水量がある。でも、勢いそのものは弱いか?

 ……うーん? これだとイメージと違う。

 ウォシュレットというのは、ストローほどの太さでビューと出るべきだろう。

 これでは太巻きサイズだ。勢いも、でろんとした感じで弱い。弱すぎる。


「最後が太すぎるんだな。水鉄砲は穴が小さい方がイキオイよく遠くまで飛ぶ……つまり穴を小さくしないと……」

「……なんなんです、こりゃ? あっし達は一体全体……何を作っているんで?」

 僕が首を捻っていると、ジュゼッペから当然すぎる質問が飛んだ。

「ウォシュレットというのだけど……なんと説明すれば……完成品を見て貰えば、ほとんど一目瞭然なんだけど……」

「なるほど? まあ、なんでも現物を見るのが一番とは言いやすね。それで最後に細くしたいんですかい?」

 ここで根掘り葉掘り聞いてこない距離感が、ジュゼッペの都合が良いところで……奇妙なところかもしれない。

「うん。できたら小枝ほどの太さに絞りたいのだけど」

「ふうむ。細くするのは難しくとも何ともないですぜ? でも、そこから先へ繋ぐのは難しくて――」

「え? 本当? そこで終点だから、もう先は考えなくていいんだ!」

「じゃあ、やってみせましょうか? あー……もし駄目だと、銅管が一本無駄に――」

「問題ない、問題ない! もし間違ってても、それはそれでしょうがないから!」

 と請け合ったら、渋々な感じでジュゼッペは作業を開始した。

 それは――


 銅管の先へ小枝を挟み、ペッタンこに潰してしまう方法だった!


 ……賢い!

 これなら小枝の分だけ空間は開いたままに――要するに管を細くできる! さらには念の為とばかりに、ペッタンこにした隅を三角に折り曲げていた。

「あっ! 先に内側をシトの汁で洗っておくんだった!」

 それもそうか。そうしておけば潰した部分の隙間も錆で埋まる。

「いや、もうしょうがないよ。元には戻せないよね? それより結果が見たい!」

「そうですか? では――」

 と桶から伸びた配管へ仮に繋ぐと――


 凄い勢いだった!


 最終的に重力へ逆らう――大きく勢い失うとしても、これなら十分すぎる!

 あとは『大人と子供の兼用おまる』の子供用側から下斜めの角度で侵入し、そこから上へ鋭角に戻れば!

 ……最後の鋭角に至っては、先っぽを潰しているからこそ描ける角度かもしれないし!

 大興奮で身振り手振り、地面へ絵を描いたり、実物の近くで想定の経路をジェスチャーしたり――

 とにかく全力で最終形を伝える!

 ……不思議な距離感のジュゼッペでもなければ、ドン引きしていたかもしれない。


 が、苦労の甲斐もあって意図は伝わり、あっという間にウォシュレットは完成した!

 まず壁へ樽が掛けられ、そこから真っ直ぐに配管が垂れ下がる。

 それは急な角度で『大人と子供の兼用おまる』の子供用の部分へ突入し、すぐさま急角度で折り返す。

 もちろん、途中で腰の高さほどな位置へバルブが差し込まれていて、それの開け閉めがスイッチだ。


 逸る気持ちを抑えきれず、試運転としてバルブを開けてみた。

 おまるの大人用の部分の辺りで水流が放物線を描く!

 嗚呼、なんて美しいラインなんだろう! 心が洗われる様だ! まあ、お尻も洗ってくれるけど!


 などと感動していたら――

「結局、なんなんです? 出来上がったのは、おまるで?」

 とジュゼッペは不審そうにしていた。

 ……うーん? なんと説明すれば伝わるんだ?

「おまるだけど! おまるだけど、ただのおまるじゃないんだ! これは……水で洗ってくれるんだよ!」

 と素直に説明してみたら、とんでもない対応をしやがった!

「……なる……ほど? よく判らねぇですけど……では、ちょっと失礼をば――」

 そういうや否や、いきなりズボンを脱いでおまるへ跨ったのだ! いや、試運転としては間違ってないけど!

 さらに止める間もなく――

「これでバルブを開けるんで?」

 と身体を捻って背中側のバルブを開けてしまった。

 ……うん?

 出したり止めたりする度に身体を捻るのでは、道具として不合理だ。おまるに跨った体勢で、楽に操作可能とするべきだろう。

 なるほど。やはり試運転というのは重要だと頷く間もなく――

「んほーっ! なんでしゅか、これ! わかしゃまぁー!」

 と汚い嬌声が上がる。

「いや、馬鹿! 止めればいいだろ! 早く!」

「でもバリュブぎゃ……バリュブは後ろで………………嗚呼、若様っ! 見ないでくだせえ!」

 その断末魔と共に、僕とジュゼッペは臭い仲となってしまった。


 ………………ちくせう!

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