9-4 夜は更けゆく
旅渡券発行の手続きは本当に簡単で、ほとんど待たされることもなくセロアに一枚の紙切れが手渡された。礼を述べ部屋に戻れば、待ち構えていたルベルはそれを掻っ攫って部屋を飛び出し行ってしまった。
それを見送りつつ、この先の道程にセロアは思いを馳せる。
元々鷹揚なお国柄だからか、協力を約束してからの女王は寛大だった。旅渡券だけでなく、航海に必要な船と必需品を用意してくれると約束してくれたのだ。
セロアとしては、ただ甘えるわけにもいかないので費用は払うつもりでいたが。
それでも自力で全部を揃えるより、質も効率も遥かに良いと期待できそうだ。それには感謝してもし切れない。
ふと、何気なく目を向けた窓の外。月と星を隠す厚い雲の下に濃く満ちる雨の気配を感じて、セロアは立ち上がる。明日は出航の日でもあるし、晴れて欲しいのが本音だが。
留め具を外し窓を開け放つと、湿った風が頬を撫でた。肩に乗った白い生き物がふわふわの毛をしおれさせながら、もぞもぞと動いている。
夜光遮られた中庭に微かな衣擦れの音。一瞬どきりとして窓枠に手を掛けるが、現れた人物を見てセロアの指から緊張が抜けた。
一対の翼を背負った
「……お帰りになったのだと思ってましたよ」
賢者の静かな言葉に、
「一度は帰ったんですが。黒曜様のことも気になりましたので、来てみたんです」
「私は来る気はなかったのだが」
平坦な抑揚で言い重ねる、白き賢者。興味ない風を装っていても、それが本音なら来るはずがないだろうことは、わずかな交流からでもセロアは気づいていた。
「そうですか。女王様と話すことはできたんですか?」
尋ねると、シェルシャは柔らかく笑って首を振った。
「いいえ、まだ勤めをなさってるみたいで。カミル様が中には入りたくないと言うから、どうしようかと思っていたんですよ」
さらりと暴露され、カミルは紅い双眸で彼を睨む。無論シェルシャは動じる様子もなかったが。
「それならここに居てはいかがですか?」
「そうだな。そうさせて貰おうか」
何気ないセロアの誘いにカミルは即座に応じ、瞬時に––––おそらく転移で室内に移動した。その素早さに呆気にとられるセロアの方へ、薄い笑みを向けて言う。
「喰う気はないから安心しろ」
冗談か本気か声音からは判断しかねたが、今さら襲ったところで面倒なだけだろうしと思ってセロアは笑顔を返す。
「ええ、心配してません。私も少し話したいと思ってましたから」
「そうか」
ひどく自然な動作で白き賢者はベッドをソファ替わりにして腰掛け、中庭に立つシェルシャに視線を向けた。
「そういう事になった」
「解りました。じゃ、用が済んだら来ますから」
シェルシャもあっさり応じて、闇の向こうへと歩き去ってしまった。
「雨の気配はするが、朝には晴れるだろうよ」
シェルシャを見送って窓の外を眺めていたセロアの背中に、唐突な台詞が投げかけられた。思わず振り返り見た視界で、白き賢者は相変わらずの曲者な笑みを浮かべて彼を見ている。
「……ありがとうございます」
なぜ、なのだろう。
今まで感じなかったわけではない、今さらな疑問が胸に迫り上がる。
「黒曜は手抜きの嫌いな性格だ。少なくとも結界を越えるまでは、航海に伴う危険を考える必要はないさ」
淡々と語る言葉に時折滲む柔らかさ。
思えばここに来た最初の日から、彼はずっと城に居座り、彼でなければ知り得ぬ情報を分け与え続けてくれた。
––––なぜ、彼は。
レジオーラ卿がライヴァンへ戻ると利益があるとか、単に面白そうだからとか、理由は幾らでも思いつく。だがあくまでそれらは推量の領域だ。
だからこの衝動は、好奇心だ。
昔から時と場所を弁えずに湧き上がる、困った性癖だ。
セロアは口元を緩ませる。
彼らと会うのはもう最後になるかもしれないのだ、玉砕するのも悪くない。口をついたのはそんな悪戯心だった。
「気象予測の観点からすれば明け方頃から雨になりそうですが。覆すおつもりですか?」
白い
「なぜそこまで、あの子のためにしてくれるのですか?」
直球で投げた問いに、カミルは頬を緩めた。
紅い両眼が瞬き、視線が逸らされる。
「理由を知る事に意味があるのか」
問い返すというより独白に近い抑揚で彼は呟き、立ち上がった。黙って答えを待つセロアに背を向け、しばしの沈黙が二人の間を流れる。
「世界の理は、人の為に在るべきものだろう」
静かに張り詰める静寂を先に破ったのは、カミルだ。
振り返り見る双眸がすうっと細くなる。
「それが答えですか?」
「私の答えがおまえに意味を持つとは思えぬな、セロア=フォンルージュ。賢者ならば、己の持つ力の遣い方を一生涯かけて追求してみてはどうだ」
はぐらかされたとも取れる返答を、セロアは瞑目し思い巡らせた。
底知れぬ力も膨大な知識も、ただ安穏と生きていて得られるものではないと、賢者を志すセロアは何より実感として思い知っている。
––––確かに、彼の答えに興味は覚えても、自分にとって意味があるとは言えない。
ルベルに手を貸すことは自分の目的に一致するのだと、でもそれが好悪からか利害からかまでを教えるつもりはないと、そういう意味なのだろうか。
勝手にそう結論づけてセロアは納得することにした。
食い下がったところで哲学的な方向に持っていかれるだけで、……それはそれで面白そうだが今はその時ではない。
「そうですね。無事に戻ったら、考えてみます」
そこで、こんこん、と部屋がノックされた。
「––––あ、はい。開いてますよ」
声を返すと、ドアがそろそろと開いてアルエスとフリックが遠慮がちに入ってきた。アルエスが
「取って喰ったりはしないよ」
からかう口調に当然アルエスは固まり、フリックが焦ったように声を上げる。
「うっわぁー大賢者サマっ、笑えない冗談言うのやめて欲しいなッ、あはは」
「笑ってるじゃないか」
元凶のくせにカミルは突っ込み、あはあはと頭を描くフリックの横でアルエスは膨れっ面で呟く。
「ホント、笑いごとじゃないですよぅ」
セロアは苦笑しつつ彼女の傍まで行って、無造作に頭に手を乗せた。
「悪気はないので、気にしないのがいいですね」
長身長衣のセロアに視界を遮られ、アルエスからはカミルの姿が見えなくなる。
カミルは軽く眉を上げ、腕を組んで窓枠にもたれた姿勢で言った。
「笑えない冗談を笑い事にするな、フリック=ロップ」
「うへっ? スイマセ……ってなんでオレ!?」
ウサギのゴメンナサイは八割がた条件反射だろう。人騒がせな大賢者に怒る気も失せて、アルエスは気を取り直しセロアを見上げた。
「リンちゃんが一緒に行けるって聞いたから、それを伝えようと思ってっ」
「そうなんですか。本当に、有難いことですね」
「いやさー、一時はどうなるかと思ったけどなっ。大賢者サマもありがとなー!」
にこにこ答えるセロアの横でテンション高く仰け反るフリックに、カミルが薄い笑みを向ける。
「今日はやけに強気だな」
「ぅえッ!? ……そんなことナイっすよー? やだなぁもう、大賢者サマってば」
一気に挙動不審になって声まで裏返るフリックに、アルエスがセロアの陰からこそりと囁いた。
「ウサギお兄さん、本返さなくていいの?」
「あっそうそう! アルちゃんナイスフォローだぜっ。えーっと、コレ、ありがとうございました」
強気な態度とは裏腹におずおず差し出された本を、カミルは受け取り、血色の双眸で彼を見返す。
「どうだ、役には立ったか?」
「あ、っハイ。すげぇ役立ちましたー、嘘じゃないよー?」
「そうか。有り難みの感じられない言葉だが、まあいいだろう」
「ええっ? だから、感謝してますってばーッ」
額に冷や汗状態のフリックと、怖々それを眺めているアルエス、そして笑んだままのカミルの表情を見て、セロアは先程得られなかった答えを確信していた。
間違いない。白き賢者は子どもが好きなのだ。……アルエスやフリックを子どもと言っていいかはともかくとしても。
世界の理は人の為に。そう呟いた彼は、自分の中ですでに答えを得ているに違いない。だが方法については、どうなのだろうか。
もしかしたら今もまだ探している最中なのかもしれない。
「いよいよですね」
溜息を吐き出すようなセロアの言葉にカミルが視線を傾ける。
「幸運を祈るよ」
「あはっ、オレってばアンラッキーだけどなー」
すかさず飛び出したフリックの自虐発言にアルエスが吹き出した。
カミルはフリックを軽く睨みつける。
「ほう、私が祈った幸運を凌駕する不運スキルか。なかなかの度胸だな」
「いやいやいや、滅相もないっすよっ」
「っていうより、ウサギお兄さん意味わかんないからっ」
カミルに威嚇されアルエスに大笑いされ、当のフリックも一緒に笑って誤魔化している。危険の多い旅を控えた前夜にしては、いささかお気楽すぎる光景かもしれなかったが。
いよいよなのだという実感こそがこの高揚感の正体なら、それも仕方ないことだろうとセロアは思う。
結局迎えが来るまでの時間、セロアたち三人はこの世界屈指の危険人物と賑やかに歓談しながら夜を過ごしたのだった。
+++
精霊が、ざわついている。
誰かが彼らに働きかけて万象の理に手を加えたらしい。––––心当たりは言わずもがな、だが。
彼の心理を理解できないわけではない。
自分と近しい願いを抱える少女に、自分が望みを託した少女に、力を貸すということが何を意味しているのか––––解らないなんて子ども染みた言い訳を、するつもりはない。
だけれどそれを素直に感謝するには、自分はあまりに多くを知りすぎている。
今日最後の書類に判を押し執務室の明かりを落とした頃には、もう日付が変わろうとしていた。
手燭に持ち替え廊下へ出た黒曜姫は、明かりの灯った壁際に
「……
拍動が上がって声がわずかに震えた。
今が深夜で廊下が薄暗くて良かった。そうでなければ、頰に差した熱を気づかれてしまっただろう。
彼は優しく笑んで、黒曜を見返し言った。
「お疲れさまです、黒曜姫様。遅い時間ですが、少し庭で話しませんか?」
何の話だろうとか、いつも一緒の連れはどこにとか、気になることはたくさんあるのに、うまく言葉が出てこない。
俯く彼女に歩き寄り、シェルシャは右手を差し出してにこりと笑った。
「たまには二人きりで話すのもいいでしょう?」
その誘いの引力を黒曜が拒めるはずがなかった。彼女は息を詰めて頷き、彼の手に自分が携えていた明かりを手渡す。
シェルシャは一瞬だけ不思議そうに視線を落としたが、何も言わずそれを受け取って歩き出した。
差し出されたてのひらに、躊躇いなく自分の手を重ねるほどには子どもになれず。
かといって、想いを押し殺し器用に立ち回るほどには大人になりきれない自分が嫌で、複雑な胸中のまま黒曜はシェルシャの後に随い庭に出る。
空には銀月と銀砂の星辰。夜光を照り返す黒水晶の噴水まで行くと、シェルシャは手に持っていた明かりを近くの樹に掛け、足を止めた。
「カミル様は、しっかり叱っておきましたよ」
振り向きざまに笑いながらそう報告されて、黒曜は一瞬絶句し、そして声を上げる。
「なんの話ですのっ」
「あまり黒曜様をいじめては駄目ですよ、って。年齢ばかり重ねて、いまだに子どもみたいなあの性格は、困りものですね」
優しく穏やかな口調だが、評価はなかなかに辛辣だ。
十人が見れば十人全部が認めざるを得ないほどの美貌を持ちながら、この
初めて会った時から変わらず彼は、静かで、穏やかで、率直だ。
だからだろうか、どんなに心が波立っても、重く塞いでも、……彼の声を聞くと全部が解けてしまうように、思うのは。
無意識に眉を寄せたのは、涙を堪える自衛の所作だ。
甘えてはいけない相手だと、ずっと昔から決めている。
それでも声が震えるのを止めることができない。
「本当にっ、困りますわ。いつもいつも、ご自身の価値観で物事を、かき回してくださるんですもの……! わたくしが何を言ったって、反省してくださいませんしっ」
まるで八つ当たりみたいな言い方になってしまったと気づいたが、シェルシャは気分を害した様子もなく頷いて言った。
「あれでも反省してるんですよ、……あの人なりにね」
だからっていきなり殊勝になられても逆に気味が悪いから、そう言って彼は柔らかく笑う。その言には納得せざるを得なくって、でも納得したくなくて、黒曜は拗ねたような声で呟いた。
「それは、そうですけれど。悪意はないと、わたくしだって解っておりますわ。でも、あの方が関わるといつも、別れが伴うのですもの」
ふわりと広がった大きな翼が小さな身体を包み込んだ。
「泣いていいですよ、黒曜様。僕は見なかったことにして、しばらくこうしていますから」
「……子どもみたいに、甘やかさないでくださいませっ」
翼の陰でくぐもった声が虚勢を張るのを、シェルシャは聴かない振りをする。
慰めや励ましの言葉なら幾らでも思いつくが、そうやって感情の堰を砕いてしまったら、次からどんな顔で彼女と会えば良いか解らないからだ。
二人の間に存在する暗黙の禁忌がいつまで続くのか、当人たちもまだ、知らない。
そんな束の間の逢瀬を闇のとばりに抱え込み、夜は静かに更けてゆく。
そして。
明くる朝は大賢者の予言に違わず、抜けるような快晴だった。
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