10-3 分断


 アルエスが消えた船べりを茫然と見つつ、セロアはしばし固まっていた。

 言った後で自分がどれだけの大役を彼女に負わせたのか自覚して、恐ろしさが胸を突く。思考の澱みに囚われそうになった途端、ぐいと腕を引かれた。はっと視線を戻すと、大きな瞳が自分をしっかり見上げていた。


「アルエスちゃんは大丈夫ですっ。シィも一緒だし、鱗族シェルクさんたちは絶対、助けてくれるもん!」


 この子は時々、どきりとすることを口にする。

 まるで心情を言い当てられた錯覚に陥りかけながらも、セロアは少女がライヴァンの建国王を思い出していると理解した。

 見ず知らずの脱走者を助けた海の民が、ひたむきな同族の少女を無下にするはずがない。……そう、少女の瞳は主張している。

 その揺るぎない確信は、セロアの動揺をも払拭した。


「そうですね。――ルベルちゃん、いざとなったら泳ぎますよ。いいですね?」


 覚悟を問い尋ねる保護者から目を逸らさず、少女は決死の表情で頷く。そしてセロアは、魔物に応戦しているリンドに向かって叫んだ。


「リンド、アルエスがシェルクたちへ支援を頼みに行きましたから、船室の二人を呼んで来てください!」

「なんだって!? ――ッ、解った!」


 危険はないのかと問い質したい気持ちを抑え、リンドは即座に踵を返して船内へ向かう。マストの上に仁王立ちするだけあって、揺らぐ足場の不安定さがまったく障害にならないのは流石だ。

 妨害する相手が消えたため、再び魔物は船内へと触手を伸ばしてくる。

 咄嗟にルベルが魔法を唱えようとするのを手で制し、セロアは少女の肩を抱えながら船べりから離れた。


「無駄に魔法力を使っちゃ駄目ですよ、ルベルちゃん」

「でもセロアさんっ、船が壊されちゃいます!」


 ぎし、ぎしぃと悲鳴のように船が軋む。時折り突き上げる衝撃によろけそうになる少女を長衣に抱き込み、肩の上に留まっている白いカタマリ二つも一緒に押し込んだ。ルベルが声を上げる。


「セロアさん、船っ沈んじゃうんですか!?」

「そうみたいですね。ルベルちゃんは、私にしっかり掴まっててください」


 少女の声は切迫していたが、賢者の声は相変わらず低く穏やかだ。彼が目を向けている先、魔物の腕は緩慢な動きで船首に絡み付いてゆく。

 たッと足音がして、不意に緋色の虎が現出した。視線を戻したセロアの前でゆらりと人型に変幻したゼオは、ひどく顔色が良くない。


「マジかよ……」

「ゼオは、水に入ったら――マズいですよね」


 言いかけた途端に物凄い形相で睨まれ、セロアははは、と乾いた笑みを漏らす。


「ゼオくん、ゼオくんっ! 沈んじゃう前に先生に連絡とって、んでもらってくださいっ!」


 賢者の服の中からルベルが叫ぶ。ゼオは不機嫌そうに髪をかき回した。


「そしたらもうこっちに合流できなくなンだよ」


 唸るように言った所で、船内への連絡出口が勢いよく開いた。リンドとフリックが一緒に駆け出して来て、一斉に叫ぶ。


「ヤベーよ、どうするゼオ」

「そっちは無事か!? ――って、しつこい魔物だなッ」


 リンドがすぐさま剣を掴み、船首に向かって駆け出そうとするのを、セロアが制した。ルベルが長衣の間から顔だけ出して、声を上げる。


「そんなコト言ったって、ゼオくんが消えちゃったらイミないんです! きゃぁ!」


 ぐらりと船が傾ぎ、セロアはしゃがみ込んで転倒を防ぐ。

 フリックは、船酔いも吹き飛んだのだろう――頭をぐしゃぐしゃ掻き混ぜながら、忙しく視線を彷徨わせた。


「まぁ……こうなったらとにかく飛び込んで泳ぐしかねーぜぃ……、島まではかなーり距離あるけどさ、手前に岩場ッぽぃのが見えるじゃん?」

「どの道このままでは、船と一緒に海底へ引きずり込まれて溺れてしまう! ならば泳ぐしかあるまい。見える程度の距離ならきっと大丈夫だ! ……ゼオは、具合が悪いのか?」


 わりかしやる気なリンドに話を振られ、ゼオはボゥと炎混じりの溜め息を吐いて、答えた。


「あぁ、オレのコトぁ気にしねーで行け。それとリンド」

 きんいろの目が、険しく眇められる。


「万が一、バイファルに入ってもオレと合流できねえ時は、アイツを呼べな」

「あいつ?」


 セロアが呟くように反復した。リンドは両眼を大きく見開いて、こくりと頷く。

 ギギィ、と船が軋み、大きく傾いた。それに紛れるように、炎の虎は口の端を笑うようにつり上げて呟いた。


「オレぁあのヤローが大嫌ェだが、アイツならおまえたちを確実に助けてくれる」

「ゼオくんっ! 船っ沈んじゃうです――っ!」


 ルベルが悲鳴のように叫ぶのに、ゼオは身軽く傾く船体の上の方に飛び移って、笑った。

 追い詰められた獣みたいな、凄絶な表情で。


「アルエスがうまくしてりゃ、鱗族シェルクたちが助けに来るんだろ? オレァ最後に行くから、船が沈む渦に巻き込まれねーうちに、はよ行け!」

「ダメっ、ダメですってば、ゼオくんのバカーっ!」


 バリバリと轟音を響かせながら、マストが眼前に倒れかかる。騒いで暴れるルベルをしっかり抱きしめたまま、セロアが答えた。


「ゼオ、向こうで会いましょう」

 そして、身をひるがえした。


「ゼオ、ゼオは水は苦手なんだろう!? せめて緩和魔法を――、あぁッ水魔法もダメなのか……!」

「イイからリンドも早く行けッ! ぁー……フリック、リンド引っ張って早く行けよな!」


 一生懸命考えているリンドと隣で立ち竦んでいるフリックに、ゼオが怒鳴る。


「う、あー分ったぜっ! 姫ちゃん行くぜ、ゼオはトラだから大丈夫だろッきっと!」


 まったく根拠のないことを言い聞かせながらフリックは、リンドの手を掴んでゼオを振り返った。

 常の彼らしくない、不安に怯える子どもの目で。


「ゼオ! オレ、魔獣とか狼とか怖いからなっ!? おまえ来るまで待ってるからなー!」


 めりめりと嫌な音がして、足元の床板が裂けた。半ば放り出されるように、フリックはリンドを引きずって海に飛び込む。

 水飛沫と誰のものか判らない悲鳴、そして船が崩壊していく音。

 とにかく巻き込まれないように必死に泳ぎつつ、それでも振り返って様子を窺ってしまう。のたうつ巨大な触手が、まるで握り潰すかのように船を折り曲げてゆくのが、遠目からはっきり見えた。


「フリック、ここはまだ危険だッ泳ぐぞ!」


 吹っ切るようにリンドが言い、促されてフリックも、沈む船から離れるように泳ぎだす。

 波間に、セロアとルベルの姿は見つけられなかった。捜している余裕もない、無事を祈りつつ自分たちが無事に陸地に辿り着くしか、今出来ることはない。


 ――と。



 ドオォン……



 爆発音のような振動が、一際大きな波紋を造って押し寄せ、その波を頭から被ってむせ込んだ。


「フリック、……見ろ」


 水属性なだけに水中もさほど苦ではないのだろう、リンドが顔を上げて振り返ったまま、茫然と指さしている。

 つられて見て、フリックも目を見開き息を呑んだ。


 小規模ながら、立ち上る水煙――いや、キノコの形の雲と、バラバラに砕けた船のカケラ。そして、千切れて海面に浮かぶ触手であったモノと。

 船が砕け散ったため、渦は起きていない。波紋の中心点には無数の残骸が浮かび、陽光を照り返す海面は変な色に澱んでいる。


「――ゼオ!?」


 我に返ったように、――むしろ我を忘れたように引き返そうとするリンドの腕を、フリックは慌てて掴んで引き止めた。


「まてまてッ! どこ行く気だよ姫ちゃん!」

「止めるなフリック! 渦は起きてないのだから、ゼオを迎えに行ってもいいだろう!?」

「うぉあっ……がふ」


 振り払われそうになり、弾みで海水を飲み込んでフリックは再び咳き込んだ。リンドがそれに動きを凍らせる。


「あ、……済まない」

「ひ、姫ちゃん……、あっちはダメだぜ、ゼオが行けって言うんだから、なぜか解んなくっても理由はあるはずなんだっ! ……ってゆっかー、このままじゃオレ力尽きて沈んじゃうよー……、あ、はは」


 いつもの軽口にも、まったく勢いがつかない。

 元々、海とか泳ぎとかあまり得意じゃないのに。


「そ、そうだよな! ああぁフリック力尽きないでくれっ……! 私は水属性なのに、こんな時まったく役に立てなくて済まないっ」

「だ、だいじょーぶ、だぜぃ……、ぁー……でも、ちょっとダメ、か、も……」


 泣き出しそうなリンドに心配を掛けたくなかった。けれど、重く纏わりつく海水と案外冷たい水温に、板切れを掴んだ指先は既に感覚を失っている。


「フリック!? ダメだ寝たら沈んでしまうぞッ! しっかりしろ!」


 じっとりと水を含んで重くなった耳のせいか、リンドの声が遠い。

 姫ちゃんだけでも早く行けよ、……そう言いたかったけど、声が出なかった。


 遠のく意識の片隅で。

 ふわんと不思議な浮遊感を覚えながら、フリックは意識を手放した。



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