15-4 ここまでとこれからと
小ぢんまりとした学院の応接室には誰の姿もなく、それを怪訝に思いつつも、セロアはソファに座ってルウィーニを待つことにした。
今は昼の休憩時間だから講義は行われていない。フリックやアルエス、リンドも、食堂か庭かにいるだろうに、ルウィーニは彼らには報せなかったらしい。
あれこれ予測を巡らす間もなく、扉が叩かれた。一瞬だけ逡巡し、セロアは立ち上がって扉を開ける。途端ふわりと花の香りがして、扉のすぐ前に立っていた少女が、抱えた大きな花束をセロアに向かって差し出した。
「セロアさん、ただいま帰りました!」
まっすぐな茜色の双眸が、別れ際の輝きを宿したままセロアを見上げていた。色とりどりの鮮やかな花にも遜色ない少女の笑顔に、セロアの表情が意識せず緩む。
「お帰りなさい、ルベルちゃん。……それに、レジオーラ卿も」
花束を受け取り、セロアは顔を上げて、ルベルの後方に立つロッシェに視線を向けた。ひどく複雑な表情で見返す彼の隣では、ルウィーニがあからさまに笑いを堪えているのが解る。
ロッシェに咎めるような視線を送られつつも、彼は笑い顔のままセロアに目を向け言った。
「彼がきみと俺とで話したいそうだ。少し時間を貰えるかな?」
「ええ、私は構いませんが」
いまだに別れ際の思い出し笑いで腹を抱えるフリックとは冷静な会話など望めないだろうし、リンドやアルエスにも話せないことなのだろう。
話すことで整理がつく想いもあるかもしれない、と思い、セロアは応じて部屋の中へと身を退いた。
「それじゃルベルはフリックくんと、リンドちゃんとアルエスちゃんを捜してきますっ」
元気に言って身を翻す少女を見送ってから、ルウィーニとロッシェも部屋の中に入る。
「コーヒーでも淹れようか。きみらは掛けてなさい」
ルウィーニにソファを促され、セロアが花束を机に置いて腰を下ろすと、ロッシェは真向かいに座って長い足を組んだ。細い両眼が正面からまっすぐ見ている。
セロアはなんとなく背筋を伸ばし、彼に向き直った。
「いつ、お戻りに?」
「……今朝早く、かな。執務が始まる前にこっそり抜け出すつもりだったのに、灼虎君の見張りで即ルウィーニに捕まったのが悔しいね」
思ったほど不機嫌でもない声が、淡々とセロアに答える。棚の裏でルウィーニが吹き出す気配を察し、一瞬殺気が過ぎったがそれだけだった。
「国王陛下にはお会いできたんですか?」
探るような問い方に聞こえなければよいが、そんなことを思いつつ、セロアは慎重に尋ねる。ロッシェは一度瞬き、口元だけで笑った。
「いいや。まだ、というか、今はまだ会えない」
会わないではなく、会えない。その言い回しに含みを聞き取り、セロアはなぜの問いを込めた視線を向ける。沈黙の中で、静かな食器の音が妙に大きく響いて聞こえる。
「君も、僕の出自を知っているんだっけ」
躊躇うように抑えた声が、わずかに震えたのに気づき、セロアは頷いた。
庶出とはいえ前王の長子でありながら、世間に存在を隠匿するため
ロッシェの言葉がどれだけの範囲に向けられているのかは解らないが、あえて口にする気にもなれなかった。彼も別に、確かめるつもりはないだろう。
言葉を迷って黙り込むロッシェの前に、戻ってきたルウィーニがマグカップを置く。セロアの前に一つ、ロッシェの隣にも一つ。ほんわりと苦味混じりの香りが広がり、ルウィーニはロッシェの隣に腰を下ろした。
「言いたくないことは言わなくていいよ。彼はきみの過去を詮索したり笑ったりする人じゃないし、騎士ではなく学者だから、頭の固い人間でもないしね」
やんわり促す口調で言われて、ロッシェは頷き、抑えた声で話を始めた。
「僕は、実の父に
知ってるよね、と紺碧の双眸が問い掛ける。セロアは頷き、続きを待つ。
「誰かを殺すのは慣れた。楽しくはなかったけど、抗えば酷い目に遭わされたし。こんな生き方してればどうせいつか誰かに殺される、そうなれば違う来世に転生できるからいいや、ってね。そんな自由を待ち侘びながら、命じられるままに僕は何人殺したのかなぁ」
浅い呼吸と、声に震えが混じる。視線の落ちた双眸は無機質な硝子玉になっていて、虚ろだった。ルウィーニがおもむろに右手を上げ、ロッシェの肩を軽く叩く。
一呼吸を飲み込み、彼は押し出すように言葉を続けた。
「リィンに逢ったのは偶然で、何度も逢って仲を深めたくせに、彼女がルベルを宿したことすら僕は知らなくて。……だから、次の
自覚を伴うかは別に――、それは半分真実で、半分嘘だ。そう思うけれど、セロアは黙って彼の言葉を待つ。今はそうしなければならない気がした。
「きみは一度命令を拒絶したそうじゃないか。赦して貰えず、それなら一緒に死んでやると自棄になって、レジオーラの館を燃やしたんじゃないのかい?」
容赦ない問いを発したのはルウィーニだ。ロッシェは一瞬表情を凍りつかせ、無言のまま手を伸ばして彼の襟を鷲掴む。
「死ぬか貴様」
「今さら何言ってるかね。それとも、生死与奪権を賭けて俺と勝負するかい。うん、面白そうだなぁそれも」
「うるっさい」
飄々と殺気をかわしたルウィーニは、あっさりロッシェの指を解いて口の端をつり上げた。
「きみは人の心を知らな過ぎるんだよ、ロッシェ。リィラレーン嬢の想いを曲解したり、ルベルの想いを読み違えたりした結果、見事あの子に出し抜かれたんだろう?」
「仰る通りさ、僕はリィンの望みを違えているだろうよ。……というより、僕はいまだに彼女の望みを知らないんだ。彼女と彼女の家の者たちを死なせたのは、僕なのに、彼女がなぜ僕にルベルを託したのか、幾ら考えても解らないんだ」
頼りない呟きは彼の本音だ。
考えるほど難しいことではないのに、彼は今もなお、生を容赦された罪悪感を拭いきることができずにいる。
「彼女はあなたに、生きて欲しかったんじゃないですか?」
静かに返したセロアの言葉に、ロッシェは黙り、そして再度深く息を吐き出した。
「そうかもしれない。彼女は僕に生きる理由をくれた。だから僕は、僕が彼女から奪った未来の一切をルベルに返そうと思った。僕はそのために生きようと、あの時そう決めたんだ」
人の出逢いはいつも不可思議で、運命的だ。
未来につながる邂逅だけが記憶に刻まれるから、そう思えるだけなのかもしれないが。
死を切望していた彼と、生きたいと願い続けた彼女。出逢い、惹かれ合い、深く結ばれ、引き裂かれた。その各々に手渡されたのは、望みと真逆の未来で。
でもそれは、決して悲劇ではない、と。ルベルを見ていれば、セロアにはそう思えてならない。恐らくルウィーニも同じ思いで、だからルベルを引き止めず、むしろ後押しのようにゼオを遣わしたのではないだろうか。
そう思って視線を向ければ、年嵩の魔術師は息子を見るような目でロッシェを見ていた。
「いつから本気で好きだとかね、皆あまり自覚してないものだよ。結局のところきみは今も彼女が好きで忘れられなくて、だから自分自身を赦せないんだろう。でもルベルを育てた日々は、きみにとって辛い五年間だったのかい?」
一瞬だけ眉間に力を込めた表情は、ルベルが泣くのを堪える顔とよく似ている。
「いいや、楽しかったよ。子供の成長って不思議で、怖いくらいに率直なんだ。あの子の居場所を造るため関わった、ライヴァン王宮も楽しかった。フェトゥースは要領が悪いけどいい奴で、ジェスレイもこんな僕の共犯者になって場所を与えてくれた。オールスもドレーヌも、融通利かない生真面目だけど、好きだよ。二重三重と嘘を重ねた挙句に裏切った僕を待っててくれるなんて、お人好しにも程があるね」
国王と側近重臣一人一人の名前を懐かしそうに挙げ連ねつつ、苦笑混じりに話すロッシェに、もっともだと笑って、ルウィーニはずいぶん冷えてしまったコーヒーを一気に飲み干した。
「ライヴァン王宮は融通が利かない連中ばかりで、俺はどうにも肩身が狭いよ。きみがレジオーラ家の当主として復帰してくれれば、俺としては大助かりなんだが」
表情こそ笑顔だが口調は本気で真剣だ。
だけれどロッシェは、否定の意ではっきり首を振る。
「僕みたいに叩けば幾らでも埃が出る者が政治に関わるのは、国にとって良いことではないよ。僕は
政変の続いたライヴァンの政情は、隣国ティスティルと比べひどく不安定だ。五年前に比べればだいぶ安定したとは言え、隙だらけな現状は確かに否めない。
だが、最も不安定な時期を切り抜けられた陰の功労者はロッシェだったと、ルウィーニが以前言っていたのをセロアは聞いたことがある。
「きみは過去に拘り過ぎだ。埃の立たない者なんかいないし、元々政治は黒くて血生臭い性質を内包しているものだよ。俺だって過去を辿れば色々あるがね、どんなに心を痛めたところで、どうせ生者は死者のためには生きられないんだ」
治世の面でも心の拠所としても、国王が当時ロッシェに頼りきりだったのは周知の事実だし、だからそんな危惧は今さらだ、とルウィーニが言いたいのは解った。恐らくそれは彼にも伝わっているだろう。
視線だけ傾けてルウィーニを見、ロッシェは小さく笑う。
「解ってるさ。でも、人の過去はいつか必ずその人に追いついて、相応の返報をもたらす。親の責は子を巻き込む。……それが世界の律だ。僕の存在がルベルの幸せを壊す要因になったら、僕はリィンにどう詫びたらいいんだ」
結局はそこに帰結してしまい、ルウィーニは困ったように眉尻を下げた。
「きみも相当頑固だなぁ。独り善がりな幸せ理論には意味がないと、さんざ思い知っただろうに」
話を振り出しに戻さないでくれ、と言わんばかりの台詞に、ロッシェは少しだけ黙り、そして表情を緩めた。
「ああ、まったくだね。僕は僕以外のすべてを備えて、ルベルの幸せのために、僕自身だけをあの子の前から消したのに。あの子はその一切よりも、僕一人がいいんだってさ。じゃ僕の、今までの十年間はなんだったんだよ。僕はもう本気で、どうしていいのか解らないよ」
彼が娘のためにとの願いと覚悟をもって構築した世界は、ルベル自身によって見事に突き崩されてしまった。
それを思えば、ロッシェが本気で途方にくれるのも無理はないのかもしれない。
「ここで今すぐに決めずとも、これから自分なりに探ってみてはいかがですか?」
同志を欲しがるルウィーニには気の毒だが、それでいいとセロアは思う。
ロッシェは顔を上げると、真向かいを見て双眸を細め笑った。
「そうだね。僕なりに、出自を生かしつつフェトゥースを手助けする方法を探るさ。勿論、ひとごろしを生業にはしない。堅気とは言えないけど、ルベルに恥じない人間でありたいと思う」
本当に不器用な人物だ、と思った。一応の結論らしいその言葉に、ルウィーニは盛大な溜め息をつき、そして笑う。安堵やあきらめ、そんな感情が混じり合った笑顔だった。
彼にとって五年の回り道は、これから先のため必要な時間だったのだろう。
だとすれば今この
「さて」
冷えたコーヒーを一息で飲むと、ロッシェは立ち上がった。
「そろそろ失礼するよ。レジオーラの屋敷で、母も待ってることだし」
「もう行くんですか。皆とも会っていってはいかがです?」
妙に急いた様子を不思議に思いつつ、深い意味もなくセロアが言うと、彼は複雑な表情でなぜか小声で答えた。
「あんまり、ウサギ君に会いたくないからさ」
途端、隣のルウィーニが吹き出したので、ロッシェは眉を寄せ、険のある視線を向ける。
「笑うな、ルウィーニ」
「あっはははは、いい子じゃないかフリック君は。俺はああいう子は好きだよ、可愛いじゃないか」
好き嫌いの問題ではなさそうだが、余計な口を挟むとさらに話がややこしくなるように思えて、セロアは曖昧に笑いつつ視線を窓の方に流した。
「お気持ちはお察ししますが、多分もう、手遅れだと思いますよ」
「………………」
笑いを堪えるルウィーニを睨むロッシェの不機嫌な表情に、苦笑を漏らしつつ、セロアも冷えたマグカップに口をつけた。彼らが来たことはもう知れているだろうし、ルベルが挨拶せずに帰るのを聞き入れるとも思えない。
昼休みの終了を告げる鐘が構内に響き渡った。聞き慣れた懐かしいその音に、セロアはなんだかしみじみと、旅の終わりを実感させられたのだった。
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