epilogue【虚空を飛ぶ】

 僕の手の中にはカード。しかし、それは以前とは異なった模様を見せていた。

 父から受け継いでから今までカードの模様は、代々樫宮かしみや家に伝わって来た家紋――現在の家紋とは異なるが――だった。しかし、僕の手中にあるのは、全く別の模様をもったカードだった。

 真っ赤な彼岸花が描かれ、その中心には『虚空夢者こくうむしゃ』という文字。

 一瞬何の事を言っているのだろう、と思ったが、その答えはすぐに分かった。『虚空夢者』という単語が示しているのは、きっと僕だ。

 虚空に夢を懸かける者。きっとそれは、僕を意味している。そうに違いない。

 もしこの場に僕以外で虚空に夢を懸ける者が居れば……。その可能性は、限り無くゼロに近いだろう。

 大声を出して驚愕した僕を、夜宵と朔乃と涼馬の三人が見詰めている。事情を説明した方がいいのだろうが、僕の口からこの現象を説明してもいいのだろうか。三人に『虚空夢者』という疑いを掛けてもいいのだろうか。疑って彼女達から答えは返ってくるのだろうか。

 息を詰まらせながら、僕は考え続ける。三人の視線を受けて、自分だけの思考へのめり込む。次第に、呼吸が荒くなる。

 心配そうに夜宵が顔を覗き込んで来たが、情報として処理出来なかった。何かを言っているようだが、今の僕には聞こえなかった。突然、僕の脳裏に夢で見た情景が現れた。

『――だからね。今度こそ――に、い――』

 そう聞こえていた筈の言葉は、鮮明に聞こえていた。

『約束だからね。今度こそ空に飛びに、行こうね』

 そして、誰が言っていたのかもはっきりした。その人物は、夜宵のように見えて全く違う人にも見えた。名前までは思い出せなかった。しかし、これで全てが解決した。

 僕の中で微かに光り続けていた夢は、空を飛ぶ事だ。ここ数年間、忘れていた夢を思い出したとしても利点は何も無いが、カードの謎が解けた事はよかったと思っている。そして、もう一つ。

 僕はここの――。


     ★☆★☆★


「っ……?」

 随分と長い妄想をしていたような気がしてならなかった。隣の家に夜宵と朔乃が暮らしている気がして仕方が無かった。

 この世界に、夜宵や朔乃という人物すら存在しないというのに。

 床に着いていた上体を起こす。僕は酷い目眩に襲われたが、目を擦ったり頭を振ったりしてどうにか治める。部屋全体を見回すと、台所に人影が見えた。気になったが、体を動かす気にはなれなかった。不意にそこに立っている人がこちらへ歩いて来るのに気が付いた。僕は急いで寝ている振りをした。

「もう。起きてるのは分かってるんだから」

 鈴のように僕の中で響いたその声は、誰かの声に似ていた。夜宵や朔乃の声にも似ていたが、もっと似ている人物が居た。

 声の主が僕の体に載のり、僕は短く息を吐いた。重いとは感じなかったが、流石に衝撃を受けた。

「うっ……!」

「ほら、早く!」

 そう僕の短い息に続けて言う。仕方なく目を開けると、眩しい日光が僕の虹彩を攻撃した。目を細めながら、僕は視線をめぐらせた。

 右側には窓からの光と思われる日光。左側には台所と食卓用のテーブル。そして、正面には名前も分からない少女の顔。

 やっと眩しく感じていた日光にも目が慣れた頃に、少女は僕の顔に頬を近付けて何かを確認するように言った。

「おーい、生きてる? 息してますかぁ?」

 彼女の発言に、僕は微かな怒りを感じた。瞬きを確かにしている人に向かって、生存確認など必要なのだろうか。

 体の底から湧き出る怒りを動力にして、僕は重そうに体を起こした。

「どう見ても生きてるよね? 馬鹿にしてるの?」

 少し強く言い過ぎたか、と思った時にはもう何もかもが遅かったらしい。少女は驚いた顔を徐々に歪ませて、瞳に目一杯の水を溜めた。そして、それが彼女の頬を伝うと、家全体に甲高い声が響いた。

「うわあああぁぁぁんっ!」

 僕は一瞬、何が起こったのかを理解出来なかった。突然の事で、咄嗟に辺りを見回してしまった程だ。

 甲高い声は少女の物だった。僕の正面で、号泣していた。こうなってしまったのは、全て僕の責任だと分かっていたが、彼女の感情をどんな方法で落ち着かせればいいのかは分からなかった。

 客観的に見れば少女の顔は可愛いだろう。しかし、今の顔は……。とても可愛いとは言えなかった。涙でぐしゃぐしゃになり、おまけに鼻水を垂らす。そして真っ赤に顔全体が染まっている。

 こんな状態では何をしても機嫌を損ねてしまうのではないか、と考えさせられた。早くしないと少女が困る、と思いながらも、脳内ではどうでもいい過去の出来事や夢の記憶が蘇り、処理の邪魔をしている。

 朔乃がそうであったように、僕はとりあえず少女の頭に手を優しく置いて、撫ででてみた。――やはり、機嫌は元には戻らなかった。

 何をしても機嫌が直る事は無いのだという現実を見せられたような気がして、僕は落胆した。思い悩んだまま、少女を見詰める。

 どうでもいいが、年齢や関係性がとても気になった。

 なぜこんなに幼い女の子が僕の家に居るのか、誰かの妹なのか、という疑問が溢れるように飛び出し、ついに口から零こぼれてしまった。

「君、どこから来たの?」

 その途端、少女の鳴き声は止んだ。おっ! と思ったが、歓喜の表情は作らない。やっと号泣が止まったのに、真剣な表情を崩して笑ってしまったら、また少女の泣きが始まってしまうだろう。

 甲高い声が止み、部屋の中は静寂に包まれる。通常はこのような状態なのだが、今はその静けさが異常に思えた。

 沈黙がどんどん長くなる。僕は答えを待つしか出来ないのだが、少女は口を開こうとしない。理由は分からないが、早く答えて欲しいと一心に願った。すると、思いが通じたのか、やっと彼女は口を開いてくれた。しかし、少女の言葉は僕が望んでいた言葉ではなかった。

「異世界、って言ったら信じる?」

 逆に質問で返して来た。少し反応に困ったが、僕はすぐに少女の言葉の意味を理解し、首を横に振る。

 もう異世界なんていう場所はうんざりだった。ここは現実だと、自分に言い聞かせるのだが、異世界という概念と記憶が邪魔をする。どうしても僕の体は、言う事を聞かなかった。

 僕の反応に少女は何も困る様子は見せず、先程の号泣など嘘のように綺麗に微笑んだ。二次元で言う美少女のようだった。しかし、その笑みも直に崩れた。次に彼女が見せたのは、悲しみを纏った表情だった。

「信じないよね、異世界なんて……。ある筈、無いもん」

 少し拗ねたように少女は呟いた。彼女の故郷が異世界のような気がしてならない。声を掛けようにも、何と言っていいのか全く見当が付かない。共感してもいいのか、反対した方がいいのか。

 再び僕が頭を悩ませていると、それに気付いたのか、少女はまた微笑んだ。今度はずっとそのままの笑顔で居てくれた。

「とりあえず、私は帰るね。家の事も残ってるし、宿題も残ってるから」

 宿題? と僕は反射的に首を傾げた。その時にはもう、少女は僕の体から降りていた。荷物をまとめ始めた彼女を僕は急いで呼び止める。

「君、名前はなんていうの?」

 ここに居た事や僕とどんな関係だったのかを差し置いて、僕は少女の名前を聞いた。誤魔化されないように、熱心に彼女の背中を見詰める。答えてくれなかったら、答えるまで家に帰さないつもりだ。

 そして、ついに少女が僕の方を振り返る。彼女は誤魔化すどころか、驚いていた。ぱちくりとした目は、確かに僕を捉えていた。

「何、言ってるの……? 私、夏樹だけど。妹の事も忘れちゃったの? どうしようもないね、お兄ちゃんのボケっぷりは」

 は……?

 僕は夏樹と名乗る少女の言葉を聞いて、思わず失言してしまった。誰かの妹だと思っていた少女が、自分の妹だと信じられなかった。まず自分に妹が居た事に驚いている。実感が湧いていない。確かめようにも、ここでは確かめる事が出来ない。

 混乱している脳で確かめる術を考えていると、少女がくすくすと笑い出すのが視界に入った。何か可笑しかっただろうか、と思いながら彼女の言葉を待っていると。

「もしかして、信じちゃった? ごめん、ごめん。私、燈嘉君の妹なんかじゃないよ。燈嘉君との関係性を言うなら……。友達の妹って感じかな。騙しちゃって、ごめんなさい」

 安心している自分がいるのに、彼女の言葉を素直に受け入れられなかった。夏樹の顔立ちは、大学院に居る男子生徒の一人によく似ていた。しかし、その男子生徒の名前を思い出すには至らなかった。

 小さく僕が首を傾げると、夏樹は諦めたのか荷物の整理を再開した。しかし、荷物の整理をしながら、彼女は口を噤つぐまなかった。

「でも、燈嘉君。何で今頃、私の名前を聞いたの? お兄ちゃんと来た時に、名前は言った筈だよね?」

 年下に強い口調で言われたのが少しショックだったが、そこには朔乃の面影があった。しかし、そんな事は無いと自己否定して首を一人で振った。幸い、夏樹は僕に背を向けていたので気付かれてはいない。

 今、本当の理由を答えたら、馬鹿にされるような気がして怖かった。先程、僕は夏樹に騙されたばかりなのだ。今度はどんな嘘を吐かれるのか気になったが、同時に恐怖感を抱いた。

「寝起きでちゃんと脳が動いてなかったんだよ。よくある事だよ」

 僕は嘘を吐くのが上手くは無かったが、誤魔化しは利いただろうという実感があった。しかし、夏樹は振り向いて僕の目を見詰めた。バレてしまう、と彼女の視線に怯えたが、夏樹はすぐに笑って。

「そうなんだ。やっぱり燈嘉君はボケてるんだね」

 棘のある言葉を僕に放った。笑顔で言われたから、尚更胸にその言葉が刺さった。しかし、僕の嘘がバレなかった事に関しては、安堵感を抱いた。

 無意識に入っていた肩の力を深呼吸と共に抜くと、夏樹は再び荷物の整理を始めた。

 そんなに彼女の荷物はたくさんあるのか、と気になったが、僕には関係の無い事だと判断し未だに動いていない足を伸ばし立ち上がった。軽くふら付いたが、目眩という程酷くは無かった。

 台所へと歩き出そうとすると、視界の端でピカピカと光る物に気が惹かれた。その光っている物は、僕の携帯電話だった。オレンジ色に光るランプは、メールを示していた。

 長い時間、眠っていたので喉が渇き切っていたが、メールの方が僕を惹いた。

 しゃがみ込んで携帯電話を手にすると、すぐに画面が明るくなった。そして、画面には現実では有り得ない名前――。


 暁夜宵、と。


「ねぇ、夏樹、ちゃん! 暁夜宵って人、知ってる? 多分、兄ちゃんが話した事、あると思うんだけど」

 慌てて僕は夏樹に確認をする。

 夏樹の兄は僕との付き合いが長い筈。そして、可愛い女子には目が無い男子だった。僕が美しいと思う女性を、彼が可愛いと思わない筈が無かった。そして、可愛いと言っていないのならば、夜宵という人物を知らないという事になる。

 数秒の沈黙の末、夏樹が口を開く。

「暁夜宵……? さぁ、お兄ちゃんはそんな人の名前は言ってなかったと思うな。アニメか何かのキャラクターですか?」

 まるで心を切り裂かれたような気分になった。本当に現実では存在しない人物だったのか。では、この差出人は……。

 夏樹の後半の言葉はもう、僕の耳には届いていなかった。そして、急いでメールの内容を確認する。

『突然のメールでごめんね、燈嘉。私はきっと、あなたの世界には存在しないでしょう。だから、言わせてください。私のせいであなたを危険な目に遭わせてしまってごめんなさい。そして、騙してごめんなさい。でも、私は後悔していません。燈嘉と過ごせた短い時間、一生の宝物にします。もうあなたに会える事は無いけど、それでも私はあなたを忘れません。朔乃も本当は燈嘉に会いたいと泣き崩れてしまっています。あんなに酷い事を言ってたのに、って思うよね。兄様は、今でも燈嘉に感心しています。これからもずっと、賢い燈嘉で居てください。私からはそれだけしか言える事がありません。いつかは燈嘉も私の事は忘れてしまうと思うけど、私は絶対にあなたの事は忘れません。――ありがとう。そして、さようなら。』

 一通り目を通して、僕は一粒だけ涙を流した。静かに、夜宵からのメールを噛み締めるように心に刻み込んだ。そして、返信のボタンを押す。こうして夜宵からのメールが届いたのならば、僕からのメールも彼女に届く筈だ。

 絶対に忘れない、といった内容を素早く打ち込み、最後に送信のボタンを押す。しかし、画面にはエラーの文字。『そのメールアドレスは使えません』と出る文字に、僕は一人で怒りを抱いた。

 哀しさと怒りが心の中に浮かび、どうしようも無くなった。ここに居る夏樹に今起こった事を言ったとしても、首を傾げられるだけだ。無理矢理慰められるのは、首を傾げられる事よりももっと嫌だった。

 夜宵へのメールが届かない事に怒りを抱きながら、僕は諦めて携帯電話を床に置いた。そして、後回しにしていた喉の渇きに水分を補給しようと、改めて立ち上がる。

 体内にあった二酸化炭素を勢いよく吐き出し、それが合図だったかのように歩き出す。台所を目指していたが、勝手に体は流しの隣にある玄関へ向かっていた。気付いた時にはもう、玄関の戸を開けて外からの風を感じていた。

「えっ、燈嘉君っ!? ちょ、どこ行くの!?」

「僕、行かなくちゃ。空に、行かなくちゃ……」

 無意識にそう呟き、僕は走り出した。今こそ幼い頃の約束を果たす時だと思った。そう思った理由は分からないが、僕の本能がそうしたいと言っているような気がした。

 外を走っていると、並木道に差し掛かり、木漏れ日がとても熱く感じた。目を覚ましてから気付かなかったが、今の季節は夏なのだ。季節を間違えたかのような服装で家を飛び出し、走って来たので、周囲からの目線がとても鋭い。

 しかし、他人からの視線を感じながらも、僕はずっと走り続けた。幼い頃、小指を交わしたであろう場所へと、一直線に目差した。

 信号待ちももどかしく、点滅している信号は走って通り抜け、青に変わりそうな信号は瞬間的に走り出した。

 僕の鼓動はどんどん速まっていった。走っているからではない。やっと約束が果たせると思い、わくわくしているのだ。そして、その場所に到着すれば、約束した相手がはっきりとする。

 国立公園の中、僕は大きな池の前で急いでいた足を止めた。池と僕の間には漆黒の髪が舞う。僕の中ではその人物が誰なのか、少しだけ推測は出来ていた。しかし、確信は無かった。

 ついに、眼前の人物が僕の方へ振り向く。そして、僕は口の中に残っていた最後の固唾を、息と共に呑み込む。

 女性と目が合うと、僕は止めていた足を無意識に動かしていた。自分では、その時何を考えていたのか分からない。しかし、その中で、僕は女性の存在を確かめたいと思っていた。

「や、よい……?」

 微かな声で女性の名を呼ぶと、彼女は世界中の誰よりも美しい笑みを綺麗な顔に浮かべた。そして、優しく頷く。それだけで僕は涙が零れた。溢れて、止まる気配が無かった。

 夜宵の元へ辿り着く前に、僕は泣き崩れた。地面には僕の涙が何個も落ちて、滲み始めている。水溜まりになってしまうのではないか、という心配をした程だ。しかし、水溜まりになる前に、僕へ夜宵が手を差し伸べてくれた。

「男なんだから、泣いちゃ駄目じゃん。私、貰い泣きしやすいんだから……」

 夜宵に泣き顔を見せまいとしていた僕は、彼女の言葉を聞いて咄嗟に顔を上げた。夜宵は僕を見詰めながらも、懸命に笑っていた。しかし、頬にはきらりと光る雫があった。彼女は敢えてその雫を拭かなかった。

 僕はぼろぼろと垂れ流しにしていた涙を拭い、改めて立ち上がって夜宵の顔を見詰めた。そして、夜宵の手を握った。この時、初めて彼女の手に触れ、大きく心臓が跳ねた。

 夜宵に一番伝えたかった事。今こそ言う時だと、自覚していた。しかし、心の中で何かが喉を塞いで言葉を出せない。言わなければ、と思う程に苦しくなり、脳内がパンクしてしまいそうになる。

 言ってしまえば楽になると思ったが、それでもやはり言葉は出なかった。ふと思い出し、僕はポケットに入っているであろうカードを取り出した。それには相変わらず、真っ赤な彼岸花に『虚空夢者』の文字。

 その言葉の意味を噛み締め、僕はより一層強く夜宵の手を握った。そして――。


「空を飛ぼう、夜宵」


 そう言った瞬間、手の中にあったカードが四散した。こうなる事が、僕の使命だったかのように感じられた。

 僕の強い想いが通じたのか、夜宵は仕方ないなという雰囲気を出しながら確かに肯うなずいた。

「いいよ。――やっと、約束が果たせるね」

 夜宵の一言で、僕の中にあった謎が全て解決した。

 幼い頃に約束した相手が彼女だった事。『虚空夢者』になった僕の事。そして、最大の謎。異世界が存在した事。全てが解決したというのに、僕の心中はすっきりしなかった。異世界の事よりも、もっと気になっていた事。

「でも、夜宵。メールの意味が分からなかったんだけど……」

 僕がそう言った瞬間、夜宵の表情が曇った。夜宵の心情を悟るように、空も陰りを見せた。不思議に思いながら、ただ彼女の答えを待った。しかし、いつまで経っても夜宵の口は開かなかった。ずっと俯いたまま。癇に触ったのだろうか、と僕は不安になった。

 空気を換えるように、僕は急いで話を変えようとする。そこまで経ってやっと夜宵は口を開いた。しかし、彼女の答えは僕が求めていた物ではなかった。

「遊覧飛行を楽しんだ後に、それは言うよ。今は燈嘉との時間が大切だから」

 はぐらかされたような気がして、後味が悪かった。しかし、夜宵には考えている事があるのだと思い、仕方なく後味が悪い感情を自分の奥底に押し込めた。

「分かった。じゃあ、行こうか」

 実際には飛ぶ事は出来ない。空を飛ぶ体験をする訳では無い。飛行機に乗る訳でも無い。では、空を飛ぶ為に何をするかというと……。

「で、どうするの? 空を飛ぶなんて、どうやったら出来るの?」

「……」

 考え始めた僕に、夜宵が単刀直入に質問をしてくる。返しようが無い。魔法など、ここは現実であって異世界ではないのだから、存在しない。そもそも、幼少期の夢を実現させようという方が無茶なのではないか。はっきり言えば、空を飛ぶ手段なんて無い。

 そうだそうだ、と一人で頷くと、夜宵からの鋭い視線を感じた。引き攣った笑顔が、僕の真情を表した。

「はぁ……。やっぱりそうだと思ったよ。嫌な予感がしてたもん。――分かった。私がメールの意味を言うから、それで空を飛ぶ事は無しにしよう」

 引き換えの理由がぐちゃぐちゃになっていて、僕は理解出来なかった。しかし、夜宵の思考を止めようとは思わなかった。夜宵には夜宵なりの考えがあって、それに従おうとしているだけなのだ。そんな彼女を尊重すべきなのかもしれない。

 僕は理解した振りをして頷いた。頭の中は混乱していて、まるで今の虚空のように中身が全く無かった。

 夜宵は、微笑んだまま言った。

「メールの意味は。私が現実では存在しないって事」

 もしここが異世界ならば、夜宵は存在していて僕の目がまだ覚めていない事になる。また、ここが現実ならば、こうして僕と夜宵が話している事は奇跡に等しく有り得ない事だ。どちらにしても、利益は無かった。

 僕が何も言えずに突っ立っていると、困った笑顔で夜宵は続けて言った。

「ここは、紛れも無く現実だよ。だから……。私はもう存在出来ない」

 言ったと同時に、ここが異世界かと錯覚してしまう程の現象が起こった。僕の目に間違いが無ければ、夜宵の体が下からどんどん消滅していく。僕は目を真っ先に疑った。現実だと言うのに、有り得ない事が起こってもいいのか、と咄嗟に思った。

 夜宵は変わらない綺麗な笑顔で居る。まるで自分が消えている事に気付いていないかのように。

「夜宵……。行くなよ、夜宵……!」

 僕が掴んでいた彼女の手は既に消滅し、ただ空気に触れているだけだった。消滅していく速度は遅いのに、僕の感覚ではほんの十秒足らずで胸元まで達したような気がした。

 夜宵を失うという事は、僕にとって生きる価値を失う事と等しかった。嬉しさとは別の意味が篭った涙をぼろぼろと流し、僕は彼女を求めた。しかし、夜宵は僕を拒否した。

「燈嘉は自分の人生を全うして。私の事なんか忘れて構わないから、ね?」

 もう消滅は彼女の首にまで達していた。叫びそうになるのを必死に堪え、僕は詰まりかけの喉で呼吸をした。そして、夜宵は最期に――。


「燈嘉、好きだよ」


 それだけを残し、姿を消した。


     ★☆★☆★


 最期まで夜宵を守る事が出来なかった。そんな風な後悔を胸一杯にした。何一つとして、彼女への感謝を伝えられていない。ただ一方的に想いを伝えてもらっただけで、僕は何も伝えていない。きっと今から想ったとしても、届きはしないだろう。

「うわあああぁぁぁ!!」

 一回だけ我慢していた叫びを解放し、僕は立ち上がった。今の顔は、涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃになっているだろう。このまま街の中を歩くにはとても勇気が要った。しかし、思い切って歩き出す。

 するとなぜか心は軽くて、泣き疲れているにも関わらず、足はどんどん先へ進んでいった。自分でも分からなかった。大切な人を失ったというのに、体が軽いというのは可笑しいと思った。自分でも笑ってしまう程、可笑しかった。

 一呼吸して、僕は表情を改めた。夜宵が生きて来た今までの歴史を崩さないように、覆すように僕はこれからを生きなければならない。

 父から受け継いたカードが消滅し、『虚空夢者』ではなくなった僕が居る今。もう異世界という名の世界には行かない筈。

 僕が体験した事には全て理由がある。それを僕は今から知りたくなった。

 僕が父からカードを受け継いだ意味。僕が夜宵と巡り会った意味。僕が異世界へ行った意味。それらの全ての理由を知る旅に出たいと思った。

 間違いなく迷うだろう、という推測が出来てしまったが、夜宵との出会いを無駄にしない為に、僕は今。


 夢を抱いた虚空へ向かい、歩き出す――。偽りの無い、僕は。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

虚空のカード 千ヶ谷結城 @Summer_Snow_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ