episode5【太陽の堕落】

 眼前の人物が誰なのかさえ、今の僕には認識が出来なかった。確認を試みたとしても、きっと間違えるだろう。そんな感情が、僕の中に芽生え始めていた。

 誰だろう、誰だろうと思いながら、僕は目の前の女性の首を絞めていた。

 今の自分がどんな感情を抱いていて、どんな思いで女性の首を絞めていたのか、分からなかった。しかし、その中で一つだけ分かっている事があった。それは、彼女を愛していた事だ。

「何でそんな事、言うんだよ! 自分の妹だろ!?」

 僕は眼前に夜宵の顔を近付け、そう叫んだ。もう喚いているのかもしれない。

 既にぎりぎりと僕の手が鳴り始めている。しかし、自分の手の状況など、関係無かった。血が滲み始めて来たが、それも関係無い。関係があるのは、僕の怒りと夜宵の言動と朔乃だけだった。

「だから……。朔乃なんていう、私の妹は……っ! 居ないの!」

 夜宵が僕の腕を掴んで泣き崩れる。それを見て僕の手からは力が抜け、彼女を手放してしまう。地面にへたり込んだ夜宵は、喚き散らした。重さを増した虚空へと。

 朔乃は存在しない。それを受け入れるには、長い時間と強い気持ちが必要だった。しかし、そんな物は僕達には無い。長い時間すら短くなりつつある。強い気持ちなど、最初から無かったのかもしれない。

 夜宵の渾身の言葉に僕は息を呑んだ。彼女の怒りを買わない為に、何を言えばいいのか分からなくなった。

 朔乃は居る、と言ったとしても彼女の怒りは収まらないだろう。僕の怒りはとっくに収まっていたのだが、僕の怒りが夜宵に移ったのかもしれない。そう思う程、彼女の怒り具合は酷かった。僕もこうだったのか、と目まの当たりにした気分だ。

「元々、私には妹なんて……。居ないって事じゃん……。朔乃は人間じゃないって事――」

「そんな事無い!」

 僕は夜宵が言い掛けた言葉を遮さえぎった。夜宵には朔乃の存在を否定して欲しくなかった。せめて夜宵だけでも、朔乃を忘れずに居て欲しいと思った。例え、僕や涼馬が忘れてしまっても。しかし、その願いはすぐに失せた。

 夜宵の体の動きが急に止まった。今までの怒りも嘘だったかのように。そして、彼女が脚を伸ばして立ち上がる。頬に伝った最後の涙が地面へ落ち、滲にじむ。と同時に、夜宵の顔が上がる。

 その表情は、笑みだった。

「夜宵……?」

 口角が上がり、目には先程の涙が一切無かった。

 夜宵の表情は、彼女自身の諦めを表しているようだった。この世界に呆れ、朔乃を捜す事を諦めた、そんな表情。

 もう一度夜宵の肩を掴んで揺すってやろうかとも思ったが、それはもう不可能だった。

 夜宵は異世界で見た真っ赤な刻印を鎖骨付近に出現させ、煙を吹かせていた。それは彼女の意思で出したのだと、僕には分かった。止めようとしても無駄だと、分かった。

「あーあ、これですっきりする。朔乃なんていう人間は、元から居なくてよかったんだよね。簡単な事だけど、分かってよかったよ。燈嘉のおかげでね」

「……自分が何言ってるのか、分かってんのか……?」

 夜宵の奥深くに眠っていたであろうその悪魔は、彼女を苦しめはしなかったものの、この世の人間ではないかのような言葉を夜宵に言わせた。

 少しずつ彼女の言葉を理解しながら僕は言った。刻印を睨み付けながら、言い聞かせるように。だがそれは、夜宵が胸に張った領域には入り込めなかった。

 明るみに出た夜宵の顔を見ると、咄嗟に僕は息を呑んだ。もう僕が愛した夜宵ではなかった。こんな夜宵は、初めて目にした程だった。

 鎖骨付近に印を刻んだ夜宵は、この場に相応しくない笑みを美しい顔に浮かべ。真っ直ぐと伸びた細い右腕を僕へ伸ばす。僕の手よりも小さなそれは、僕を呼んでいた。

 不意に強い風が吹き、僕は驚いて目を瞑る。日光が当たっているかのような錯覚に陥った為、僕は急いで目を開ける。すると、そこはもう実家の前ではなかった。

 相変わらず夜宵は眼前に立っては居るが、彼女の背後には大きな桜の木がそびえていた。未だに止み切っていない風が桜の花弁を散らせている。はらはらと桜の花弁が夜宵の髪へ舞って来る。

 不適な笑みを浮かべ、手招きをする夜宵。その背後からは桜の花弁。通常ならば美しいと表現するべきなのかもしれないが、今はそんな事を言っている場合ではない。

「僕をどうしようって言うんだ、夜宵。まさか――」

 脳裏に浮かんだ自分の想像で怖がっていると、夜宵がより一層深い笑みで僕を嘲笑った。

「燈嘉、何考えてんの? また変な事思ったんでしょ。――私が燈嘉を殺すとでも思ったの? はぁ、怖い想像するね」

 緊張感の無い言葉が夜宵から飛び出て僕は驚いた。今までの態度が嘘のようだ。呆れられた僕だったが、そう言われるのが嬉しくもあった。

 しかし、その喜びは一瞬で失せた。笑顔のまま、夜宵は再び口を開いた。


「私は心中したいの」


 なっ……!

 彼女の言葉は、僕の想像よりも遥かに怖かった。もう怖いという単語だけでは言い表せないくらい、大きな恐怖に侵された。

 どんどん鼓動が早くなる。次から次へと冷や汗が垂れる。脚が震え始める。

 僕にとって夜宵の欲求は何一つとしていい事が無かった。彼女は欲求を満たせるのかもしれないが、僕は不幸でしかない。

 笑顔で言っていい言葉ではない。そう思いながら、僕はずっと夜宵を見詰めた。僕の視界内では、夜宵の鎖骨付近に出来た刻印の注目度が高かった。その理由とは、真っ赤だった刻印の色が黒くなりかけていたからだ。その色はまるで、今の夜宵の心情を表しているようだった。しかし、僕には分かった。この状態が、本当の夜宵では無い事が。

「心中なんて……! 僕はしないからな! 例え、夜宵が自殺しても!」

 最悪だった。夜宵が自殺したいなんて言う筈が無いのに、それを疑う事が。そう言わなければならないこの状況が。そう言ってしまう自分自身が。――この世界が。

 未だにここが現実なのか、異世界なのか見当も付かない。実家の前に居た時は現実だろうと思っていたが、桜の巨木の前では場所を判断する事が不可能だ。というか、考えて答えが出るのだろうか。

 脳の隅で考え始めていた事を諦め、僕は夜宵との会話に戻った。

「いいよ、それでも。燈嘉は私が死ぬのを見ててくれれば、それでいいから」

 自分を格下げしている夜宵は、笑みを絶やさない。そんな彼女を僕は――。



 パアンッ! 余韻が消えるまで、その場は風が止み静寂に包まれた。

 僕の手は体側ではない。夜宵の顔がこちらを向いていない。その一瞬で何が起きたのかというと……。僕が夜宵の頬を打ったのだ。これで彼女の目が醒めるように。

 愛した人の頬を打つというのは大きな決心だった。打つ前よりも打った後の方が罪悪感はやはり大きかった。いつもなら、こんな事は出来ない。するとしたら、夜宵からの筈だった。僕から彼女の頬を打つなんて、人生で初めてだった。

 夜宵の右頬は赤く染まっている。この角度からは彼女の表情が見えない。しかし、代わりに鎖骨付近の刻印が見える。その刻印は色が薄れ、存在すら消えかかっていた。この現象は、彼女の心変わりと取っていいのだろうか。

 不意に、夜宵が俯けていた顔を僕へ向ける。その行動ではっきりとした。実家の前に居た夜宵は本物で、ここへ移動した夜宵は偽者だったのだと。

 彼女の目には涙がたっぷりと溜まり、この場に相応しい笑みを浮かべていた。これこそ、僕が愛した夜宵だと思った。

 再び風が吹く。しかし、先程の強風ではなく、夜宵が戻って来た事を祝うような優しい風。ふわふわと桜の花弁が舞う中、夜宵は一歩進み。僕を包んだ。

「……ごめん、燈嘉。私、酷い事言ったね。ほんと、ごめん……」

 僕の服をくしゃりと握り締め、夜宵は僕の胸の中で静かに泣いた。その事について僕は、気付いていない振りをした。それが今は正しい事だと思った。

 慰めようかと思ったが、この状況で慰めてしまったら、夜宵の行動が事実になってしまうような気がしてので止めた。

 眼前にある漆黒の髪が桜と共に舞い上がる。何だかその様子が可愛らしくて、僕は何気なく夜宵の頭に手を置いた。それが懐かしく感じられた。

 本当は僕が彼女を信頼しているのに、僕より彼女の方が身長が小さい。僕とは比べ物にならないくらい小さな背中。その背中には、僕よりも多大な糧を背負い、多大な夢を背負ったのだろう。

 僕は夜宵を労うように、ゆっくり丁寧に彼女の頭を撫でた。夜宵が顔を上げてしまう恐れがあったが、そんな事は気にせず撫で続けた。そして、僕はやっぱり夜宵が好きなんだと思った。



 僕と夜宵はカードの力で現実へ戻った。つまり、現実へ戻ったという事は、今まで居た世界が異世界だったという事になる。

 眩しい光の中、僕は目を開けてみた。今まで移動している間は目を瞑って、景色を見ないようにしていた。しかし、初めてその景色を見た。僕が目にした物は、まるで現実の物とは思えない景色だった。異世界も現実ではないが、異世界よりももっと異次元的な景色が僕の目には映った。

 ワープしているような、そんな感覚だった。歩いてもいないのに、どんどん先が見えてくる。不思議な体験をしたと思う。普通ならばこんな経験は誰にも無い筈だ。こうして現実と異世界を行き来できるのは、父から受け継いだカードのおかげなのかもしれない。そして、カードを手にした人物全員が異世界へ行ったのかもしれない。

 過去に起こった出来事は僕には分からないが、奇跡としか言いようがない事が起こっているのは事実だった。

 一分程の移動が終わり、現実の景色が見えてくる。足が着くのは、きっと自宅の前だろう。一日程しか経っていないというのに、懐かしいと感じてしまう。しかし、懐かしいと感じる場所には、失った物がある。

 夜宵にとっては、それが朔乃だったり涼馬だったりするのだろう。僕にとっては両親、または祖父母だろう。

 人間は、大切な物程、見失い易い。身近にある物程、気付きにくいのだ。だからこうして、失ってしまう。手の中にある筈の物を、落としてしまう。

 一回だけ瞬きをすると、そこはもう自宅の前だった。急いで振り返ってみても、そこにはもう黒い渦を巻いた扉のような物は無かった。異世界で戦わなくてもいいというのに、僕は心寂しく思った。

 肩に入っていた力を一気に抜くと、背後から優しく聞き慣れた声が聞こえた。

「姉様、燈嘉さん。お帰りなさい」

「夜宵、燈嘉君。お帰り」

 心臓がどくん、と跳ねた。恐怖というよりも、驚愕が大きかった。隣では同じ声を聞いた夜宵が聞こえるか聞こえないかの程度で、声を発していた。僕には聞こえたが、背後の人物には聞こえていないだろう。

「ぁ……。ぇ……」

 夜宵の声は震えていた。未だに僕は体が硬直して、振り返る事が出来ない。頭の中では推測が出来ている。しかし、今までの事実がそれを否定している。自分でも分かっている。あの二人が居る訳が無い。そう思うのだが――。

「朔乃……、兄様……。え……」

 夜宵の言葉で僕は確信し、思い切って身を翻す。速くなった鼓動はまだ治まってはいない。治まるどころか、もっと速さを増しただろう。

 僕の目には、朔乃と涼馬の姿。変わり無い笑顔でそこに立っていた。信じる事が出来なかった。これこそ、異世界の演出ではないのかと疑い始めていた。しかし、それを裏付ける証拠がすぐに現れた。

「燈嘉さん、姉様に変な事はしてませんよね? 姉様、何もされてませんよね!?」

 今まで通りの朔乃だった。彼女の奥では涼馬が微笑んでいた。彼には相変わらず、威厳がある。

 大股で一歩夜宵に近付いた朔乃は、夜宵ではなく僕の胸に顔を押し付けた。こうしてくるのは、いつ振りだろう。だから反応にとても困った。

 夜宵よりも小さな背に、小さな背中。しかし、漆黒の髪は変わらなかった。このまま朔乃の頭を撫でてもいいものか、と思ったが迷った末に諦めた。ここで朔乃に喜ばれても、夜宵や涼馬に非難の目を向けられるだけだと思ったからだ。

「……でも、無事で何よりです。姉様を護っていただき、ありがとうございました」

 涙声のようにも聞こえたが、泣いていないのは分かった。ふと夜宵の顔を見てみると、微笑んではいるが今にも泣いてしまいそうな表情をしていた。というよりも、もう泣いていた。一方の涼馬は、自分の妹達を見て、安堵あんどしているように見えた。困ったような笑顔で、こちらを見守っていた。

 夜宵は我慢できず、僕の胸に頭を預けていた朔乃に抱き付いた。朔乃が苦しそうだったが、篤い抱擁は誰にも負けていなかった。ここまで互いを想い合う姉妹は、珍しいのではないか。

 そんな彼女達を傍目に見ながら、僕は涼馬に歩み寄った。何も言わずに分かり合えると思ったからだ。しかし、涼馬は分からなかったようで、すぐに口を開いた。

「俺からも礼を言わせてくれ。燈嘉君、本当にありがとう」

 涼馬からも礼を言われるなど思ってもいなかったので、僕は目をぱちくりして彼を見詰めた。自分の行動に気付いて、僕は直彼に無言で頷き返した。本当は何もしていなかったが、した事にしておく。そうすれば、自分も気持ちがよかったから。しかし、なぜか心の中にはもやもやとした感情が漂って消えなかった。

「朔乃! ずっと待っててくれたんだよね、ありがとう」

「当たり前の事をしたまでです、姉様! 無事で本当によかった」

 自分の事を考えているにも関わらず、夜宵と朔乃の会話は鮮明に脳内へ入って来た。と同時に、途中の考えは無くなってしまった。それ程、どうでもいいと思っていたのだろう。

 とにかく、これからも今まで通り朔乃と涼馬と暮らせるので、一安心だ。夜宵も安心しているようでよかった。しかし、朔乃が涼馬を殺したという事は、異世界の中でという意味だったのだろうか。

「朔乃。朔乃は兄様を殺したり、しないよね……?」

 夜宵は思い切って朔乃に聞いていた。僕だったら聞かずに、自分の中で処理していただろう。

 涼馬側に居た僕も、朔乃の答えに耳を澄ませる。きっと朔乃は決まった答えを姉である夜宵に返すだろう。というか、決まった答えを返してくれないとこちらが困る。現実的にも問題が発覚してしまう。

「兄様を、殺す……?」

 夜宵からの質問を受け止め切れず、朔乃は困惑した。実の兄を殺すなど、滅多めったに無い。在ってはならない事だ。

 困惑しているのは分かったが、図星だったかのような沈黙が流れ始める。夜宵の表情に疑いの色が滲み出る。次第に僕の心にも疑いが。

 そして、沈黙が終わり。

「私は、兄様や姉様を殺すなんて……。出来ません!」

 語尾を強めた朔乃は涙を流した。それで証拠が固まったのだろう。夜宵がすぐに動き出した。今度は篤い抱擁ではなく、傷付きやすい哀しみを抱くように朔乃の頭を撫でた。

「……そうだよね。家族を殺すなんて、出来ないよね。変な事聞いた、ごめんね」

 夜宵の顔は微笑みを浮かべていたが、目は笑っていなかった。むしろ、朔乃を疑っていた。彼女の言葉が信じられないのかと思ったが、僕はその事について考えるのを諦めた。きっと、夜宵には夜宵の考えがあるのだ。僕には踏み込めない感情や想いがあるのだ。無理に踏み込んで、彼女の癇に触ったら申し訳無い。怒った夜宵の姿など見たくないのが本心だが。

 朔乃は夜宵の顔を見ていないからなのか、未だに顔を俯けて涙を流し続けている。今、朔乃が顔を上げて夜宵の目を見たらすぐに気付くだろう。夜宵が自分の言葉を聞いてどう思ったのか、この次に何をしようとしているのか。その全てに。

 僕は何気なくポケットに手を入れてみた。相変わらずポケットの中には、父から受け継いだカードが入っていた。しかし、手触りが違う気がした。そして、急いで取り出す。それを見て、僕は目を疑った。

「……はぁっ!?」

 そのカードには、不思議な文字が浮かび上がっていた。

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