episode4【破壊環境に悪夢】
大学院の教室のドアを突然大きな音を立てて開けたのは、夜宵とよく似た顔をした人物だった。その人物、朔乃は目の色を明らかに変えていた。その理由とは、考えるに値しないと僕は思った。
ずかずかと上級生が集う教室に、下級生の朔乃が入って来る。真理を確かめたかったが、今はそれどころでは無いようだ。
朔乃に声を掛けようとしても、真っ赤に充血したような目を見詰めると、つい言葉を失ってしまう。彼女から発される威圧が、尋常ではなかった。この世の物なのか、と疑いそうになる。
僕の隣で同じように驚いていた夜宵は、すぐに表情を改めて朔乃に近付く。一歩、二歩と距離を彼女が詰める度に僕の心臓は、どくんどくんと跳ねていた。
ゆっくりだった夜宵の歩行速度も、ついには普通の歩きに変わった。それと同時に、僕の鼓動はより一層速まった。これ以上は速くならない、と言わせる程、夜宵の普通の歩きは速かった。これが普通なのか、と不審に思う程だった。
やがて夜宵の速くなった歩行も終わり、彼女は足を止めた。夜宵と朔乃が目を合わせている。その様子を、僕は遠目から見ている。
彼女達が今、互いを眼前にして何を思っているのかは、姉妹ではない僕には分からない。しかし、対峙しているように見えた。まるで、異世界で戦った時のよう。ここから戦闘が始まらない事を願った方がいいのだろうか。
ドアの大きな音が鳴ってからは、物音一つしない。誰も立てようと思っていないからだろうか。それとも、立てようと思っても鳴らないのだろうか。寸法一ミリずつ心の中に不安が募っていく。
そして、長い沈黙の末。朔乃が大きく息を吸い込んで、静かに話し始めた。
「……先に報告しておきます。兄様は私が、」
一旦、短く言葉を切ってから――。
「抹殺しました」
突如、夜宵が息を呑むのが分かった。遠くで彼女達の様子を見ていた僕でさえ、分かってしまったのだ。
朔乃が厳しい声音で発した言葉は、先に繋ぐ事を許さなかった。ただ息を呑んで待て、と言われているような気分に夜宵はなっただろう。ここに居る僕でさえ、そんな気分になっているのだから。
夜宵は朔乃の言葉に続く物を探していた。しかし、思い付かない。本当に、朔乃から心の中へ命令されているようだった。何も言うな、と。
僕は今の夜宵に何も出来ない。朔乃を叱る事も、涼馬を助けに行く事も。何一つとして、出来ないのだ。
彼女達から目線を外し、僕は顔を伏せる。朔乃の明らかに変わっている目は見えないが、それでも威圧はまだ感じた。
「朔乃……。冗談は言わないでよ。勘違いしちゃうじゃん」
少し困ったように夜宵が口を開く。どうにか朔乃と会話をしているのが分かった。夜宵が朔乃の言葉に続けている事にとても驚いたが、僕は顔を上げられなかった。
微笑を浮かべているであろう夜宵は、そのまま口を噤んだ。自分で口にした言葉に自信が無くなったのだろう。そう理解した僕は、思い切って足を夜宵と朔乃が居る方へ進める。相当の勇気が要るようにも感じられたが、それ程の勇気が僕の中のどこから湧いたのか、自分でも分かっていなかった。夜宵の言葉は理解しているのに。
ゆっくり歩いたつもりでも、すぐに彼女達の前に立ってしまった。たった数十メートルの距離を、速度を落として歩こうとする方が無茶なのかもしれないが。
右からは朔乃が僕を睨み付け、左からは夜宵が不審な物を見るように僕を見詰めていた。その一方、夜宵からの目線が期待されているように感じられて、突然プレッシャーが大きくなった。
息が詰まりそうになるのを堪え、僕は先程と同じように思い切って口を開く。
「朔乃。お兄さんを抹殺したってどういう意味合いだ? はっきりと言ってくれ」
僕は朔乃に睨み返すように言った。吐き捨てにも似たその言葉は、この状況をも上の空に捉えていた朔乃に、大きく響いたようだった。それが何とも嬉しく、僕は心の中で大喜びをした。しかし、当然の如く表情には出さない。今ここで顔に出てしまっていたら、朔乃のみならず、夜宵にまで馬鹿にされてしまう。
夜宵からの視線は無くなり、彼女は実の妹、朔乃を見ている。一瞬だけ夜宵の姿を視界に留めたが、そんな僕には気が付かなかった。
二人からの視線を受け止めた朔乃は、何かを諦めたかのように大きな溜め息を吐いた。そして、一言だけ――。
「存在を消しました」
いちいち彼女が言う言葉は、重要性が半端では無かった。それなのに朔乃は、何とも思っていないかのように、すんなりと言葉を発するのだった。何か問題があるのか、とでも言いたげな目がこちらを向いている。僕は思わず失言してしまった。
僕の問いに答えた彼女が今、どんな気持ちでこの状況を捉えているのか、とても興味が湧いた。と同時に、本当の敵になったのか、という気持ちが心の大半を占しめた。
心に空いた三割程の感情は、夜宵に向けられた物だった。
朔乃の言葉を真実として受け止めるのか、偽装として受け止めるのか。それが一番気になった。そして、その答えはどちらでもない事がすぐに判明した。
「とりあえず帰ろう、もうこんな時間だもん。それから兄様の事は考えるよ」
冷静なまま、夜宵はそう言った。
彼女の言動が信じられなかった。もとより、それは信じていい物だったのか。理解しようと試みても、今の僕には出来ない事だった。
これ程までに僕が愛する女性、暁夜宵とは強い人間だったのか。両親も他界し、兄弟も居ない僕にとって、本当の姉のような存在だった。どんな時でも頼りになり、どんな時でもどうしようもない僕を助けてくれる。時には僕が彼女を助ける事もあったが、それでも僕は、夜宵の笑顔に救われて来たのだ。
現にそうだ。まずは現実を自分の目で確かめようとする。それこそが最も人間らしい一面ではないのか、と僕は思う。一歩踏み外せばそこは奈落の底なのかもしれないが、それを恐れずに突き進む夜宵は、誰からの信頼も厚いと思う。こんな同級生をもっているなど、自慢でしかない。僕が胸を張れる唯一の事ではないか。
夜宵がくるりと身を翻し、彼女の背がこちらに向く。ただ鞄を取りに行っただけなのに、僕は今朝の事を思い出した。
僕から夜宵が離れる事は無いと脳内では分かっていても、遠くへ行ってしまう気がして仕方が無かった。それをどうしても打ち消せずに居た。
そして思い留まれず、僕は夜宵の腕へと手を伸ばした。しかし、掴む事は出来ず失敗に終わった。その行動で、僕はもっと不覚に陥った。今すぐ彼女に僕の名を呼んで、微笑みかけて欲しいと、瞬間的に思った。
その願いが現実となるには、そう遅い事では無かった。
「燈嘉?」
現実ではなく、思考に意識を集中させていたので、僕は咄嗟に顔を上げる。すると、そこにはもう夜宵が鞄を持って居て、僕の事を待っている様子だった。
願いが叶った事は喜ぶべき事だが、彼女を待たせる事は出来ないと思い、すぐに鞄を取りに行く。
もし今願った事が夜宵に伝わったのだとしたら、それはもう以心伝心どころの現象ではないのかもしれない。そう考えながら、僕は夜宵の後ろ姿を見詰める。しかし、後ろ姿だけでは彼女の真情までを知る事は不可能だった。
朔乃と対立するように立っている夜宵は、僕の視線に気付いたのか、さっと振り向いて来た。驚いて顔を伏せそうになったが、それでも我慢して顔を上げていた。夜宵が僕に向けた表情は、まるで朔乃との会話が出来ない、とでも言うかのようだった。
朔乃から発せられた言葉の意味を深く考えながら、夜宵のもとへ歩いた。急いで戻らなければ、と思う程、脚はどんどん重くなって、ついには彼女達に不審がられるまでになってしまった。
「燈嘉、大丈夫?」
先程よりも重みを帯びた言葉が僕に届く。大丈夫だ、と返事をしたかった。しかし、脳内でそれだけは言うなと命令が下されているような気分になって、必死に上げていた顔を伏せてしまった。
自分に打ち勝てない僕が、どうしようもなく悔しかった。自分で自分を見捨てたい気持ちになった。海老のように抜け殻を落としたい気分になった。新しい自分になりたかった。それでも、今は出来なくて、顔を伏せているだけだった。
「ごめん、急いで行こうか」
脳内での命令を確認しながら、僕は夜宵に嘘を吐いた。それは一生僕の中に残り、一生共に過ごしていくんだという自負があった。
朔乃が立っているにも関わらず、僕は教室から無理矢理出た。廊下に出ると、教室とは違う空気が僕を包んで、新鮮な気持ちにさせてくれるようだった。が、それは比喩だけで、実際には改心なんて出来なかった。
廊下には誰一人として居ない。きっと僕達が居る教室以外は、もう誰も入っていなくて、空っぽの教室が並んでいるだけなんだと思った。そう思うと、なぜだか清々しく気持ちが楽になるような気がした。しかし、それも比喩。実際に気持ちが変わる事は無かった。
先程とは打って変わって、今度は夜宵が僕の背中を見詰めていた。視線を感じたので、振り向いて彼女がそうしたように僕も哀れみを纏った表情を見せてみた。すると、夜宵は急に動き出して、朔乃の手首を優しく握った。そこで僕は、本当に姉妹なんだと実感させられた。
「朔乃も行くよ。兄様を確認しなくちゃ。例え、朔乃が抹殺したって言ってもね」
厳かな雰囲気を漂わせながらも、夜宵は優しく朔乃に声を掛けた。そして、腕を引く。しかし、朔乃は微動だにせず、行く先を濁した。
突然の事で、夜宵は振り返った。相変わらず朔乃は夜宵の顔を見詰めていたが、その瞳には、悪魔のような感情が篭っていた。
僕や夜宵が声を掛けようとしても、その瞳が遮っていた。何があったのか、何を思っているのか聞こうとしても喉が詰まったように声が出なかった。息をするのも、一苦労だった。
こんな風に朔乃に威圧されるのは、初めてと言っても過言ではないのかもしれない。それ程、僕は彼女の力が加わった瞳が恐怖だった。
僕と夜宵が口を開けなくなった状況で、朔乃は悪魔のような瞳で笑った。何が面白くて笑ったのか分からなかったが、それは彼女の言葉で分かる事になった。
「確認なんてしなくても、分かる筈です。燈嘉さんが持っているカードで」
カードという単語を聞いた瞬間、僕の体が硬直するのが分かった。視線すら動かなかった。ポケットに入っているであろうカードを取り出して見たいが、何をするにも体が動かない事に変わりはないので、取り出す事は今の状況では不可能だ。
視界には自分の手が入っていないが、痙攣し始めているのが分かった。そして、武者震いのような震えが僕を襲い始めていた。
次第に、背中には冷や汗が浮かび。乾く事を禁止するように、次々と焦りが押し迫る。
自分の呼吸が荒くなっている事に気付き、僕ははっと勢いよくその場の酸素を体内の二酸化炭素と取り替える。新鮮な酸素が入ってくると、背中の冷や汗が乾いていくような気がした。しかし、実際には乾いていなかった。
まるで入り組んだ迷路の中に入ったかのような錯覚に陥っていた。ここが大学院だという事も、眼前で夜宵に心配されている事も、分からなくなってしまいそうだった。そんな僕を現実に戻したのは、夜宵の最愛の妹だった。
「燈嘉さん、カードを出してみてください」
朔乃に指示されると硬直していた手がいとも簡単に動いた。
口内に溜まった唾液を大きく飲み込んでから、僕はズボンの右ポケットに手を突っ込んだ。その中には、相変わらず紙のような触感のカードがあった。しかし、取り出すのにはとても勇気が要った。そして、取り出せない自分が恥ずかしく悔しかった。
朔乃と夜宵の目線は変わらず僕を捕えていて、期待するように朔乃が見ている。それに加えて早く出せ、と言われているような気がする。
心の中で大きな決心をしてから、僕はゆっくりカードを取り出した。そのカードは僕よりも夜宵を釘付けにした。
そのカードとは――。
血のような赤で染まっていた。
「きゃっ……!」
夜宵が驚くのも無理は無いと思われた。夜宵は驚き、そのまま僕の腕へとしがみ付いた。いつもならそれを喜ぶ僕が心底に居るが、今はそんな状況では無い。そして、朔乃の一言で再び驚愕へ陥る事になった。
「これは、兄様の血液です。私が転換しました」
何事も感じていないような素振りで、朔乃はすっと言った。その神経が、信じられなかった。
目線だけで僕は、カードと朔乃の顔を何往復もしていた。それに気付いた時にはもう、何もかもが遅かった。
僕と夜宵は、朔乃が出現させた渦を巻く黒い扉のような物に吸い込まれていた。
目を開けたら、もうそこは異世界の筈だった――。
★☆★☆★
体の上に何か重い物が載のっているような感触がした。しかし、目を開けて確認しようという気にはなれなかった。倦怠感が体に纏わり付いているかのような感じがして、何をするにも面倒だった。
やっとの思いで目を開けてみると、僕の体には本当に何かが載っていた。そしてその何かとは、夜宵だった。
僕の体の上で唸っているようにも見える彼女は、もぞもぞと動き始め、ついには僕の体の上から落ちてしまった。急いで体を起こして助けようとしたが、夜宵は自力で起き上がれたようだった。
意識が朦朧とする中、夜宵は頭を振って確かに目を覚ました。彼女がそうするように、僕も辺りを見回した。
僕の視界には、人影が全くと言っていい程無い商店街。軒並み連ねる店は、シャッターが閉まって営業はしていないようだ。それどころか、もう閉めて何年も経ったかのような雰囲気を醸し出している。ここは本当に、現実なのか。
通常の商店街ならば店の近くに植物などを置くが、ここの商店街には植物が一切無かった。植物どころか、古びた新聞紙が風で舞っている程だった。その新聞紙を拾い上げ、日付を見てみると、一九九二年だった。驚いて僕は、腰を抜かしそうになる。
僕の中では、ここが異世界だと信じようとする自分が居る。しかし、根拠も無いのにそう信じるのは不条理だという自分も居る。まずは僕の中に居る二人の処理から始めなければいけないようだ。
そこの情景に目を奪われ、僕の中の自分に感情を奪われそうになりながらも、僕は懸命に夜宵と会話を進めていた。
「ここ……」
夜宵が、『見た事がある』と言いそうな口調で声を発する。それが耳に届いた瞬間、僕は目線を彼女に向ける。いつも通りの優しい印象を与える筈だったが、僕の中に居る自分と戦っているうちに苛立っていたようだった。その証拠に、言動が荒くなり、夜宵に当たってしまった。
「見た事あるの?」
ほんの少しの変化を、夜宵は読み取ったようだった。軽く息を吸いながら、彼女は僕の言葉を聞いて驚いた。無理矢理の笑顔で誤魔化そうとしているのが分かった。それが胸の中で響き、軋むような気がした。
「ううん、何でも無い。どこだろう、と思って」
そう夜宵は言った。しかし、僕には分かった。夜宵がここをどう思ったのか、ここがどこなのか。その全てが僕には分かってしまった。
間違いは無い筈だ。きっとここは――。
「ここ、僕達の家だよね」
無理矢理笑顔を取り繕っていた夜宵の表情が一変した。驚きの表情ではなく、『燈嘉も気付いていたの?』とでも言いたげな表情。
僕が今、発した言葉の意味。それは、そのままの意味だ。
僕達が今、立っている場所は正しく僕達の家の前だった。僕と夜宵の実家は隣接しており、視線の先には懐かしい実家がある。
しかし、懐かしい実家の風景を眺ながめていたいという気持ちは更々無く、ただ心には憎しみと屈辱が現れていた。
僕の言葉を聞いて、夜宵は顔を地面へと向けてしまった。その行動が、この現状を事実だと言っているように感じられて仕方が無かった。
「とりあえず、朔乃を捜そう。朔乃から全部を聞き出して、――」
「無理だよ、きっと」
僕が勇気を出してトーンを上げた声は、夜宵によって遮られた。俯いたままの夜宵は、僕の顔すら見ずに、そう告げた。それ以上の説明は不必要だと思われた。しかし、気になって僕は質問をしてしまった。脳内では、分かっていながらも。
「何で無理なんて言うんだよ。捜したら、見つかるかもしれないんだぞ」
一歩彼女に近付いて、答えを求める。その答えはもう、僕は分かっていた。どんな答えが来るのか、夜宵がどんな言葉を使うのかさえ。
そして、最期の言葉であるかのように、夜宵は僕に告げた。
「朔乃はもう……、居ないんだよ」
重みを帯びた夜宵の言葉を、僕の心と体が拒否した。受け止め切れなかった。
朔乃が在いない。その事実であり、妄想である言葉は、僕が嫌いな物だった。
先程まで共に話していた人物が、存在しないという事が有り得るのだろうか。何も理解し合えていない人と、理解せずに終わるなんて事があっていいのだろうか。
夜宵を視界に留めたまま、僕は硬直してしまった。こうなってしまったのは、暁家が関係し、夜宵が口にしてはならない言葉を口にしたからだろう。
朔乃が異世界人と知り、涼馬が朔乃に殺され、夜宵が朔乃の存在を否定する。
最低な家ではないか、と僕は咄嗟に思ってしまった。愛していた筈の人物を、そう思ってしまったのだ。愛した人を最低だと思う自分もまた、最低だった。
考えていくうちに、僕は暁家に怒りを抱いた。愛していた人すらも怒りに加えた。
そして、僕は行動に移った。
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