episode3【陰謀の始まり】

 謎の力を持つカードを手に入れてから、もう十三年が経った。今は気に掛ける事も少なくなったが、それでもどんな状況にでも応じる事が出来るそのカードを、手放す事は無かった。そして、いつしかそれを持ち歩く日が来てしまった。持ち歩かざるを得ない日々になったのだ。

 僕にとって、携帯電話よりも大切になっていた。

 いつものようにカードをポケットに入れて、大学院へ行く仕度をしていると、突然玄関の戸が大きく叩かれた。体を震わせて僕は驚いた。時間が早い訳ではなかったが、近所に迷惑になるのでは、と心配させる程の音量だった。

 大きく叩かれたドアを恐る恐る開けようとし、ドアノブをゆっくり回した途端。

「燈嘉っ! さ、朔乃が……!!」

 僕の家に飛び込んで来たのは、夜宵だった。そして、彼女が短く発した言葉で、僕は何を言いたいのかが分かってしまったような気がした。

 夜宵は酷く焦っており、僕に縋るような思いだったのだろう。顔を紅潮させ、額には冷や汗と思しき滴。そして、おまけに目にはきらきらと光り輝く水滴が浮かんでいた。

 咄嗟に僕は、どっきりなんかじゃない、と判断して、持とうとしていたリュックをその場に下ろした。

「どんな状態だ、夜宵!?」

 朔乃がいると思われる部屋へと体を向けた。少し声を張り上げながら、僕は背後の夜宵に問うた。しかし、すぐには返事が無かった。遅れた返事には、微笑と言える物が混じっていた。

「あのね」

 反抗するように勢いよく後ろを振り返ると、微笑している筈の夜宵が目に浮かべていた涙を零していた。笑いすぎて泣けたという訳では無さそうだった。そうなれば、本当に泣きたいと思っていたのだろうか。急な状況変更で、僕の頭の中は迷路のように入り組んでしまった。

 そして再び突然の事が起きた。それは、眼前の景色の暗転だった。

 もう何も見えない。今の今まで話していた夜宵の姿も見えない。四方八方を暗闇に囲まれ、僕は混乱し始めた。そして、声を上げる。

「夜宵!? おい、どこだ!」

 しかし、その声は辺りに響くだけで空しく消えて行った。返事が無いまま、そこに立っていた。こんな状態では何をするにも困難を伴う。混乱や焦りどころの問題ではなくなっていた。

 考えを改めようとすると、暗くなった景色が一気に明るくなった。まるで、希望の光が差し込んで来たかのようだった。

 そして、僕は気が付いた。



「ゆ、夢……?」

 自室の物と思われる天井を見詰め、僕は呟いた。今まで見ていた夢が、正夢まさゆめで無い事を確認したかった。しかし、その術が思い付かなかった。

 上体をゆっくりと起こし、大きく欠伸と伸び。季節が夏でもないのに、着ているスウェットが汗でびっしょりと濡れていた。それに気が付いたと同時に、一粒の汗が額から頬を伝って布団へと落ちた。おかげで、体は冷え切ってしまっている。

 武者震いのように盛大な身震いをしてから、膝の上に乗っている布団を剥ぐ。少しだけ頭痛がするようにも感じられたが、大学院に行かなければならない事に変わりは無かった。

 色々な事を我慢しながらキッチンへと向かう。そこにはステンレスの流し台と簡素なテーブルが一つ置いてあるだけだ。ここへ引っ越して来た当初は寂しい気もしていたが、今は気に留めていない。むしろ、気に入っているくらいだ。

 コップ一杯分の水を静かに汲み、十五秒程度眺めてみる。

 この水のように僕の心は澄んでいるだろうか。満足できる人間に成れているだろうか。自分以外を危険な目に遭わせていないだろうか。

 そんな自分を責めるような感情が湧いた。そして、嫌な感情と共に水を一気に飲み干した。すると、なぜだか心が軽くなったような気がして、体に溜まっていた息を吐きながら満足げな声を小さな声量で出してみる。

「ふぅ……」

 僕の声は誰にも届きはしなかったが、それでも嬉しい気持ちになった。そして、もっと嬉しい事が起きた。

 ドンドンドンっ! 突然叩かれた玄関の戸が、僕を呼んでいた。これは夢なのか、と咄嗟に思ってしまった。しかし、今度はそれを確かめる術が確かにあった。

「燈嘉、居る? 夜宵だけど」

 確かめる術とは、自分の感情だった。夢の中ではただただ行動しているだけだが、現実、つまり今ではしっかりと思う事がある。今、思っているのは夜宵が来て嬉しいという事だ。

「居るよ。ちょっと待ってね」

 優しく夜宵に応答し、なぜだか覚束無い脚で玄関の戸に辿り着いた。サンダルを履くにも面倒な気しか起こらず、仕方なく裸足でその扉を開けた。

 目に映ったのは広々としか言いようがない景色だった。そこに夜宵の姿は見当たらなかった。今は現実に居る筈だったが、夢の中に入ってしまったのではという錯覚に陥った。しかし、その考えはすぐに消え去った。

「あぁ、ごめん。今日は一緒に行こうと思って。どう? もう準備は出来てる?」

 隣から出て来た夜宵の姿がすぐ目に入った。彼女の言葉を聞くなり、僕は胸を撫で下ろした。急に姿を眩ませるなど、心配するほか無い。焦りと心配と不安だけが取り残されるのみだろう。

 しかし、少しだけ考えてみろ。今、彼女は何と言った? 『一緒に行こう』と……? それは、僕と一緒にという事なのか。それとも朔乃も居て三人で行こうという事なのだろうか。そこまで考えて僕は思い出す。

 朔乃は異世界で気を失って、まだ目を覚ましていないのだ。だから、朔乃と三人で大学院へ行く事は出来ないのだ。つまり、僕と夜宵と二人きりで大学院へ向かうという事になる。

 そう思うと僕は急に胸が苦しくなった。苦しいというよりは、縮こまるという方が近かった。

 夜宵は朔乃が心配な筈なのに、こうして僕に構ってくれている。ありがたい事だが、今は朔乃に付きっ切りでも構わない。元気で健全な僕になど構わなくてもよかった。それよりも、朔乃の看病に徹して欲しかった。

 僕達が大学院に行っている間に、朔乃が目を覚ましたら誰も気が付く人が居ないのでは、と僕は思った。しかし、その考えもすぐに消え去った。

「朔乃の事は心配しなくていいからね。兄様が居てくれるって言うし、目が覚めたらすぐに連絡をもらえるようにしてあるから」

 まるで僕の脳内を見透かしたかのように、夜宵が言葉を発した。驚いたが、納得が出来るものだった。

 もう僕の中には疑問は無い。それでも僕は夜宵と大学院に行く気にはなれなかった。風邪を引いている訳ではないのに、大学院に行かないのは不自然だ。元より、仮病を使おうとした時点で夜宵に叱られるだろう。『サボるな!』と……。それだけは勘弁だ。

 半ば諦めかけて僕は口を開いた。言葉よりも先に溜め息が出そうだったのを必死に抑え、夜宵の目を見詰めた。改まった表情になった彼女は、微笑むでもなくただ僕の言葉を待っていた。

「もう少しで準備は終わるから待ってて。すぐに終わらせるから」

 夜宵にそれだけを告げ、僕は部屋の中へ戻った。後ろには夜宵がまだ居るが、振り返る気にはならなかった。

 早く準備をする筈だったが、何かと考え事をしていて、ついには十分が経ってしまった。玄関の先には夜宵が立っている。彼女の顔には不満と怒りが滲み出ていた。急ごうと思う程、僕の行動は遅くなっていった。

 玄関から外に出ると、部屋の中には差し込んでいなかった日光が眩しく感じられた。一瞬だけ目を細めて、僕は景色を見詰めた。

 こうしている間も、夜宵は朔乃が心配ではないのだろうか。そればかりを考えてしまって、今の状況に関心が無い。だから夜宵からの厳しい視線にも気付けなかった。

「燈嘉……。何考えてるか分からないけど、変な事だけは考えちゃ駄目だからね」

 冷静にそう言った夜宵を改めて見詰めると、眉間に皺を寄せて僕が変な人だと言われているような気がした。そして、突如焦燥感に駆かられた。

「変な事なんて考えてないし! そんな変な人だと思ってたの?」

 僕が大きくした声量で今一度彼女に問うと、夜宵は深く肯いた。これは諦めた方がいいと思い、僕は言葉を続けず終わりにした。

 こんな掛け合いは日常茶飯事だが、気になっている事は脳内から簡単には消えてくれない。夜宵とふざけて話す事は楽しいと思うが、今はいつもより楽しむ事が出来ない。

 夜宵が僕の背を向けて歩き出した。しかし、それを早足で追う事が出来なかった。何だか、今は夜宵から距離を置いた方がいいと思えた。

「燈嘉、早く行かなきゃ!」

 鶴の一声とも言える夜宵の言葉で、僕はやっと歩き出せた。笑顔で僕を待ってくれている夜宵のもとへ駆ける。それでも、僕には夜宵が遠く感じられた。


     ★☆★☆★


 今も目を閉じたままの朔乃を見て、兄は固まっていた。喪失感に浸っている訳ではない。ただ、この状況をどう処理していいのか分からなかったのだ。

「看病とは言ったものの、何をすれば……」

 涼馬は呟き、手元にある携帯電話の画面を覗き込む。生憎、メールや留守電話は誰からも届いていない。暇潰しをしようとしても、何をしていればいいのか考える事が面倒くさい。

 携帯電話を軽く投げ、涼馬は床に寝転がる。ひんやりとした床の温度が、涼馬の背中に張り付く。身震いをしたが、すっきりしなかった。

 頭の中にはどうでもいい雑念だけが彷徨っている。今までこんな事は無かった。なぜ、こうなってしまったのか。涼馬にはそれだけが疑問だった。

 しんと静まり返ったこの部屋が、今は自分の敵かのように思えた。涼馬に襲い掛かって来ているかのような衝動に一瞬駆られた。しかし、それも雑念の一種だと思い、別の事を考え始める。

「兄として夜宵に負ける訳にもいかないしな……。――どうしよっかなっ!」

 悔しいと心の底で思っていてそれを口にするには、結構な勇気が要った。急に大きな声を出して自分を元気付けようとしても、無駄な努力だった。そして、より一層虚しくなった。

 涼馬の明るい疑問に答えてくれる人物は居らず、再び静寂が押し迫って来た。もうそれには耐え切れず、涼馬は体を起こした。不意に眠ったままの朔乃の姿が視界に入って、咄嗟に息を呑んだ。

 今の朔乃の顔は、まるで本当に死んでしまったかのように美しく、青白かった。化粧をしている訳でも無いのに唇が妙に赤く、頬は白にも似たピンクで染まっていた。見詰めると吸い込まれそうになる瞳は、そこには無かった。

 酷い感情が浮かび上がるのを感じた涼馬は、すぐに朔乃から視線を逸らせた。

 静寂にも耐えられず、酷い感情にも耐えられない。なんて未熟で悲惨な人間なのだろう、と涼馬は今の自分をそう評価した。それを否定してくれる人物は、涼馬の明るい疑問に答える人物が居ないように、それもまた居なかった。

「する事、本当に無いな……」

 それだけを呟き、涼馬は再び寝転がった。そして、そのまま深い眠りについてしまったようだ。そこから涼馬の脳内には、朔乃が起きた記憶が無い。


     ★☆★☆★


 僕と夜宵は周りと同じように、何事も無いように大学院へ向かった。いつも通りのふざけた掛け合いをして、二人で大笑いして。ただそこに朔乃が居ないという現実が、僕達の心に曇りを見せていた。

 ふざけた掛け合いも徐々に回数を減らし、ついには大学院の手前五百メートルぐらいになると、もう僕達は言葉を交わさなくなった。互いに朔乃について、考えたかったのだろう。実際、僕はそうだった。

 大学院の門を潜ると、突如大きなサウンドに囲まれ、僕と夜宵は目を丸くした。俯かせていた顔を上げてしまった程だ。今まで考えていた事など、一瞬で吹き飛んでしまった。

「樫宮、暁! 元気か!?」

 右側から名前を呼ばれ、そちらを向く。すると、同学年の男子が太い鉢巻はちまきをして、そこに立っていた。鉢巻をしている理由は分からなかったが、今はそういう応援のようなものがありがたく感じた。

 朔乃が目を覚まさないという現実は変わらないが、それだけで気持ちが楽になったような気がした。

 驚いたが僕達は彼に微笑みを返し、大きく肯いた。すると、そこに立っている男子は、僕達よりも深い肯きと笑みを返してくれた。

 僕が夜宵の顔を見ると、夜宵は呆れたような、しかし嬉しそうな笑顔を浮かべていた。そこに言葉は不必要だった。

 気持ちが軽くなったまま、僕達は講義が行われる教室へ向かった。



 午後五時。全ての授業が終わると、一斉に大学院生が門へ向かって行く。それに付いて行こうという気持ちにはなれず、僕はそのまま自学習が行われた教室から外の景色を眺めていた。

 溜め息が何度も出そうになりながら、僕はただただぼうっとしていた。不意に、夜宵が教室へ入って来て、僕の隣の席に腰を下ろした。

 何かを言うのだろうか、と微かな期待をしていたが、彼女は何も言わず、しんと静まった空気が間の繋ぎを果たしていた。

 いくら家で涼馬が朔乃の面倒を見ているとしても、心配なのは変わりない筈。しかし、夜宵は家路に着こうとしない。なぜだろう、と思いながらも、僕は外の景色を見続けた。今は夜宵の顔を見る事が出来なかった。

 どんどん時間だけが過ぎて行き、ついには五時半を回ってしまった。それでも僕達は席を立たなかった。 理由などもう考えさえしなくなった。それを考えていたら、とっくに家路に着いている筈だ。

 夕焼けも落ち、薄く光りだした星が、空を色付け始めた。その頃に、夜宵が席を立った。帰るのかと思い、僕は初めて彼女の方向を向く。しかし、夜宵は教室から出て行かなかった。それどころか、僕の席の隣に立ったのだ。

 今まで無言で通り過ぎた時間の穴を埋めるように、夜宵がゆっくり確かに何かを語り出した。

「もし私達がこのまま家に帰らなかったら。この世界はどうなるんだろうね。きっと何事も無かったかのように、いつも通り廻って行くのかな」

 夜宵の言葉には、空しさが募っていた。今だから話さなければならないのだろうか、と咄嗟に思ってしまった。何の為に、今彼女が話しているのか、僕には分からなかった。

 しかし、その中でも僕は、この状況で夜宵が言いたい事が分かったような気がした。それは、『ここに二人だけで残りたい』。

 もう既に残っていたが、それでも二人だけの空間に行きたいという思いが伝わって来た。二人だけの空間とは異世界しか無いのだろうか。一瞬だけそう思ったが、すぐにその考えは夜宵の自答で遮られた。

「きっと廻っちゃうんだろうな……。私達をいて、先に進んで行くんだね」

 語尾を弱めて、夜宵はくすっと小さく笑った。その途端、僕は視線を無意識に伏せてしまった。言葉を掛けたいが、掛ける言葉が見つからない。本当はそんな事は無い、と否定したかった。しかし、その思いとは裏腹に、僕の体は正直だった。

「措いて行かれるなんて、寂しいね。でも、僕は夜宵が居るから、心配はしてないけどね」

 無理矢理に笑って見せたその表情は、夜宵にちゃんと向いていただろうか。彼女を不安にさせていないだろうか。そこが心配になった。心配になったからこそ、すぐの視線を外し再び外の景色を見る事にした。

 しかし、それを夜宵が拒む。

「っ……!?」

 驚きのあまり、僕は声という声が出なかった。というよりも、出さなかったのが正解なのかもしれない。

 窓に向こうとした顔は教室内部に向けられ、瞬時に口を塞がれた。その相手が夜宵だった事に、一番驚いている。まさか、夜宵から唇を重ねて来るとは、思いもしなかったからだ。

 ゆっくりと時間が過ぎるのを確認しながら、夜宵は僕の顔から離れた。その顔には笑みが浮かんでいたが、やはり気恥ずかしさが圧倒的に全体を占めていた。真っ赤に染まった彼女の顔は、何とも言えぬ美しさを放っていた。

 二人だけの時間に自惚れていると、突然大きな音がして僕達は心臓を跳ねさせる。

 バァァンッ!

 その音源は、教室の扉だった。そして、それを発生させた人物とは――、暁朔乃。

 僕達はその彼女の姿を視界に留めたまま、体を動かす事が不可能になった。そして、言葉すら出なかった。

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