episode2【試行錯誤の世界観】

 あれ、僕は……?

 意識が自分に戻るなり、僕はそう思った。しかし、目を開ける事は出来なかった。もしここがまだ異世界ならば、朔乃に倒されてしまったという証明になるような気がしたからだ。

 僕は本当に倒されたのだろうか。ただどこかに隠れただけではないのか。夜宵をも置いて逃げた訳ではないのか。

 突如、僕の中に不安が募る。

 あそこまで夜宵が目の色を変えて、僕に襲い掛かって来るとは予想すらしていなかった。しかし、魔法のせいで心変わりしてしまったのならば仕方の無い事だろう。許したい訳ではないが、許容範囲だと思う。

 しかし、僕はどこに居るのだろうか。そして、朔乃に倒された筈の僕がなぜ生きているのか。様々な疑問が僕の頭の中を、ぐるぐると回転する。何一つとして、解決はしないのだが。

 諦めて、僕は瞼を重々しく上げた。幸い、眩しい日光はカーテンにより遮られていて、目を細める事は無かった。そして、僕の目は明確に、僕の部屋を映していた。

 見慣れている部屋をぐるりと一周見渡して、何の変化も無い事を確認する。一つは変化があっても可笑しくなかったが、本当に変化が無かった。それは、嬉しくもあり、勿体無くもあった。

 一度、自分の目を疑ったが、紛れも無くそこは僕の部屋で、何一つとして変化が無かった。これから、ここでいつも通り当たり前の生活をしてもいいのか、という不安が募り始める。そして、重要な事を思い出す。

 ここが現実だとすれば、夜宵と朔乃はどうなったのだろうか。自室でまた眠っているのだろうか。二人が気になり、玄関へ向かう。ふと壁に掛かった時計を見る。時刻は午前十時を回っていた。そして、日付が――。

「はぁ!? ちょっと待てよ、えっ!? 今日……。講義の日だ」

 そう叫んで呟き、僕は床にへたり込んだ。この時間からでは、もう間に合わない。既に講義は開始されているのだ。

 まず、焦りよりも解決策を探そうと、脳がフル回転する。その速さに、僕自身が付いて行けなくなっていた。

 とりあえず今からでも行けない事は無いので、大学院へ行く服装になって、荷物を持ち上げる。その荷物は普段よりも重く感じ、持ち上げるのが一苦労だった。無駄な荷物は入れていない筈だ。なのにここまで重く感じるのには、深い理由があると思った。然し、其れを考えている場合ではないので諦めた。

 再び玄関に向かおうとした、その瞬間。

「燈嘉君、居る? 涼馬だけど」

 ドア越しに聞こえた突然の声に驚きながらも、僕は急いでドアを開けた。眼前に立つ人物は、どこか不安そうな表情をしていた。何がそこまで、彼を不安にさせているのか、なんとなく予想が出来たが、それを知りたいとは思わなかった。

 まだ今日の整理が出来ていない頭で、僕は言葉を判断した。

「お兄さん、こんにちは。どうしたんですか?」

 本当はもっと急いだ言葉を発そうと思っていたが、なぜかおっとりとした声でしか言えなかった。それに不信感を抱いたのか、涼馬は顔を顰めた。その変化に僕も気付き、咄嗟に表情を改める。

「夜宵がここに居ないかな、と思って。来てないかな?」

 妹想いの兄でよかったな、と夜宵へのメッセージを思いながら、僕は頭を振った。

 彼の物言いから、夜宵は自室へは戻っていない事が分かる。だとすれば、あのまま朔乃と一緒に異世界に残っているのだろう。心配だが、戻り方も分からないのに、行く事は出来ない。

 ほんの少しだけ悔しさを噛み締めながら、涼馬の目を見詰めると、優しい微笑みが返って来た。

「そっか、ありがとう。燈嘉君は大学に行かなくていいのかい? もうこんな時間だし、そろそろ怒られちゃうよ」

 苦笑しながら、涼馬はそう言った。本当は僕なんかよりも、夜宵と朔乃が心配なのに。そう思うと、胸がきゅうと縮こまるような気がした。

 それでも僕は、今から大学院に向かわなければならない。

 彼の目には映らない場所で、僕は服の裾をぎゅっと強く握り締めた。手が震えてしまう程、強く。

「はい、じゃあ行ってきます」

 無理矢理に微笑んだ僕は、そのまま涼馬の顔を見る事は無かった。一度でも見たら、自分が自分ではなくなってしまうような気がして、怖かったからだ。

 僕が歩き出してから涼馬は喋った。僕の背中の大きな糧を取り除くかのように。そして、本当の兄のように。

「行ってらっしゃい、燈嘉君」

 優しさというベールに包まれたその言葉は、僕の心を痛めつけた。耳が優しい言葉を拒んでいるようにも感じられた。

 俯きそうになりながらも、僕は早足で家から、涼馬から離れた。彼の顔を見ると、哀れむ気持ちしか湧いて来ないのだ。

 僕には笑顔を見せているつもりでも、不安とほんの少しの疑いが伝わって来る。その視線に僕は耐えられなかった。耐えられる程、強くは育っていないのだ。涼馬や夜宵に比べたら今の僕は、雑魚程度の人間だろう。

 昼間でも人通りが少ない並木道をたった一人で歩き続ける。ここから家はもう見えない。当然の如く、涼馬の姿も見えない。

 心のどこかで寂しいという感情を感じながらも、僕は一直線に大学院を目指した。


     ★☆★☆★


 異世界では、意識が戻った夜宵と朔乃が口論をしていた。それは紛れも無い、姉妹喧嘩だった。

 第三者の観点で言えば微笑ましいのかもしれないが、当人達は嫌悪感で一杯だろう。

 風が穏やかに吹き、花弁達が優雅に舞う。そんな中で喧嘩とは、度胸があるのだろうか。それとも、こんな場所だからこそ出来る事なのだろうか。どちらにせよ、彼女達の気持ちにならなければ分からない事だった。

「朔乃は何で帰って来てくれないの!?」

「私はここで生き続けたいんです! 姉様には関係の無い事でしょう!?」

 この時、初めて朔乃が姉の言葉を拒否した。

 夜宵の大きく見開かれた目が、瞬きをするには長い時間が必要だった。そしてそのまま、彼女は俯いたきり、何も言わなかった。ショックという限度では無い筈だ。

 夜宵の言葉が止まり、朔乃の興奮も治まり始めた。荒くなった息を整えながら、朔乃は新しい言葉を発した。それは、先程のような拒否ではなく、ただの願いだった。

「姉様は現実世界へ戻します。もうここには来ないでください。私と会うのは、それが最後だと思います」

 それだけを言い残し、朔乃は夜宵に背を向けた。彼女が今、何を思っているのか夜宵には分かってしまった。そして、咄嗟に花の上を駆けていた。

 夜宵の胸には、彼女と同じ色をした髪。そして、彼女によく似た顔があった。

「何、してるんですか……、姉様」

 抑揚を失くした朔乃の声は、遥か彼方へと消えて行った。朔乃の言葉に続く夜宵の言葉は無く、ただふわふわとした時間だけが流れていた。

 数分が経つと、朔乃の耳に聞き慣れない声が届いた。それは、夜宵の嗚咽だった。

「最後なんて、言わないで……。朔乃が現実に戻って来ないなら、私もここに残る。大切な妹を残して行くなんて、酷い事は出来ないもん……。やっぱり一緒に、帰ろ?」

 夜宵の目から流れた雫は嗚咽と共に、朔乃が身に着けている服に吸い込まれていった。

 強く抱擁している夜宵が落ち着き始めると、朔乃が彼女の腕を解いた。落胆のような溜め息を朔乃は吐いた。その途端、夜宵がふっと俯けていた顔をふっと上げた。そしてそれが合図だったかのように、朔乃が黒く渦を巻いた扉のような物を出現させる。

「帰ってください。もう姉様と話す事は何もありません。さぁ」

 再び抑揚の無い声で、そう言った。その時、決して夜宵に顔は見せなかった。その表情は、悲しみを表しているのか。それとも、怒りを表しているのか。未だに乾ききっていない夜宵の瞳で見た朔乃の姿は、一人で責任を背負おうとしているようだった。それはどちらかというと、悲しみを表していると思われた。しかし、それは次の一瞬で否へと変化した。

「早く行ってください! そうじゃないと、私が――」

 そのまま、朔乃は美しい姿を地面に倒れさせた。それと同時に、彼女が出現させた扉のような物が消える。しかし、そんな事には夜宵は目も暮れなかった。ただ咄嗟に、驚愕を表した声が飛び出ただけだった。

「朔乃っ!?」

 現実に戻ろうとする意思は完全に消え、夜宵は朔乃に駆け寄った。今は敵同士のようになっていても、血の繋がった妹を見捨てる訳にはいかなかった。

 夜宵には、朔乃がなぜ倒れたのかを知る術が無かった。ただ苦しんでいる彼女を、見詰めて声を掛ける事しか出来なかった。それだけしか出来ない夜宵は、自分に怒りが湧いた。

「何が、どうして……? 朔乃、しっかりして!」

 もう既に、目には涙が溜まり始めている。朔乃の息が止まってしまえば、その涙は溢れてしまうだろう。

こんな時に、こんな場所で家族を失うなんて……。

 薄っすらと喪失を感じながら、夜宵は項垂れた。もう何も出来ない、と思い始めている。

 腕に朔乃を抱えて、青ざめた彼女の顔を見てみる。しかし、体全体が震えて、目には涙が溜まって確り見る事が出来ない。そして、発作的に叫びたくなった。

「燈嘉……、助けて。――燈嘉っ!!」

「――夜宵、もう大丈夫だから」

 僕は視界に夜宵の姿を確かに留めながら、花の上を歩いた。振り向いて来る夜宵の顔は、もう涙でぐしゃぐしゃになっていた。美しい顔が台無しだ、と心底で思いながら、僕は苦笑した。朔乃の命が危ういというのに、僕はなぜか心が穏やかだった。

「とう、か……? 兄様も……」

 ほとんど声が出ない喉で、夜宵は一生懸命に話した。僕と涼馬がここに居る事が、信じられないようだ。

 僕はあの後、大学院には行かず、再び家に戻った。そして、事情を涼馬に全て話し、ここへ向かって来たのだ。ここへ来る方法は無いと思い込んでいたが、カードに念を駄目下で送ってみた。すると、カードが真っ赤に発光し、朔乃が表した扉のような物が出現した。そこに迷わず飛び込み、ここへ来られたという訳だ。

 しっかりここに来られるという証拠は無かったが、夜宵と朔乃を助ける為ならば、この花畑に着けなくてもいいと思っていた。つまり、自分の身を犠牲にしてもいいと思っていたのだ。

 夜宵は僕の顔を見るなり、再び涙を零し始めた。ぼろぼろと落ちてゆく彼女の涙を見ながら、僕は心中で喜んだ。

 愛する人が僕を呼んでくれた。兄ではなく、僕を。そう思うと、喜びが上回って朔乃の事が頭から離れてしまう。彼女が第一に思っているのは、僕ではなく朔乃なのに。

 数秒だけ思考を巡らせてから、この状況の整理に掛かった。

「とりあえず、さ。朔乃と一緒に帰ろう? 手当てはそれからでも出来るから」

 僕の考えに夜宵はすぐに肯いた。その様子を、涼馬はずっと黙って見ていた。何か意見があるなら聞こうと思っていたが、顔を見ても視線を伏せられてしまう。僕が彼に何かをしだろうか、と心当たりを探してみる。しかし、それらしい事は無い。ただ夜宵が異世界に閉じ込められているという事実を伝えただけだ。それとも、異世界という環境に戸惑っているのか。

 それも無駄な時間で無駄な考えだと思い、思考回路を自ら断った。

 現実でしたように、再び手の内にあるカードに念を送る。これで失敗したら、暁家の三人に顔を見せられない。失敗するのだとしたら、せめて僕以外の人間が現実に戻れるようにしよう。そう心の中で決断し、強く念じる。

 朔乃が出した、黒い渦を巻いた扉のような物とは変わった形の物が出現した。少し戸惑ったが、本当の異世界人では無いので、その辺は上手く調整が出来無い。

 先に夜宵と彼女が抱えた朔乃をそこに通す。次に涼馬。しかし、彼は扉のような物には近付かず、脚を止めていた。不思議に思い、僕が声を掛けようとする。それと同時に、彼が声を発する。

「燈嘉君。この状況を、どう受け止めればいいのかな。ここから元の場所に戻ったら、いつも通りの生活が出来るのかな。こんな所の記憶は無くなるのかな。君達には楽しい所かもしれないけど、俺にはちょっと無理かな」

 苦笑しながらそう言い、涼馬は何かを諦めたかのように扉へ入って行った。それを僕は、静かに見ていた。

 涼馬が今、何を言いたかったのか僕には分からなかった。しかし、ただ一つだけ分かったような気がした。それは、彼が異世界を嫌っているという事。

 夜宵や朔乃に異世界に居たという記憶が残る事を、彼は嫌っているのだと思う。もしかしたら、涼馬が全ての嘘を吐くのかもしれない。僕には関係の無い事だと思うが、それでも何かいけないような気がしてならなかった。

 数分間考え続け、はっと我に返った。少しだけ扉の色が薄くなっている事に気付き、急いで現実に戻った。


カードの謎がまだ何も解かれていないという事は、真実に一ミリも届いていないという事に等しいのではないか。

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