episode1【果ての逆らい】

 異世界という名の場所は、イメージ通りではなく。幻想的、という言葉が全く合わなかった。いつも暗闇に包まれ、未来や明日を閉ざしてしまう物だった。そして、そこでは現実では起きてはならない事が、頻繁に起こっていた。

 今は、現実では滅多に目にしない物を僕は見詰めていた。誰もが、黙った空間の中で。

「え……。なに、して――」

「口を開くな!」

 一気に緊張感が体中を迸る。まるで今直に心臓が止まってしまうかのように。

 朔乃の言葉によって行動を遮られた夜宵は、目を見開いて動きを停止させた。目が泳ぐ事すら無いように思われた。しかし、夜宵は余裕があるように見える顔を、僕に向けた。そして、心配を掛けまいとしているのか、無理矢理笑った。

 夜宵の表情からは、無理しているのがよく分かった。心配にはならなかったが、じっとしている自分に腹が立った。

 今も真っ黒に染まった拳銃を朔乃は、実の姉である夜宵へと向けている。銃口は朔乃の心情を表しているかのように、夜宵を睨みつけていた。その中から銃弾が出て来ない事を祈るしか、今の僕には出来ないだろう。

 夜宵の気持ちを想いながら。



 僕は立ったまま。夜宵は銃口を向けられたまま。朔乃は拳銃を向けたまま。それぞれが、そのままの行動を取って、黙っていた。

 朔乃は誰かが声を発した時点で、持っている拳銃の銃口を即座に向けて、撃つ気なのだろう。だから、誰も口を開く事が出来ない。夜宵を助けたい気持ちが僕の中では膨らむが、自滅したいという願望は一切無い。これだけは、自分を犠牲にする訳にはいかなかった。

 ただ息をして時間を過ごしていた。しかし、その時。

「――つまんない。何もして来ないなんて、つまんない」

 そう言ったのは、漆黒の拳銃を持っていた朔乃だった。そして、淡々と言うと、夜宵に向けていた拳銃を下ろした。というか、地面へ投げ捨てた。

 夜宵の緊張感が和らいだのは良かったと思うが、まだ警戒心は解かない方が好いようだ。

 ガシャリと音を立てた拳銃は、僕達がそうであるように、独りになった。そして、動力を失くした。

 朔乃は、足が疲れたとでも言うように、花の上に腰を下ろした。夜宵の目線はそれと同時に、下へ下がる。これで話し易くなる、と朔乃は言いたいのだろうか。そして、その誘導で、夜宵が口を開く。

「本当に、朔乃なの……?」

 掠れた声で夜宵が朔乃に問う。返事は――無い。その沈黙は、否定と取っていいのか、それとも当たり前という意味なのか。真理がよく分からない。分かろうともしていないのだが。僕はただ、夜宵が心配なだけだ。

 僕が沈黙の中を歩くと、夜宵からの優しい目線と、朔乃からの厳しい目線がこちらを向いた。心臓を握り潰されているような感覚になりながらも、僕は夜宵の横まで歩いた。

 夜宵の肩を抱きながら、僕は朔乃を睨み返した。一瞬だけ怯んだようにも見えたが、厳しい目線は変わらなかった。

 なぜこうなってしまったのか、なぜこんな感情を抱かなければならないのか、僕には考えられなかった。というよりも、考えて答えが出てしまうのが怖かっただけなのかもしれない。

 それぞれが抱えている問題が露わになってきた。しかし、状況は変わらない。朔乃が異世界の秘密を口から出すまでは。

「何を願ったって、無理ですよ。私があなた達に逆らう事は、変わらない事実です」

 朔乃は、寂しそうな表情をして、少し俯いた。その真情が気になったが、容易く近付く事は出来なかった。そして、声を掛ける事すら出来なかった。

 視線を下にある花に移すと、隣で影が動いた。

「それでもっ! ……私は朔乃と、一緒に家に帰りたい。姉として、家族として、無理をしてでも、朔乃と家に帰る」

 一歩だけ朔乃に近付いた夜宵が言った。その瞳には、真剣に妹を想っている炎が宿っていた。その間に入る事は、許されないだろう。入ったとしても、僕はただの邪魔になるだろう。大切な姉妹の時間に、割って入る事は僕には出来ない。

 夜宵の言葉に微笑みながら、僕は朔乃の表情を確認した。しかし、彼女は一ミリたりとも、眉すら動かさなかった。

 姉の想いが篭った言葉を聞き流すなど、どこまで朔乃は朔乃ではなくなってしまったのか。少し悔しくなりながらも、朔乃の言葉を待った。それは、夜宵も同じだった。

 優しい風が吹き、数枚の花弁が宙を舞う。その中に立つ夜宵と朔乃は、まるで御伽噺おとぎばなしに出て来るプリンセスのようだった。

 ほんのりと赤くなった頬に、豊満な体。そして、何と言っても花にも勝らない香り。それぞれは、僕の気を誘っていた。僕はそれに釣られないようにする事が、やっとだった。

 眉すら動かなかった朔乃の表情が、雲が太陽の陽を遮ると同時に崩れた。それは、悪魔のような微笑みへと化していた。

「あなたが私の姉だと言っているのですか? ふざけるのも大概にしてください。――私に姉など居ません。ましてや、家族など」

 吐き捨てるように、朔乃は言った。夜宵の反応は、酷かった。泣きそうな顔をしているのに、涙を流す事が出来ない。そして、そんな夜宵に掛ける言葉が無かった。

 今すぐ、朔乃を殴り飛ばしたくなった。なぜそこまで言うのか、目を覚ませ、夜宵に謝れ、と言って。

 僕の怒りが絶頂に達すると、心の中で何かが弾けたような気がした。そして、それに気付いたときにはもう、全てが終わっていた。

「何、それ……?」

 夜宵が朔乃から目線を外して、僕の体を見ていた。不自然に感じられたが、自分の服を見て彼女が何を言っているのか、すぐに分かった。それを見て、分からない筈が無かった。

 僕の服は、簡易なTシャツではなく、完璧なスーツへと変化していた。そして、簡易なカーゴパンツは、丈が伸びてスキニーパンツへと変わっていた。腰には、今まで何も無かった筈の場所に、刃渡りが八十センチ程の剣。これはきっと、カードから現れた物だろう。だとすると、この服装もカードがもたらした変化なのではないのか。

 自分の新たな服装に驚く間も無く、僕は一気に朔乃を目掛けて駆け出した。足元に咲き誇る花達を、華麗に避けながら。

 最終的に、朔乃へ剣の先を向ける。にも関わらず、彼女は飄々ひょうひょうとした表情を保っていた。冷や汗すら、滲んでいない。

 今までした事がないような勢いで、僕は朔乃を睨み付けた。怒りと悔しさが満ち溢れる目で、朔乃を捕えようと試みる。しかし、朔乃は目線を僕から外して余裕を見せる。

 もっと悔しさが大きくなって、僕は天高く剣を持ち上げた。そして、朔乃を斬る直前。

「燈嘉っ!」

 後ろから愛する声が聞こえて、僕は動作を止めた。振り返ってみると、夜宵が歯をがたがたと震わせていた。不思議で見詰めていたが、ついに夜宵がこちらへ走って来た。今度は、僕が不安になる番だった。こちらへ来てしまったら、朔乃が逃げるかもしれない。そんな簡単な危険があった。

 しかし僕の予想は、現実とはならなかった。朔乃は、逃げるどころか、夜宵が来る事が嬉しいかのように微笑んだ。そして、数ミリだけ口を開いた。

「そんな物で、私が倒せるとでも思っているのですか? 甘いですよ、燈嘉さん。ちっぽけな剣では、私は殺せません。もっと強大な魔法じゃないと……」

 そう言って、言葉を切った。それが合図かのように、突然夜宵が叫び声を上げた。

 剣を向けて朔乃を睨んでいたので、僕は咄嗟に夜宵への変化を確認した。すると、叫んでいる体に外傷は無かったが、胸元に不思議な刻印があった。まるで、夜宵はその刻印に苦しめられているかのようだった。

 真っ赤に染まり、渦を巻いているように見えるその刻印は、本当に夜宵を苦しめていた。その証拠に今、煙を出している。煙を出す刻印など見た事が無かったが、とにかく大変な事が起きている事だけはよく分かった。

「夜宵!?」

 僕は刻印を確認しながら、夜宵へ駆け寄った。しかし、それはもう遅かった。

 突然、僕への強風が吹いた。そして、その風は、夜宵が発生させた物だった。彼女の手には、異世界ならではの魔方陣が描かれていた。それは、刻印とは異なった色で、煙を放っているのに対し、こちらは光を放っていた。

 強風で行く先を消された僕は、その場で脚を止めた。風圧に耐え切れず、止めていた脚が宙に浮く。バタバタと脚を振ったところで、どうにかなる訳でもなく、ただ体力を消耗していった。

「くっそ……っ! 夜宵! 目を覚ませよ!」

 僕が見詰める夜宵の目は、虚ろで朔乃と魔法に支配されているようだった。異世界の太陽は、夜宵の目と心にまで光を注がせる事は出来ないようだ。その証拠に今、夜宵の目が虚ろになっている。

 焦点が定まっていないようにも見える夜宵の濁った瞳は、僕を見る事も無かった。ただただ、刻印から発せられているであろう魔法を放出し続けるだけだった。その間も、朔乃は微笑んでその光景を見ているだけだった。夜宵を助けるでもなく、僕を倒すでもなく。ただ眺めているだけ。それに気付いた僕は、今がチャンスなのではないかと心底で微かに思ってしまった。

 しかし、その考えもすぐに消えた。

 しっかりとした意識が無い夜宵でも、妹である朔乃を傷付ける事を好まないだろう。先程、敵になった朔乃を守ろうとしたように。

 夜宵の言葉を思い出して、思い留まる。朔乃を倒せるとしても、夜宵が悲しむ顔を見たくない。二つに一つの選択で、僕は究極を迫られる。

 夜宵の笑顔か、自分の幸せか――。

「燈嘉さん。今すぐ、暁夜宵に倒されてください」

 すんなりと発せられた危険な言葉は、僕の脳内へと拒まれる事無く吸い込まれた。そして、僕は受け入れてから反抗した。

「簡単に倒される訳、無いだろ。倒されるなら戦った方がマシだと思うぞ」

 緊張感が滲み出る顔に、無理矢理の笑みを加えた。引き攣った笑顔が、朔乃の気持ちを曲げていくようだった。

 既に朔乃の目は色を変えており、敵愾心てきがいしんを露わにしていた。僕の名前に『さん』を付けたところで、味方になる訳でも無いのに。もういっその事、呼び捨てにしてくれた方が良かったのかもしれない。

 不適な笑みで向かい合った僕と朔乃は、次の一瞬で剣を交えた。朔乃はどこから剣を出したのか分からなかったが、素手では無いのが幸いして僕も正々堂々と戦えた。

 ガキンッ! という金属音が、花畑一帯に響いた。そして、その瞬間にも夜宵は魔法を放出していた。彼女の魔法が何を示していて、どんな効果を発揮するのか、まだ分からない事だが、何も起こらない内に朔乃を倒しておこうと思った。

「僕より先に倒された方が楽だと思うけどなっ!」

 語尾を強めて剣で朔乃を突き放した。後退りした朔乃はすぐに体勢を立て直し、再び僕を睨んだ。怯みそうになりながらも、僕は剣を構え直した。

 こうして剣を持って敵と対抗するのは人生で初めてだったが、なぜか体の底から力がみなぎってくるような気がして、自分の力を信じたくなった。カードから生まれたちっぽけな剣だと思っていたが、投じた念の強さによってレベルが上がる事を今初めて知った。

 数秒だけ剣を見詰めていた目を朔乃に戻し、戦いに集中する。まずは、夜宵を助ける為に、朔乃を倒さなくてはならなかった。

 上手くいけば、眠らせて現実へ連れて帰る事も可能なのだろうが、そこまで容易い相手ではない。警戒心をもっと高めて戦いに挑まなくては。

「どういう理屈なんですか、それは。逆に戦っている燈嘉さんの方が、きついのではないですか?」

 真剣な表情に、小さな笑みが見える。僕など、余裕で倒せるという証明なのだろうか。無性に悔しくなって、僕から一気に間を詰める。

 地面を蹴った足が遅れているのに気付いたが、今はどうでもよかった。ただ剣先が朔乃の中枢に届けば、自分の体などどうでもよかった。

「はあああぁぁぁっ!」

 気合と共に剣先が前に出る。しかし、それはいとも簡単に避けられてしまった。そして、僕の左腕に朔乃の剣が刺さっていた。一瞬過ぎて痛みは感じなかった。腕に剣が刺さっているという現実があるだけで。

 瞬間、僕の口から血が吐き出される。まるで胃の中を抉られているかのように気持ちが悪かった。血ではない何かまで吐き出しそうになった。しかし、それを我慢して、僕は血が混ざった唾液を吐き捨てた。

 未だに血の味がするが、腕の傷よりは我慢出来る物だった。

「マジか……。せめて腹を狙えよな、朔乃。腕とか卑怯だろ」

 開いた穴を右手で塞ぎながら、僕は朔乃に訴えた。敵愾心で満ちた朔乃の目を見詰めていると、心変わりをしてしまいそうになる。軽く走ってしまう衝動を抑えるのに必死だった。

 汗を額に滲ませながら苦笑いをすると、朔乃は腕をだらりと下ろして剣を地面に向けた。もう敵ではないと言っているのだろうか。不思議に思いながら、彼女からの言葉を待っていると、突然僕の体に異変が起きた。

 僕と朔乃からは遠く離れた所に居る筈だった夜宵が、もう僕の背後に立っていて、首を掴んできたのだ。爪がどんどん首に刺さる。苦しくはないが、恐怖が募っていく。生憎、今は両腕が塞がっており、夜宵の手を払い除ける事が出来ない。ただ殺されるのを待つだけなのだろうか。

 今の僕には、夜宵も朔乃も殺せるようには思えなかった。逆に倒して、現実に戻れる気もしなかった。


     ★☆★☆★


「さて、どうしたものか」

 涼馬はそう呟き、状況を確認する事にした。

 今まで話していた燈嘉と夜宵が消えた。そして、この場には涼馬が一人。どっきりか、とも思ったが、有名人でもあるまいし。

 外気の気温に晒されながらも、涼馬は着物のふところに入れていた煙草の箱を取り出した。しかし、中には一本も残っておらず、小さく舌打ちをした。

 燈嘉が朔乃と呼んだ人物は、本当に涼馬と夜宵の妹、朔乃なのか。今思えば、涼馬も燈嘉と夜宵に付いて行けばよかったのかもしれない。付いて行けば、こうして寂しい思いをする事はなかったのかもしれない。冷たい夜風に当たりながら、涼馬は思った。

 今は閉まっているが、燈嘉の家の中に朔乃が居るかのような話し方をしていた。開けてみれば、そこには燈嘉と夜宵と朔乃が居て、仲良く話しているのではないか。そんな予想が涼馬の頭の中では立ち始めている。

 寂しくなった感情を無視して、涼馬は再び夜宵の部屋へ戻って寝る事にした。

「この事は後で夜宵に聞けばいいか」

 そう涼馬は、開き直った。


     ★☆★☆★


 この状況は変わらないのか、と僕は疑問に思っていた。朔乃に剣を突き刺され、夜宵に首を掴まれる。僕の中では最高で最低なシチュエーションだった。

 最高という理由は、二人が美人だからだ。美しい人に殺されるなど、願ってもない事だろうから嬉しく思ってしまう。そして、最低の理由は、ただ単に殺されそうになっているから。死にたいなど、思っていない。現実に戻って来て欲しい一心なのだが、僕の気持ちは届かないのだろうか。

 どうしようもなくなったこの場を、沈黙でやり過ごす。時折、とても強い風が吹いて花弁が舞うが、その中に居る二人はいつもより美しく見えた。幻覚だと信じたかったが、それは真実だった。

 きっと誰も話さないまま、十分程経過しただろう。僕もよく長い時間を我慢したものだ。自画自賛ではあるものの、本当に凄いと思う。

 この状況に痺れを切らし、僕は口を開いた。空気が読めない、と非難の目を向けられる事も承知で。

「そろそろ離してもらってもいいかな、夜宵。ちょっと苦しくなってきた」

 まだ全然苦しくも無いくせに、僕は愛する女性に嘘を吐いた。その途端、心苦しくなった。息が出来ない訳ではない。気持ちが重くなったのだ。

 僕の言葉は届いているように見えて、届いていなかった。朔乃が何か夜宵とアイコンタクトを取っていたが、僕はそのまま無視をした。僕には不利な作戦でも始まるのだろう。

 そして、作戦が開始された。

 夜宵の手が僕の首から離れる。と同時に、朔乃が持っていた剣が前に出て来る。それを刺される直前で避ける。頬を掠る程、近くを通って、僕は目を大きく見開いた。

「危ねぇじゃねぇか! 不意打ちとか、卑怯だって言ってるだろ!? 何で分からないんだよ……」

「黙ってください。静かにしないと、もっと痛くしますよ」

 僕の言葉を遮るように、朔乃が言葉を発した。もう朔乃は、遊びで僕を殺そうとしているのではなかった。その目は正気で、獲物を捕える時にするものだった。

 その時。

「ぐっ……」

 朔乃には何もされていないのに、突如首が絞まったように息が出来なくなった。まるで金縛りに掛かっているよう。息が出来ないどころか、体まで動かなくなっている。これでは、朔乃が放った剣を避ける事すら出来ない。このまま、僕は朔乃と夜宵に倒されるのだろうか。

 死にたくない、という願望なのか欲望なのか分からない物が、心に浮かんだ。そして、咄嗟に体が動いた、気がした。

「っ……!?」

 戸惑った夜宵の声になっていない声が耳に入った。

 僕は全く彼女に触れていない。しかし、どこかを負傷しているようにも見えた。一体誰が、と思うが、朔乃が夜宵を味方にしているのでやったのは僕しか居ない。僕はいつ、何をしたのか。まるで自覚が無い。すぐに記憶を辿るが、ただ死にたくないと思った。それだけなのに、夜宵に攻撃を仕掛けたというのか。

 自分でやった事すら分からなくなっている自分が、馬鹿で阿呆だと思った。ふざけていると思った。

 しかし、その途端。怒りが湧いたのか、朔乃が光の速さで僕へ突進して来た。それには、僕は避けきれず、剣で抉るようにして、朔乃は大きな穴を僕の胸に作った。

 そして、僕の意識はそこで途切れている。

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