episode5【誓いに似た覚悟】

 僕の自室が無くなった事よりも、眼前に朔乃が居る事に驚いていた。

 玄関を開けた先に暗闇が広がり、その中心に朔乃が立っている。〝暗闇〟とは、決して比喩ではない。黒という色が無限に広がっている世界が、僕が知っている異世界という物だ。

ひ 微笑んだ朔乃は、今まで僕達が一緒に過ごした朔乃ではなかった。今までも異世界の使者として生きていたのかもしれないが、僕達はそんな気遣いはしていなかった。それ以前に、異世界という存在を意識した事が無い。この世に存在するのか、という疑問がただぎっていただけだ。

 僕の後ろでは夜宵が息を呑んでいるのが、よく分かった。きっと、口を押さえているのだろう。その証拠に、彼女から発せられた言葉が篭っている。

「朔乃……? これ、現実だよね……」

 震えた声でそう言う夜宵は、僕が立っている位置よりも先に進んだ。その行動が、朔乃の誘導とも解わからずに。

「それ以上行くな、夜宵。こいつは、朔乃じゃない」

 夜宵が踏み外しそうになった道を、僕が正す。言葉で制御すると、夜宵は信じられないと言うかのような形相をして、こちらを振り返った。

 彼女の表情は、信じていた人に裏切られた失望感を表しているようにも見えた。それもそうだろう。目の前に自分の妹が居るのに、抱擁する事が許されない。言葉を交わす事すら出来ないのだから。

 夜宵の顔を見ていると悔しさが心底から湧いて来るので、僕は彼女から視線を逸そらせた。誤解を生んでしまうかもしれない、という可能性を捨てて。自分を犠牲にしても、夜宵は守りたいという気持ちが、もう芽生え始めていたのだ。

 僕が愛する人は、危険に晒したりはしない。その決心のもと、僕は思い切って朔乃に言葉を掛けた。

「朔乃、何の為に此処へ来た? ただの様子見ではなさそうだが。特別な理由があるなら聞くぞ」

 鼓動は速まる一方で、落ち着いて話しているつもりでも早口になってしまう。僕の緊張は、容易く朔乃に伝わってしまうだろう。夜宵に似て、朔乃は人の気持ちを読むのが得意だから。

 一人で小さな考え事をして軽く笑うと、朔乃も笑うのが見えた。その瞬間、僕と夜宵の顔が強張る。

「何の用かって事? そんなの、今言った通りだよ。異世界に来て欲しいから、だよ」

 その言葉に僕は、すぐに返答した。しかし、それには様々な感情が入り込んでいて、めちゃくちゃな言葉になった。

「なら、僕だけが行く。夜宵は行かなくてもいいよな?」

 怒り、悔しさ、正義感。そんな感情が入った言葉は、朔乃の顔に笑みを浮かべさせ、夜宵の顔に焦りを浮かべさせた。

 朔乃は、呆れたような笑い方をしていた。一方の夜宵は、数ミリ口を開けたまま固まってしまった。彼女を助けようと思っても、今の僕には何も出来ない。

 気の利いた言葉も、気の利いた行動も無かった。ただ、沈黙を守るだけ。

「いいよ。重要なのは、燈嘉さんだからね」

 そう言い、朔乃は僕に背を向けた。それに付いて行くように、僕も歩を進める。しかし、その前を夜宵が塞いだ。初めて異世界へ行った時と、同じ状況が出来上がった。彼女は、マイナスな感情を顔に浮かべて、僕の顔を見詰めていた。美しい夜宵に見詰められるなど、願っても叶わない夢だと思っていた。しかし、そんな事を喜んでいる場合ではない。

「夜宵はここで待ってて。ちゃんと帰って来るから。もう、お前を危険に晒すなんて出来ないんだよ」

 言い捨てるように、僕は言った。見詰められている事に緊張しながら、胸の内を明けた。ほんの少しだけ、告白のようにもなってしまったが、思いは伝わったようだった。

「私だって……。私だって、強くなりたいもんっ! 燈嘉の横で、燈嘉を支えられる人になりたい!」

 涙目になりながら発した言葉は、説得力が強すぎた。それに勝てる言葉が、僕の頭の中には無かった。こんな事を言われてしまっては、連れて行くしかない。本当は、死んでもしたくはない手だったが。

「……分かった。でも、怖かったらすぐに僕の名前を呼んで。それから……、ずっと手を握っていて」

 最後の言葉に躊躇いを残して、夜宵に伝えた。それを彼女は、大きく肯いて納得してくれた。そして、手を握り合った。夜宵の頬が少しだけ赤くなっていたのは、気のせいだったのだろうか。

「では、行きますよ。燈嘉さんは、カードを忘れずに」

 僕達は、朔乃の言葉で異世界への一歩を踏み出した。


     ★☆★☆★


 数秒間、目を瞑った。その間、僕は涼馬について考えてみた。

 幼い頃から僕と夜宵は一緒に遊んでいた。朔乃も年齢が六歳に成ると、一緒に遊ぶようになった。しかし、涼馬という存在には会った事が無い。

 夜宵の家へ行った時も、彼女の父親だけが男性で、他に男は居なかった。涼馬の存在は先程、初めて知ったのだ。夜宵と朔乃に兄が居る事、夜宵がその兄を『兄様』と呼んでいる事。全てが初体験だった。

 いつもは華奢な体から発せられる大きな声に驚かされていたが、あんな言葉も口から出すのだと、僕は知らなかった。

 朔乃は昔から夜宵の事を『姉様』と呼んでいる。もうその事については、体が慣れ始めている。どうせ、なぜかを聞いても朔乃は『燈嘉さんには関係の無い事です』とでも言うのだろう。ほとんどの言動が理解出来てしまう朔乃は、こちらからの質問もきっと分かっている筈。だから、今までそれを聞かなかったのだ。

 涼馬は、本当に夜宵と朔乃の兄なのだろうか。ただの親戚で、兄にあたるだけではないのか。父親や母親の兄弟ではないのだろうか。

 小さな疑問が頭に浮かぶが、数秒でそれを解決するのは困難に等しい。

 諦めて、僕は異世界という場所で瞼を上げた。



 そこは辺り一面、花畑だった。そして、僕は目を疑った。初めて来た異世界は、銀世界だったからだ。

 咄嗟に後ろを振り返った。僕の背後には夜宵が居る筈だった。が、ただ花畑が広がっていて、夜宵の姿はどこにも無かった。

「や、夜宵……?」

 頭の中はもう焦りでいっぱいになっていた。死んでも守る、とつい先程、決心したばかりなのに、夜宵をこんなに早く見失ってしまった。この後、偽物の〝夜宵〟が出て来ない事を祈るばかりだ。

 無意識に手を握っていると、体の奥底から聞こえるような声がした。

「カードは持っているでしょうか、樫宮燈嘉」

 アナウンスにも似たその声は、遠くに立っている朔乃の物だった。しかし、僕が知っている朔乃ではない。

「そこに居るのは朔乃か?」

 大声に近い声量で、僕は問いた。その言葉に、朔乃らしき人物は、首を縦に振った。それにしても不自然だった。

 今までは砕けた敬語を使っていたのに、今は他人に使うような敬語になっている。もう遠くに立つ朔乃とは、他人になってしまったという事なのだろうか。

 心の底で僅かな寂しさを感じながら、僕は朔乃に向かって歩き出した。歩調は決して好いとは言えない。疑ってしまう自分が、心のどこかに居るのだ。それは、何をしても消えてはくれないだろう。朔乃が現実に戻って来てくれるまでは。そして、僕が諦めるまでは。

 彼女にはあと五メートル程で到達する。しかし、そんな僕を朔乃が言葉で停止させた。

「暁夜宵はどうしたのですか。一緒に来るのではなかったのですか」

 自分の姉だというのに、朔乃はわざわざ名前を言った。心が篭っていない敬語を聞くと、何だかもやもやとした感情が湧くのが分かった。黒い煙を出して、その感情の原因が、心の中で渦巻いている。そんな感情を湧かせてしまう自分に、腹が立っていた。

「その筈だったけどな。僕がここへ来たら、居なくなってたんだ」

 苦笑しながら僕は言った。僕を見て、朔乃も笑った。

「そうですか。じゃあ、遠慮なく話を進めます」

 改まった表情で、朔乃は僕の顔を見詰め直した。そして、僕も表情を硬くした。

 これから彼女がする話とは、僕には想像が出来ない。カードについてなのか、異世界についてなのか。はたまた、現実についてなのか。その考え事も、無駄だと思い諦めた。

 僕は朔乃が口を開くのを、じっと待っていた。しかし、口を開く気配が全く無い。何かを待っているかのようにも思えるが、話を進めない理由が分からなかった。疑問が積み重なり、ついに僕から話を切り出した。

「……ねぇ、いつになったら話をするの?」

 呆れた感情が露わになった口調で言う。彼女の反応はうっすらとした物だった。そして、その後は何も言わなかった。ただ頷いているだけ。

 僕の言葉に返答してくれない事に悔しさが湧き、表情を変える。すると、それには大きな反応を示した。

 ほんの少しだけ怯んだような表情をした。夜宵と同じように、僕の心の中を読んだのだろうか。悔しさの隙間に小さな嬉しさが湧いて、口角を上げる。というか、無意識に上がってしまった。

 その事に気付かれたくなくて、僕はさっと顔を背けた。視界の端にはまだ朔乃が居る。表情までは見えないが、雰囲気で何となく分かる。

 僕が愛している夜宵とはまた違った、可憐さを持つ姿。見るのを躊躇ってしまうような、そんな姿をしている。そして、今に限ってとても短いスカートを履いている。これでは、脚が丸見えになっている。そこに僕の視線が行ってしまう。見たいと思っていないのに、見てしまう。ここに夜宵が居れば、きっと叩かれていただろう。それとも、叩かれるどころでは済まないのだろうか。

 他の事を考えて焦っていると、後ろから朔乃に似た声が聞こえた。その声は、安堵に満ちていた。

「やっと見つけた。燈嘉、どこ行ってたのよ」

 安堵に満ちていたが、怒りも感じられた。ズカズカと足音が鳴りそうな勢いで、声の主、夜宵が歩いて来た。

「私を置いて行くなんて、酷い事するようになったね」

 僕の顔を睨みながら、夜宵はそう言葉を続けた。それに僕は、反論出来ない。睨まれている事に加えて、僕を蔑むような言葉を用いてきたからだ。

 しかし、一瞬だけ落ち込みながら考えた。夜宵の言葉や口調からすると、僕が夜宵の呼び掛けを無視して、ここまで歩いて来たかのような事を言っている。もう一度、記憶を辿ってみる。

 最初から僕はここに居て、夜宵ではなく朔乃を最初に見た。後ろを振り返った時にはもう、夜宵は居なかったのだ。それより前に、僕は記憶を失ってここまで歩いて来たのか。はっきりとしない記憶にうんざりしながら、怖々と夜宵に問う事にした。

「僕がいつ、夜宵を置いて行ったって? 何か、勘違いをしてるんじゃないのか?」

 僕が恍けているように見えたのか、夜宵は眉間に深い皺を寄せた。より一層、彼女の表情が怖くなった。

 ただ誤解を解きたいだけなのに、いちいち夜宵の表情が怖くて仕方が無い。次は何を言われて僕が言葉を失うのか、予想をするだけで、寒気がした。

「勘違いなんかしてない。これは事実なんだから」

 力で捻じ伏せられるかのようにして、僕は言葉を失った。これこそ、事実だと思った。

 腕を組んで僕を睨む姿を見ていると、夜宵の部下にでもなったような錯覚に陥った。今の僕では、逆らう事すら出来ない。発言すら、ままならないのだから。

 黙ったまま、僕は彼女からの言葉を待っていた。しかし、その後に続く言葉は、何も無かった。夜宵の代わりに、朔乃が口を開いて話し始めた。

「――さて、何から話しましょうか」

 朔乃は、夜宵ではなく僕に問い掛けをしてきた。一瞬だけ戸惑い、夜宵と顔を見比べた。何から話す、とは。話題の提供を僕に求めているのか。何を話していいのか分からず、僕は俯いた。

 それに呆れたのか、朔乃は大きく溜め息を吐いた。そして、溜め息に続けてこう言った。


「燈嘉さん。あなたは、異世界の人間なんです」


 僕の目を見詰めたまま、朔乃は衝撃的な発言をした。そして、その言葉が聞こえて理解すると同時に、僕は顔を上げた。

 朔乃の言葉が真実であるならば、僕は異世界で生まれたという事になる。

 頭の中が混乱していながらも、整頓を試みた。しかし、それは上手くいかず、より一層混乱が激しくなった。他に考える事も出来ず、ただただ朔乃の言葉の意味を思い続けていた。

 僕が異世界の生まれだとすると、どうやって現実へ行ったのだろう。また、なぜ現実へ行ったのだろうか。

 分かれ道が最初からある関係で、考え方が全く違ってくる。代わりに考えてくれる人が居れば、こんな苦労も無いのだが。これこそ、猫の手も借りたい程だ。しかし、ここには猫どころか、真実を知る者は朔乃と僕しか居ない。しかも、朔乃が教えてくれないとなれば、もう自分で考える外ほか、無いだろう。

 少し頭痛を感じる脳で僕は考えた。自分の真実を知る為に、ずっと。今まで暗闇にあった真偽を、露わにする為に。

 考え続けていると、後ろから夜宵に服の裾を引っ張られている事に気が付いた。その表情は、『何をしているの?』とでも言いたげな物だった。そして、夜宵の期待には応えられないと諦め、僕は朔乃からの言葉も曖昧にした。

 はっきり言うと、実はそこまで興味は無いのだ。今はただ、カードについてを無性に知りたかった。しかし、この事を朔乃や夜宵に言う訳にはいかなかった。

 カードの存在を二人はもう知っている。だが、このカードにどんな力が秘められていて、どんな力を発揮するのかまでは知らない筈だ。知っているのは、僕だけだと過信している。夜宵の口からカードの秘密が零れたら、それは真実として僕は信じられないだろう。それ程、僕は過信しているのだ。

「そんなでたらめ、信じる訳ないだろ」

 僕は言葉を言い捨てた。心では少し気にしているが、夜宵に心配を掛ける事だけはしたくなかった。僕が異世界の人だとしたら、夜宵が独りになってしまう。それは、夜宵の敵になる事と同じようにも感じられた。

 僕が夜宵を気にしながら言うと、朔乃は鼻で笑った。馬鹿にされているのかと思いきや、彼女は僕の心意気を気に入ったようだった。

「自分の運命すら信じないと言うのですか。そこまで強い人だとは思ってませんでした」

 口調が丁寧になった朔乃に、夜宵は驚いていた。普段はもっと砕けた敬語だったが、今はもう他人のようにしか感じられない。夜宵は、自分の妹である事を証明出来るのか。

「さく、の……?」

 口を震わせながら夜宵は、妹の名前を呼んだ。しかし、朔乃は反応しない。其れどころか、夜宵の目を睨んでいる。その光景を見ている事が耐えられなくなって、僕は視線を逸らせた。

 夜宵が朔乃への道を進んでいるのが音で分かる。それでも、僕は二人を見る事は出来なかった。きっと、この後、酷い事が起こると予想してしまっていたから。

 そして、悲劇は起きた。


「それ以上、近付くな!」


 そう言ったのは朔乃だった。僕も思わず、顔を上げて彼女に視線を合わせる。夜宵は大きく目を見開き、朔乃は顔に嫌悪感を浮かべていた。そして、次に目を引いたのは朔乃が手にしている物だった。

 それは、彼女達の髪色にも似た真っ黒な拳銃だった。拳銃は、この場には最も似合わない物だった。

 朔乃は、夜宵に銃口を向けたまま、動かなくなった。

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