episode3【謎への平行線】
目に日光が当たっている事に気付き、僕は目を覚ました。一直線に僕の顔に当たっていたので、瞼を上げた瞬間は眩しくて、しっかり目覚める事が出来なかった。が、横を向くとそこで夜宵が眠っていたので、それだけで僕の目は、はっきりと覚めた。
夜宵は、大きく寝返りを打ってから目を覚ました。
「ん……」
高い声で夜宵が欠伸をすると、僕も欠伸が出た。目に溜まった涙を拭いながら、自分がどこに居るのかを確かめた。すると、そこは僕の家だった。何の変哲の無い、僕の部屋。だからこそ、ここに居るのが怖くなった。どうやってあの異世界から出て来たのか。どうやってここに着いたのか。一つの原因すら分からなかった。
夜宵を視界に留めていると、ふと彼女がこちらを向いた。そして、頬を膨らませた。理由は分からないが、とにかく可愛いという感想があった。しかし、それを夜宵に言ったら怒られてしまうだろう。分かりきっていた事だから、あえて言わなかった。
立ち上がって近くに、黒いローブを被った人物が居ないか、確認をしてみた。が、僕の隣には夜宵しか居なかった。
ローブの人物には何も聞く事が出来ていない。名前どころか、性別すら分かっていない。正体不明の人と話すのは、少しだけ抵抗があるが、文句を言っている場合では無い事は確かだ。
軽く深呼吸をして、水道から水を汲くむ。それを飲んでいると、玄関の扉が勢いよく開いた。鍵を閉めていなかったので、簡単に開いてしまったのだ。そして、そんな風に入って来る者は、一人しか居ない。
「姉様、姉様は居ますか!? ――やっぱりここに居た。早く帰りましょうよ、姉様。こんな所に居ると、病気になってしまいます」
所々、失礼な言葉を用いながら、朔乃が入って来た。やはり、という気持ちが大きかったが、きっとこの後僕は朔乃に叱られるのだろう、と思い直し黙っていた。そして、その時が訪れた。
「また連れ込んだんですか? 大学院を抜け出して、姉様を危険に晒すなど、無礼だとは思わないんですか!? 困ります、この歳になって……」
待て待て、君は僕の母親か?
朔乃の言葉に小声で文句を付けながら、僕は事情を説明する事にした。しかし、そんな事をしても反論をされるだけなのだと、僕はもう見知っていた。
「信じてはもらえないと、分かってるんだけど……」
「それなら話さないでください」
「ちょっと待って!」
僕は歯切れを悪くして話すと、朔乃がすぐに言い返してくると分かった。面倒だと思いながら、僕は単刀直入に話をした。
「僕と夜宵は今、異世界に行って来たんだ。でも、そこで夜宵の体調が悪くなって。だから、急いで戻って来たんだ」
間を置かず、僕は次々に言葉を発した。その間、朔乃は一言も声を発さなかった。彼女は本当は、空気が読めてただ姉想いの好い妹なのではないか。そう思った。
夜宵をちらりと見ると、弱々しく微笑んでいた。それを見て、僕は胸が急に苦しくなった。
僕が異世界に連れて行かなければ。あの時、しっかり止めていれば。夜宵を、こんな目に遭わせる事は無かったのだ。
自分を追い込んでいると、朔乃の声が聞こえた。彼女の声は、夜宵とは違うけれど透き通って、心を癒してくれる物だった。
「姉様は、体調が悪いのですか……。そう、ですか。――分かりました、私が看病をしますので、運んでいただけますか?」
突然、朔乃の言葉遣いが優しくなったのに驚き、僕は返事が遅れてしまった。目を合わせた朔乃は、少しだけ不満げな表情をしたが、すぐに目を逸ららせた。その顔は、赤く染まっているように感じられた。
時間差で返事をした僕は、再び朔乃が怒り出さないうちに夜宵を、運ぶ事にした。しかし、ここで問題が発生する。
僕が夜宵を抱えるのは問題無い。では、夜宵が僕に抱えられるのは、何とも思わないのだろうか。――抱き合ったから、いいのか。
過去の出来事を思い出し、僕は開き直った。きっとここでは、恥ずかしがるだろうが、嫌がりはしない筈だ。朔乃が居たとしても。
「そうだ、きっとそうだ。うん、うん」
思わず声に出してしまっていた事に気付き、僕はすぐに口を押さえた。それを朔乃は、じっと見詰めていた。心の中を読まれたのだろうか。動揺して、慌てて夜宵を抱え上げた。しかし、その状況は十秒と持たなかった。
「ちょっと、止めてよ! 自分で歩くよ、燈嘉!」
夜宵は恥ずかしがるどころか、僕の腕の上で暴れ始めたのだ。負担が何倍にもなって、僕の腕は限界を迎えた。
僕はタンスに頭を打ち付け抱えていると、夜宵が赤面状態でこちらを睨んでいた。その瞬間、僕の心臓は飛び出てしまいそうになった。
「最低、燈嘉! どこ触ってんのか、自分で分からない!? ほんと、最低だよ!」
夜宵の言葉で、自分が何をしてしまったのか気付いた。手にはまだ、彼女の体の感触が残っている。その中でも、太股の感触――。
ここまで来たら、戻る事は不可能だ。僕の最善を尽くすしか無いが……。謝って、夜宵が許してくれるかどうか。こんな天使のように美しい人を、手中から無くしてしまうなんて、勿体無い。しかも、これだけの事故で。
頭がいっぱいになった僕は全力で、土下座をした。
「ごめん、マジでごめん! 悪気は無い、わざとじゃないんだ。許してくれ、夜宵!」
深々と頭を下げても、夜宵からの言葉は無い。本心が伝わっているのか、不安になる。心の中には、それ以外の感情は無い。ただ一心で、夜宵の赦しを得たいだけなのだ。
突然、僕の目が届かない所で、ドサっという音が聞こえた。ふと、頭を上げてみると、眼前に夜宵の脚があった。部屋全体を見回すと、夜宵が倒れている事に気が付いた。
夜宵の横には、朔乃が寄り添っていたが、それでも夜宵は目を開けなかったようだ。驚いている僕の顔を、朔乃が涙目で僕よりも驚いた表情で見詰めていた。
朔乃の気持ちは分かる。僕は、この状況をどうすればいいのかが全く分からない。しかし、僕より年下の朔乃が分かる筈も無い。
とりあえず、僕は急いで夜宵の家に、彼女を運ぶ事にした。
「僕が夜宵を運ぶから、朔乃はドアを開けて」
朔乃を落ち着かせるように声を発しながら、僕はゆっくりと夜宵を抱えた。今度は、不必要な場所を触らないように。
腕の中で夜宵は、異世界に居た時のように唸り声を小さく上げていた。苦しいのはとてもよく分かる。だから、急ぎながら慎重に。
「燈嘉……。自分で、歩く、から……。下ろして、よ。ねぇ、とう――」
「駄目だ。こんな場所にお前を下ろせるかよ。少しだけ我慢してくれよな」
僕は夜宵が精一杯出したであろう言葉を遮り、玄関から外に出た。既に日が暮れ始めていて、赤く景色が色付いていた。そして、隣で朔乃が、夜宵の家の玄関を開けて待っていた。それに気付いた僕は頷いて、速くなる鼓動を抑えながらゆっくりと家の中に入った。
部屋はきれいに整頓がされており、夜宵のような甘くない上品な香りがする。そこで思わず酔ってしまいそうになる僕は、自覚をしていたので夜宵を寝かせたら、すぐに部屋に戻るつもりだった。が、それは朔乃の一言で壊された。
「姉様の看病を、任せたいのですが……。駄目、ですか?」
先程と言っている事が違うじゃないか、と思ったが言葉の意味を考えてから、思い直した。こうして、朔乃が僕を頼ってくれる事は、滅多に無い。初めて、と言っても過言では無いだろう。
夜宵が倒れたショックで涙目になっている朔乃を見ると、断れる自分にはなれないのだ。助けを求めている人を見捨てる程、僕は酷い人間ではない。そう、確信があったので、朔乃への返事は最初から決まっていた。
「看病なら任せて。じゃあ最初に……」
僕ははっきりとした返事をしてから、すぐに語尾を濁した。こんな状況に陥った事が無いので、何をすればいいのか分からないのだ。ましてや、夜宵が倒れたとなれば、全ての行動を、慎重に行わなければならない。雑にやったとすれば、それこそ朔乃に怒られてしまいそうだ。
僕が続けるであろう言葉を、朔乃はじっと待っていた。期待をされているのだろうが、そんな事をされては余計に何も出て来ない。
「とりあえず……。朔乃だけで看病してて」
僕はそれだけを言い残し、夜宵の家を出て行った。行き先はもちろん――自室。
何かがあるという訳では無いが、今は落ち着いて考える必要があると判断したのだ。
扉を開けて外に出ると、先程は夕焼けだった空が、もう真っ暗になっていた。驚いたが、僕はそんな事に構わず、自室へ滑り込んだ。
いつもは丁寧に閉める扉も、今日限りは出来なかった。脳内が焦りでいっぱいになっていて、今すぐにパンクしてしまいそうだったからだ。
「……駄目だ。あの部屋には、誘惑が多すぎる……。打ち勝てる僕じゃないんだから」
一人で呟いて、僕は自分の頬をぺちんと叩いた。加減をしたつもりだったが、自分が弱っているせいか、とても痛く感じた。まるで今、頬に赤い手の痕が付いているかのような、そんな感触がしていた。
頬を叩き、痛みを感じていると、脳内をびっしりと詰まっていた焦りが、無くなっていた。ほっとしたが、それでもあの部屋に行くには、何かの対策を練らなければならない。
僕が、大切にしてしまう人の香りがある、あの部屋について。
マスクをしたらどうだろうか。しかし、突然マスクをして行ったら、不自然だろう。それは自分でも分かっている。朔乃の表情が脳裏に浮かぶ。きっと驚きと警戒心を表した顔だろう。他に、思い付く対策は無いだろうか。
一生懸命、考え続けたが、夜宵の残り香が鼻に付いて離れない。思考回路の邪魔をして来る。忘れよう、と思う程、夜宵を意識してしまう。
そんな自分が嫌になり、頭を掻き
嫌な予感がする気持ちを抑えて、僕は再び夜宵の家に行く準備をした。そこに行くには我慢しか無いのだろう。その手段を使わざるを得ない筈だ。
僕の選択が間違いにしろ、合っているにしろ、あの部屋に行って心が揺らぐのは確かだ。その気持ちを抑える事は出来ないと、自分で分かっている。これから僕は、自滅しに行くのだ。
もう一度、僕は頬を叩き、雑に閉めた玄関の戸を静かに開けた。にも関わらず、古くなった戸は、キィと音を立てた。少しだけ怒りを抱えた僕を、眼前で朔乃が迎えた。
「燈嘉さんの言う通り、とりあえず看病の一環で、額には濡れたタオルを置いてみました。熱があるようには見えませんでしたが、一応です」
まだ朔乃の表情は、不安が占拠していた。
彼女が言う通り、夜宵に熱は無いだろう。だが、何もしないよりはまだいい。『一応』という言葉が付いていたが、流石と言うべきだ。常に姉の事を気遣っているせいか、全ての行動が早い。僕がする事では無いのかもしれないが、思わず関心してしまった。
それ故に、僕は自覚の無い行動を取ってしまった。
「偉いな、朔乃。もうそんな事をしたのか。これならきっと、朔乃だけで十分だろうな」
言葉と同時に、僕は朔乃の頭を撫でていた。気付いた頃にはもう、朔乃の顔が伏せられていた。
失礼な事をしてしまったのに気付いた僕は、すぐに手を離した。年下だからと言って、頭を撫でていいという理由にはならない。
自覚の無い行動に驚きつつも、朔乃の反応を待ってみた。すると、顔を上げた朔乃の表情は、なぜかよく分からないが、満面の笑みだった。
「……良かった。えへへ、本当に良かった」
僕は再び驚く事となった。まさか頭を撫でただけで、朔乃が喜ぶとは思っていなかったのだ。普段は夜宵を第一に考えていて、僕の事など気にしていない素振りをしている。だからこんな風に、朔乃が僕からの言葉で喜ぶなど、予想すら出来ていなかった。
しかし、そんな時間もすぐに終わってしまった。はっと、朔乃が自身の行動に気付き、一歩だけ僕から遠ざかった。その顔は、真っ赤に染まっており、幼さを醸し出していた。
「見た、よね……? はっきり言ってよ。見たんだよね?」
何かに怯えるように、朔乃は胸の前で握った拳を震わせていた。彼女の質問には、僕も体を固まらせた。
正直に言わなければいけない雰囲気だ。しかし、『イエス』と言う自信が無い。そう言ってしまったら、失礼になり、朔乃を傷付けてしまう。ならば、何と言うべきなのだろう。
悩んだ末に、僕は渋々と頭を縦にゆっくりと振った。言葉よりも柔らかくなるだろう、と考えたので、実行したまでだ。が、朔乃の反応はきっと、酷い物だろう。
「っ、やっぱり! もう駄目だ、女としての価値が無くなった……」
普段の大人っぽさはどこへ行ったのやら。いじけた様子の性格は、大人っぽさの欠片も無い。
落ち着いていると言えば落ち着いているが、冷静さは無いように感じられる。朔乃らしくない言動が目立って来たが、これも彼女の一部なのだ。だから、愛さねばならない。
納得をしようとするが、自己否定が多く出来ない。
夜宵もらしくない言動をする時があるが、冷静な行動が多い。一方の朔乃は――。
「あぁ、もう駄目! 姉様みたいに生きようと思ってたけど、やっぱり私には出来ないんだ!」
自分に失望したのか、叫び続けている。不思議に思う所がたくさんあるが、今はそっとしておこう。そう思い、僕は彼女が静かになるまで待つ事にした。
★☆★☆★
朔乃が静かになるには、一時間程の時間を要した。それまで、僕は何をして待とうかとか、夜宵の容態はどうなのかとかを考えていた。とりあえず、朔乃の傍を離れない事だけを、心に留めていた。離れてしまったら、もっと煩くなっていたかもしれない。
静かになった今を、アパートの二階からの景色が物語っていた。景色が茜色の空から、星が出ている夜空へと変化していた。時刻はもう、十八時頃なのだろうか。そんな予想すら立ち始めていた。
「ごめんなさい、取り乱してしまって……」
小さな声で話し始めた朔乃に視点を合わせると、未だに顔を伏せていた。まだ先程の出来事が、頭から離れていないのだろう。苦く、自分を不快にさせる思い出となってしまったに違いない。
朔乃を見ながら、僕は次の言葉を待っていた。続く言葉など無い筈だったのに。しかし、それは裏切られた。
「そろそろ姉様が起きると思います。入ってください……」
まだ語尾が弱々しい言葉で、彼女は僕を夜宵がいる部屋に導いた。そして、僕も断りもせずに上がった。
やはり家の中には、甘くない上品な香りが充満していて、僕の気を誘っているようだった。しかし、そんな事では僕は釣られない! そう心の中で断言すると、それに答えるように朔乃が言葉を発した。
「もしかして、香りが強いですか? 洗濯物を外に干せない関係で、柔軟剤の香りが残ってしまうんです」
なぜだか、この話を僕が聞いてはいけない気がした。なぜだろう……。そうか、女性の生理的な話だからか。しかし、それを話す朔乃もデリカシーが無い。
話題の仕方なさに頷きながら、僕は部屋の中に歩を進めた。香りが、僕の気を誘うように迫ってくるのが分かったが、これは我慢比べなのだと自分に言い聞かせて夜宵の近くへ進んだ。
朔乃の言葉とは裏腹に、夜宵はまだ起きていなかった。しかし、そんな事はどうでもいいと言わんばかりに、夜宵の寝顔は女神のように見えた。惚れ直しそうになるのを制御して、朔乃の顔をふと見た。
今にも泣きそうで、不安が満ち溢れている表情だった。それを見ている僕まで、心配になる。もういっその事、夜宵を叩き起こしてしまいたくなる。一刻でも早く、朔乃に安心した顔をさせてやりたいのだ。しかし、そんな事は簡単にはいかず。
「姉様……」
ついには両手を握り始めたのだ。祈るようにした自分の手を、力いっぱい握っている。力の入れすぎで微小ながら、震え始めている。そこには姉に対する、精一杯の想いが篭っているのだろう。
朔乃の感情を読み取って、僕は優しく肩に手を置いた。それに気付いた朔乃は、ゆっくりと振り返り、表情をより一層険しくした。まるで、何かの前兆のように。
「うわわぁぁんっ!!」
突然の事で、僕は身動きが出来なくなった。
僕の胸には、夜宵とは違う感触の体があった。夜宵と同じ漆黒の髪が、自分の胸元にある事に気が付くには、数秒の時間を要した。
思わず気持ちが爆発してしまい、泣き出してしまうのは分かる。しかし、この状況をたった今起きた夜宵に見られたら、どうなる事か……。
「燈嘉……。私の妹に、何してんのよ」
僕が優しく朔乃の頭を撫でようとすると、窓際から声が聞こえた。鈴のように響くが、重たい何かを乗せていた。その何か、とは怒りだった。
「や、夜宵……?」
声の主の名前を言うと、朔乃がばっと顔を上げて窓際を見た。そして、今度は僕ではなく夜宵の
「姉様っ! もう大丈夫なの?」
まだ涙が溜まっている目で、朔乃は夜宵を見詰めた。それに応えるように夜宵は、優しく微笑んだ。大切な妹を包み込むように。
その間、僕は体を硬直させなければならなかった。きっとこの後に、夜宵からの叱責があると予想が出来ていたから。
気持ちを沈めていると、ズボンのポケットの中で、何かが動いたような気がした。そこには、父親から受け継いだカードが入っている筈。
夜宵の視線を確認しながら、カードを取り出してみた。本当は何も無い筈だったが、今回は青白い光ではなく、赤い光を帯び始めていた。この色が何を示しているのかは、僕には全く分からないが、何かを伝えようとしているのは確かだと思った。
異世界で行ったように、僕は念を投じてみた。すると、さらに光の強さを増して輝いた。が、それは三秒程で消えてしまった。
そのまま再び赤い光を帯びる事無く、通常の姿へと戻った。僕の頭の中は、混乱していた。訳が分からなかった。何の為に発光したのか。何の為に僕を不安にさせたのか。これこそ、何かの前兆のように感じられた。
仕方なく、カードをポケットに戻すと、女性二人からの視線を強く感じた。びくっと、体を震えさせて顔を上げると、酷くこちらを睨んでいた。もしや、このパターン……。
「朔乃の頭を撫でたって本当なの、燈嘉。はっきり答えて」
内心ではやっぱりという感情が湧いた。結局何をしても、僕はこの運命を辿る事になるのだ。異世界で夜宵を助けても、現実世界で朔乃を褒めても。
言葉の威圧に負けて、僕は渋々口を開いた。
「はい、撫でました……」
そう答えると、夜宵が今にでも立ち上がりそうな姿勢をとった。それを
ここから問題が発展する事は予想通りだ。しかし、対策は練っていない。完全に追い込まれた、という焦りを前面に出すと、夜宵の表情が和らいだ。
「ま、私が怒る事じゃないけどね。朔乃は嬉しかったみたいだし、さ。私も助けてもらったし……」
ほんの少しだけ顔を赤らめながら、夜宵は言った。もう体調の方は、大丈夫なように見える。しかし、ここでその話題を出すには少々の勇気が必要だった。
「そ、そっか」
合いの手のような返事を僕がすると、夜宵と朔乃が同じタイミングで肯いた。朔乃は、本当に怒ってはいなかったようだ。
安堵の表情が表に出ると、夜宵が改まった顔で僕に問いた。
「ねぇ、率直な疑問なんだけど、異世界って何なの?」
異世界に行った事が無い朔乃を目の前にして言う事では無いだろう、と一瞬だけ思ったが、それには僕も同じ意見だった。
「僕も分からない。突然、あの変な人が来たから……。あの人についても知りたいんだけどね」
僕がそう言うと、ここでは喋しゃべらない筈の朔乃が話し始めた。それは、疑問ではなく答えだった。
「異世界では、戦わなくちゃいけないんだよ。そこに脚を付いた人、全員が」
朔乃の言葉で、僕と夜宵の視線はそちらに向いた。なぜ、朔乃が異世界について知っているのだろう。聞きたかったが、恐怖感が募って聞けなかった。僕の代わりに、夜宵が朔乃に質問した。
「な……、何で朔乃が知ってるの?」
朔乃の答えを僕と夜宵はじっと黙って待った。姉からの質問を受けて、朔乃は深い笑みを美しい顔に刻んだ。そして、一言だけ。
「異世界の使者だから、だよ」
僕達を驚愕へと陥れたその言葉は、続きを失くした。そして、姉である夜宵と僕の目の前から、煙のようにして姿を消した。
まるで、さよならの挨拶をして行ったかのように。
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