episode1【幼少期の記憶】

 大学二年生で二十歳となった僕は、学園生活を満喫していた。行事も勉学も、全てが上手く進み、心地が好かった。

 そんな中、僕はふと父から受け継いだ一枚のカードが気になった。きっかけと言える物は無い。しかし、思い出したのも何かの縁だと思い、僕は引き出しに入れたままのカードに触れた。すると、幼い頃の記憶が蘇り、激しい頭痛を訴えさせた。

 脳内には、同い年位の女の子と僕の父らしき人物。女の子が話すと、同時にノイズが掛かって言葉を聞き取れない。

『――だからね。今度こそ――に、い――』

 何を話していたのか、見当も付かない。何かの約束をしたのだろうか。小指を交わして結んでいる。

 そして、頭痛から開放された僕は自分の小指を見詰めた。

 この指に何の誓いを賭けたのか。僕と話していた女の子は誰だったのか。

 全てが疑問として浮かび上がる。しかし、全ての答えが分からない。確認をしようと思っても、その相手が居ない。女の子を捜すとしても時間が掛かり過ぎ、父にはもう会う事は出来ない。どんな手を使ったとしても見つかる筈は無いのだ。

 そう分かっていたが、僕は何だか胸騒ぎがして、じっとしていられなくなった。

 身支度を早急に済ませ、僕はアパートの玄関から飛び出す。

「ひゃっ!」

「うぐっ……」

 目の前から声が聞こえたと思った時には、もう遅かった。僕は、柔らかく温かい物に顔を包まれた。それが誰の物なのか、どんな物なのかを理解するには、随分と後の事になった。



「で、謝ってはくれないの? それとも、私が悪いの?」

 再び僕は家の中に入る。同時に隣に住む女性までもが入って来る。

 女性は、腕を組んで偉そうな態度を作る。とりあえず僕は冷蔵庫からお茶を取り出すが、それも女性に睨まれていて緊張感が途切れない。

「だから、ごめんってば」

 ゴトという音と共に、僕は床に座り込む。机の上に置かれたガラスのコップは、中のお茶を揺らしている。しかし、そんな事には彼女は目も暮れず、僕を睨み続けている。悪い事をしたと自覚しているが、鋭い目線で僕を見なくても……。

 玄関から飛び出した僕は、しっかり前を見ずに歩き出そうとした。そして、先程の声。突然出て行ったのは僕だが、避けなかった相手も悪いのでは、と思う。しかし、それは事故が起きなかったらの話だ。僕は男の罪としては結構重い事をしてしまった。僕が飛び出した矢先に飛び込んだのは、女性の胸元。避けてくれれば僕もここまで気負う事は無かったのだが、運悪く僕は女性にしつこく叱られる事になった。口論にはなっていない、筈だ。

 女性もが黙り込んでしまって、僕は反省の機会を与えられているのだと実感した。が、すぐに僕は気持ちを切り替えて女性に話し掛ける。

「ねぇ、一つ聞きたい事があるんだけど、いい?」

「駄目」

 鋭い視線と鋭い言葉が僕の胸に突き刺さった。即答で答えられると、返す言葉が見つからないのは事実なのだ。

 それでも僕は諦めずに頼んだ。女性の心が折れるまで、粘ってやろうと心に決めた。

「頼む! これは僕の人生が懸かってるんだ。頼む、夜宵やよい

 僕が〝夜宵〟と呼んだ女性は瞑っていた目をうっすらと開き、僕の目を見た。目が合った僕達は、数分間そのままで居た。目を逸らそうともしなかった。

 僕の中では夜宵が天使のように見えている。怒った表情も、流石と言える程綺麗だ。

 夜宵の姿の見惚れていると、彼女が口を開いた。

「はぁ……。内容によっては打ち切るけどね。それでもいいの、燈嘉とうか?」

 僕は夜宵に認められたような気がして、とても嬉しくなった。何度も肯き、彼女の手を握って喜んだ。その様子を夜宵は、弱った笑みで見守っていてくれた。

「――えと、早速だけど。幼い頃の記憶って、まだある?」

 単刀直入に聞きすぎたのか、夜宵は言葉に困っていた。これは僕が悪いと思う。改めて僕は説明を兼ねて質問をする。

「ふと思い出したんだけど、幼い頃に何か約束したような気がするんだ。でも、その相手が思い出せなくて……。夜宵なら何か知ってるかな、と思ってさ」

 お茶を飲みながら夜宵は僕の話を聞いていた。しかし、それも数分で終わってしまった。

「ごめん、私も思い出せない。約束なんて、ただの遊びでしたんじゃない?」

 夜宵の柔軟な考えに僕は納得をした。遊びで約束など沢山する。大事な物を今頃思い出すなど、大きな理由があると思う。が、約束をした相手が夜宵ではなくて良かったと、心の片隅で安心している自分が居る。そして、もし約束の相手が夜宵だったとしても覚えていなくて良かったと思う。夜宵が覚えていたとしたら、今頃は殴られて終わっているだろうから。

 夜宵が出した答えに僕は小さく肯き、弱々しく会話を続けた。

「そう、だよな。遊びかもしれないのを、思い出すなんておかしいよな。サンキュー、夜宵」

「うん。――でさ、燈嘉は反省出来たの?」

 満面の笑みで夜宵が言葉を返す。その言葉の意味は僕にとって恐怖でしかなかった。喉が詰まったかのように声が出ない。助けを呼ぼうと思っても不可能な状況に陥った。冷や汗が額に浮かぶ。汗のせいで体がどんどん冷える。まるで、死ぬ準備をしているかのようだ。そして、僕に恐怖の瞬間が訪れた。

 ドンドンドンッ!!

 突然、玄関の扉を叩かれて、僕は心臓を跳ね上がらせた。心臓が跳ねるのを実感するとは、今の今まで思う事も予想する事も無かった。

 余裕があった夜宵が玄関に向かう。もし、扉の向こうに立っているのが大家おおやだとしたら誤解を招いてしまう。そう思ったが、まだ夜宵からの威圧が無くならなくて体を動かす事が出来ない。

「はい?」

 当然かのように夜宵が玄関の扉を開ける。すると、またもや高い声が聞こえた。その声は夜宵の物と瓜二つだった。

「姉様! 何で家で待っててくれないんですかぁ? しかも、男の部屋なんて……。早く出て来てください!」

 インターフォンがあるにも関わらず玄関の扉を強く叩いたのは、夜宵の妹、朔乃さくのだった。

 朔乃は、ズカズカと僕の家に入って来る。強気な夜宵を押すなど、どれ程気が強いのだろう、と疑問に思ったが、それを体験する気にはならなかった。間違っても、体験したいとは思わない。

「あんた、どういうつもり!? 姉様をこんな所に連れ込んで、何をしようと思ってたのか分からないけど、あんたなんかに姉様は渡さないわ!」

 突然朔乃に胸倉を掴まれて、僕はほんの少しだけ体が浮いた。僕は年下に胸倉を掴まれた事と、体が浮いた事に驚いた。

 目を丸くした僕を見て、朔乃は言葉を続けた。

「こんな奴に姉様を取られたなんて思うと、吐き気がするわ。早く帰りましょ、姉様」

 声のトーンを変えて、朔乃は夜宵に振り返った。その反動で僕は体を床に打ち付けてしまう。鈍い音が立つと、朔乃がこの世の物とは思えない形相でこちらを向いた。しかし、それだけで何も言わずに部屋を出て行った。最後に夜宵が寂しそうな表情を残して、口を開いた。

「ごめんね、燈嘉。また、今度……」

 それを言った途端、朔乃に手を引かれたのか、すぐに体を引っ込めた。

 夜宵が寂しそうな表情をする理由が分からなかった。いつでも会えるのに、寂しい事は無いだろう。そう思ったが、ちゃんとした夜宵の気持ちが理解出来なかった。

 そして、結局僕と夜宵の事故は無かった事になるのだろうか。先程、起こってしまった事故の内容を思い出すと、今でも顔が熱くなるのが自分でも分かった。心なしか、鼓動も速まっている。どうにかして、此の鼓動を落ち着かせなければ。その一心で、僕は作業に取り掛かった。


     ★☆★☆★


 翌日。僕が通う大学院は通常授業が行われた。午前中に講義、午後は自学習となった。

 クラスが同じ夜宵は、来ていなかった。なぜかとても気になり、メールをしても返事が返って来ない。講義中に何度も携帯電話を確認したが、一通もメールが来なかった。

 午後になるという時間に僕は最後のメールを打った。

『授業が終わったら家に行く。』

 そう打ってメールを確認するのは止めた。が、その返信はすぐに帰って来た。不自然だと思ったが、せっかく返してくれたメールに文句を付けてはいけない、と心を入れ替えて確認をする。

『今日は大学院には行けない用事があるの。家に行っても居ないからね』

 簡潔な文章が並んでいた。不意に、心の中に寂しさという感情が浮かび上がった。僕が夜宵を欲しているというのか。それとも、僕以外に夜宵を触れさせたくないという願望なのか。自分の心臓に問い掛ける。しかし、返答は無い。あっても対処に困るだけなのだが。

 メールの文を夜宵本人から言われたらどうだろう。もっと感情が溢れていたのだろうか。僕の感情は抑えられていたのだろうか。無意識に握り拳を作る。それを開くと、指先が微かに震えていた。脳内では動揺しているのか、と自分の中で予想が付いた。きっと僕は、夜宵が居ないと何も出来ないという証拠なのだろう。

 昨日ふと思い出したカードについても解決はしておらず、そのまま放置してしまっている。解決する方法は何一つとして頭に浮かんでいないのだが。

 大学院に居るにも関わらず、僕はカードと夜宵の事で頭をいっぱいにしていた。こんな状況で指名されたら、答えられる筈も無い。

 僕は机の下でひっそりと貧乏揺すりをしている。何か焦っているという事だ。

 カードが気になるのか、夜宵が気になるのか、自分では判断が付かない。どちらも心配して損は無いと思うが、それでも片方を選ばなければならない気がした。

 午前中は全て講義になっている為、教室を抜ける事が出来ない。体調不良として抜ける事は可能なのかもしれないが、仮病として保健室に行くのは勘弁だ。そこで熱を測ると言われたら、計画はすぐに終わってしまう。そんな終わり方は嫌だ。

 脳がカードと夜宵の事以外に使われる事は無いと思われた。が、隣からトントンと肩を叩かれ、そちらを向く。すると、そこに座っていた男子は歯が見えるまで笑って口を開いた。その口から出る言葉は予想が出来なかった。

「お前、彼女の事を考えてたんだろ。顔がにやけてんぞ」

 そう言って、僕の腕を肘で突付いて来た。周りの人達からは大人しいと言われる僕でも、そんな時は大声を出してしまうものだった。

 普段は小声で話すが、男子に茶化された今はそんな状況では無くなった。

「にやけてないしっ! 第一、彼女とか居ないから!」

 近くの人が僕の顔を見た。そして、それに気付いた僕は顔を俯かせた。

 呼び名は違えど、性別は同じだ。ただそれだけの事で僕は心が動いてしまったのか、と思うとなぜだが気恥ずかしい気持ちになった。

 女性の事を考えていて表情に笑みが浮かぶなど、そこらの男子と変わりは無い。しかし、女性といっても種類があるのではないか。

 隣の男子が言ったように彼女や、愛人。その他にも幼馴染の女の子や、女友達。たくさんの種類の中に夜宵も入っているのだ。

 ――本当にそうなのか?

 夜宵はただの友達なのか。僕の世話をしてくれるただの隣人なのか。夜宵は僕の彼女ではない。僕にとって夜宵とはどんな存在なのか。自分でも分からなくなった。

 考え続けていると、講義終了のチャイムが鳴った。と、共に僕は走って教室を飛び出した。今度は誰にもぶつからずに行く事が出来た。

 僕が向かった先は、大学院の門。理由は分からないが、夜宵に会いたくて仕方が無かった。しかし、その思考を止める者が居た。

「どこに行くんですか、樫宮先輩。まさかとは思いますけど、姉様の所に行くのではないですよね?」

 たった一つの単語で、背後で誰が話しているのかが分かってしまった。僕の思考を止めたのは――。

 暁朔乃。夜宵の妹。

 足を止められて悔しいと思ったが、止められるのは当然だと思い直した。朔乃が夜宵について必死になる事は、もう知っている。昨日もそんな情景を見た。

 呆れながら僕は朔乃の目を見詰め、小さく開いた口で溜め息を吐いた。

「夜宵の所に行っちゃいけないなんて決まりは無いでしょ、暁さん。第一、君には関係の無い事なんだよ。分かってる?」

 ここでは嘘でも上級生という事になる僕は、軽く朔乃を睨んだ。下級生の朔乃は一瞬だけ怯んだようにも見えたが、それでも強い眼差しで僕を見ていた。

 何かを言いたげだったが、僕はそれを無視して再び門を目指して駆け出した。


     ★☆★☆★


 ピンポーン。ピンポーン。

 夜宵の家のインターフォンが僕の指によって鳴らされる。しかし、部屋からは誰も出て来ない。次はインターフォンではなく、ドアを叩く。

 ドンドンドン。ドンドンドン。

 それでも部屋からは誰も出て来ない。本当に夜宵は居ないのだろうか。それならなぜ、朔乃だけが大学院に来ているのだろうか。普段はどこへ行くにも夜宵と朔乃は一緒だった筈なのに。今日だけは別という事なのか。色々な事が矛盾していて、結果的には思考内の迷子になってしまう。

 その場にしゃがみ込んで頭を抱えていると、急に背後から誰の物か分からない声が聞こえた。

「燈嘉……? そ、そこで何してんの……?」

 僕が振り返ると目には、揺れている漆黒の髪とこの世の物とは思えない美しい顔が映った。――夜宵だった。

 僕は咄嗟に立ち上がり、大きく目を見開いた。眼前に夜宵が居る事が信じられなかった。が、それは夜宵も同じだろう。僕にメールで伝えた筈なのに、僕がここに居る。訳が分からない筈だ。

 僕と夜宵が黙り込んだまま、数秒の時間が過ぎる。そこに入り込む物は何一つとして無かった。いつもは朔乃が入って来たり、近所の人が話し掛けて来たりするが、今は無かった。

 やがてその沈黙も限界が近付き、夜宵が先に口を開いた。

「ねぇ、何で……?」

 消えてしまいそうな程、小さな声で夜宵は言葉を発した。語尾がうっすらとしか聞こえない。しかし、そうしてしまっているのは、僕だ。僕がここに来てしまったから、夜宵が戸惑っている。

 僕はとりあえず謝らなくては、と思い強く拳を作った。夜宵を裏切った罪は一生消えてはくれないだろう。

「――ごめん、言う事聞かなくて」

「だから、何でここに居るのって聞いてるじゃん……」

 夜宵が小さな声量で僕に問う。が、僕の口からは何も出て来ない。眼前に立つ相手に見合った言葉が、上手く選べないのだ。間違った物を使えば、夜宵はもっと傷付いてしまうだろう。それだけは避けたいと思っている。なのに、優しい物が出て来ない。頭にすら浮かばない。この場に合った言葉とは、何だろう。

 僕が、長い沈黙を作り出す。それを夜宵は待ち続けた。いつかは僕が答える、と思って。信じて。しかし、その信じる心を、僕は裏切らなければならない。

 強く握っていた拳を、だんだん解いて行く。それと同時に、夜宵に伝えるべき言葉が頭の中に浮かんで来る。そして、上手く自分らしさを乗せて、僕が美少女だと思っている人に伝える。

「夜宵に会いたかった、から。心配になって……」

 あやふやな語尾で言葉を切った。何とか伝わったようで、夜宵はゆっくりと地面に視線を落とした。照れているのだろうか。ただ戸惑っているだけなのか。表情が見えないので、気持ちを知る事が出来ない。

 そのまま再びの沈黙が訪れる。僕から話す事は何も無く、夜宵が話す番なのだが、相変わらず彼女は黙ったまま。しかし突然、夜宵が視線を上げずに半歩だけ歩み寄った。きっとこの時間は僕と夜宵だけの物だ。誰も入る事を許されない二人だけの時間。

 僕は温かな春の風に乗って来た、夜宵の匂いに目を閉じた。昔から変わらない夜宵らしさ。これこそ夜宵だと言い切れる物。僕が彼女を好きになった理由の一つがこの匂いだ。飾らない、上品な匂い。それに釣られた僕は、ミツバチなのかもしれない。

 春風が止み、小鳥のさえずりが聞こえても夜宵は黙ったままだ。先程よりも顔が上がったようにも感じるが、まだ表情は見えない。これはしつこく粘るしか無いのか……? 一瞬だけそう思うと、視線を夜宵から外した。すると、視界の端で何かが動いたような気がした。

 その瞬間、僕の視界が揺らいだ。原因は、分からない。急な事だったので、確認をする間も無かったのだ。

 しっかり体の揺れが止まってから、目線を下にずらす。すると、驚くべき事に、夜宵が僕の体にしがみ付いていた。理由なんて考えられなかった。僕はただ、どんどん速くなる鼓動に、焦るばかりだった。

 真っ赤になっているであろう僕の顔は、夜宵の姿を見る事すら出来なかった。目線を逸らせて、彼女の言葉を待つだけしか、今の僕には不可能だった。

 そしてようやく、夜宵は僕に告げた。

「馬鹿でしょ、燈嘉。会いたいなんて、思ってもないくせに、意地っ張りなんだから……。でも、ありがとぅ、そこまで私の事を気に掛けてくれてるなんて、思ってなかったよ」

 動き出した時間を、夜宵は噛み締めるように僕をより一層強く抱いた。斜め上から見える夜宵の表情は、どこか懐かしく、見ていて落ち着くような物だった。

 こうして抱き合っているにも関わらず、夜宵は赤面になっていなかった。きっと本当に僕は、彼女に感謝されているのだろう。そう思うと、不意に笑みが零れた。そして、僕も優しく夜宵を抱いた。

 と、その時。どこからとも無く声が聞こえた。それは僕でも、夜宵でもない声。聞いた事の無い筈の声だったが、幼い頃に聞いた事があるような、そんな気がした。

「あなた達の将来、占って差し上げましょうか? きっと幸せになれる事でしょう」

 声がした方を見ると、そこには、黒いローブを被かぶった人が居た。フードの下から見える口は、にやりと笑ったまま動かない。そして、僕と夜宵の体も動かない。

 僕は直感的に思った。


 こいつは敵だ、と。

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