遠き春

 瞼を閉じる。

 遺伝子コードシミュレータを終了。硝子に映る幾多の四角が消え、世界は闇に包まれた。

 しばし、世界はその残光に取り残される。それもしばらくするうちに消える。所詮は情報の塊が網膜に残っただけの、偽りの光。

 瞳を閉ざすだけで【ライブラリ】との接続は簡単に切れる。特殊な事情のあるニュゥと自分以外、他の五人は後天的施術によってコンタクトを網膜に入れているからこうはいかない。だが、代替品のメガネがあるのだし、わざわざ自分の身体に手を加える必要もない。

 少なくとも、そう信じている。

 椅子から降りて、金属製の床にぺたりと腰を落とす。スクリーン焼けした瞳が眼球の血管を映すようになるまでじっと上を向く。肩が痛い。背中もだ。息を吐く。

 闇の中だ。まだ、光は無い。見えない。

 しかし、あるはずだ。なければならない。どこかに。光が。



「アロー、トイトイ」

館内放送用のスピーカーからニュゥの声で覚醒する。朝の時間か。

「ハロー、マン」

二人でクスクスと笑いあう。

「ディガンマ。また寝てないな?」

「いいや、お前が声を掛けるまではぐっすりさ」

硬い床の上にあった尻と、冷たい壁にもたれていた背中が痛い。

「そんなことより、ゴッドモードで検証してくれ。結果を聞いたら寝る」

「あのな」

声色に混じるささやかな憤慨。どうやら説教モードを起動させてしまったようだ。肩をすくめる。

「DC権限にも限度がある。干渉拒否したって【ライブラリ】が必要と判断したら何らかの手段に出るはずだ。それに」

「それに?」

「全人口の七分の一が過労で死亡しました、なんて笑えない」

なんのことはない。いつものただのお節介だ。

「全く口うるさい女だ。で、やるのか? やらないなら自分で検証しなきゃならん。これ以上お前に構っている暇は無くなる。作業量は膨大だからな」

「OKチューマ、取引しよう。あんたは寝る。私はその間にゴッドモードで検証。これでどうだ」

「我らが女神様はなかなか交渉上手のようだ」

立ち上がり、欠伸を一つ。徹夜は堪える。

「眠いんじゃないか」

「これで眠気を覚えないならそいつは脳がいかれてるだろうな」

眠気でよろけながらも端末室を後にした。


 無機質な四角い筒の中を歩く。

 早朝だろうと昼間だろうと、深夜であっても廊下の景色は変わらない。見慣れた、もとい見飽きた閉鎖空間。退屈しのぎになるのは友人との会話くらいなものだ。それも欠伸を止める程度の効果しかない。話し上手がいるわけではない。聞き上手も多くない。それでも、その無駄な時間は尊い。

 否、無駄こそ、無益こそ生に必要なものだ。機能だけでは、人間とは言えない。だから、毎日少しの期待を込めて歩く。


「相変わらず性が出るな」

「あんたこそ。隈がひどいぞ」

後頭部に声をかける。振り向く長身。頭一つ以上違う身長。ロゥはこちらを見下ろし、脚を止める。早朝のジョギングだろう。いつもの時間。いつもの習慣。

「おっと、すまんな。話があるわけじゃない。お前の日課を邪魔する気もない」

あぁ、と足首を回しながら、

「【ライブラリ】、時間」

一瞬、間。

「ちょうどいいクールダウンになる」

「そうか」

二人で歩く。

こつこつと反響。黙々と時間が経つ。歩幅が違う。早歩きで合わせる。相手は己と戦っている人間だ。敵に克つための努力を無駄にさせたくない。

唐突に、

「研究はどうだ」

声。見上げれば目が合う。

「今、ニュゥに検証してもらっている」

「難しい、んだよな。あんたが苦戦するくらいだしな」

「敵がいると、目標があると面白い。お前もそうだろう」

瞬間、ぎらつく瞳。鳶色。にたり、と犬歯。牙のような表情。環境や道具を自らの代わりに進化させてきた人間にとって、重要度の低下した器官。不要を研ぎ澄ます純粋。

「おう。お互い様だ」

違う。こちらは必要を求める生存戦略。だが、

「戦う相手に届いていないところまでな」

「……あぁ。ま、お互い頑張ろう」

 忸怩たる思いは同じだった。

 敵は人類。その歴史。二人の唯一にして最大の共通点。



 ベッドから起き上がってみれば、珍しく雪が降っている。机の上には昼食と思しきもの。代わり映えのない食料。

「【ライブラリ】。イオタか?」

「昼食を運んできた際に窓を開けたのはイオタです。ニュゥからメールが届いています」

「開けろ」

 検証データだ。ぱらぱらとスライドし、眺める。失敗も成功も必ず次に繋がる。行き当たりばったりの進化では間に合わない。最適の存在を創造し、役目が終われば速やかに絶滅する。それが理想ではあるのだが。

「【ライブラリ】。ニュゥに電話をかけろ」

「はい」

 開かれる別の窓。繋がると同時に、聞き覚えのある曲。クスィのところにいるらしい。

 音の反響という機能を追求した美しい壁を背景に、目を閉じた三人が現れる。

 しばし、無言。穏やかな音楽だけがゆっくりと流れる。クスィが己のポテンシャルを最大限に発揮する、それだけの空間。完璧な機能を完全に果たす一室。その中心にある巨大なピアノの一部。彼の演奏が止んでも、しばらく口を開くものはいなかった。


「邪魔してしまったか」

問えば、心地よい疲弊と満足感を顔に浮かべたクスィが答える。

「聞いてくれて嬉しいよ」

他の二人は夢の中だ。

「しかし勿体ないな。物の価値がわからんやつらではないと思っていたが」

すやすやと眠るイオタとニュゥ。二人は途中で寝てしまい、こちらは途中からしか聞いていない。音楽は途切れること無く最初から最後まで鑑賞してこその芸術のはずだ。

「二人とも可愛い顔して寝てる」

当の本人はあまり気にしていないようだ。

「世界一贅沢な子守唄だな」

「イオタはニュゥの星図の時も寝てたみたいだから」

「子供か」

呆れる。

「子供さ」

意外なほどに真剣な表情だった。

「クスィ?」

「ぼくらは子供だよ。人類の。だから、揺り籠の中にいる」

「はん」

鼻で笑う。こいつからしてみれば、挑発のつもりなど微塵もない発言だろう。だが、それは間違いだ。

「叡智の炎だかなんだか知らんが、そんなもので自滅したバカ共の作った揺り籠なんぞ、すぐ無用の長物にしてやる」

決意。唯一にして最大の。

「それが、菌類パターン以外の浄化手段を探す理由?」

頷く。

「そうだ。現行のままでは三千年も掛かるんだぞ。自分が生きている間に結果の出ない清浄化なぞ、それこそ無駄だ」

「無意味とは言わないんだね」

「それは後年の人間が勝手に決める」

それよりも、それよりも、だ。

「クスィ。お前にも外に出てやってみたいことが何かあるだろう」

微笑で返される。

「こちらにはあるぞ」

「聞いてみたいな」

「……散歩だ。くだらん望みだ」

「けど、それはとても大事なことだよ」

その通りだ。望みのない人生など、やっていられるか。

「他のやつらやお前はどうなんだ」

首肯の代わりに再び問う。

「イオタは、本物の花を見てみたい」

あいつらしい。あの花。紛い物でも十分だと思った。それはこちらの凡百極まる感性での話なのか。否、あいつも、本物の何かを見たがっている。

「ニュゥは、夜空を見上げてみたい」

少々意外な望みだった。イオタと同じ、もしかしたらそれ以上に、実物への訴求は強いのかもしれない。そして恐らく、肉眼で、だ。あいつの眼を治す手段は存在するのかもしれない。しかし、それは誰も研究すらしていない。それは、外に出る目処が立ってからでいい。それが皆の意見として一致していた。

「キィは、本の匂いを嗅いでみたい」

妙な話だ。

「図書館にいくらでもあるだろう」

「完璧な空調では、特有の黴臭さが発生しないんじゃないかな」

そういうものか。

「ロゥは、土の地面を歩いてみたい」

にこりと笑うクスィ。こいつ、

「君と同じだよ」

見透かされている。くそ。

「ラムダは、特に何もないんだって」

「そうだろうな。あいつは【ライブラリ】さえあれば他はどうでも良さそうだ」

僅かに。

「クスィ?」

「なんだい?

表情が曇った、気がした。気の所為か。いつもと変わらぬ顔でこちらを見据えている。

「お前の望みはなんだ」

「自然の雨の音を、聞いてみたい」

なるほど。

「窓からの景色じゃ、不満か」

「イオタと同じだね」

蒼い瞳が揺れた。

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